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炒り豆と「だめ叔父」



                 マメ・思いつくまま(3)

                ☆炒り豆と「だめ叔父」

 子どものころの節分、このことについては本稿の第一部で書いたが(註1)、夕方になるとまず大豆を炒る。その匂いが台所中にひろがる。本当にうまそうないい匂いに食べたくなり、豆を炒っている祖母か母に頼んでいくつか手の上に乗っけてもらう。当然のことながら熱い。火傷しないように手のひらの上で転がしながら冷まし、口の中に入れる。固い、でも何とか噛める。香ばしくておいしい。しかしそれは一瞬だけ、すぐに豆は冷えてしまい、口には入れやすくなるが、固くてなかなか噛めなくなる。なんとか噛んでもまずい。うまいのは熱いうちだけ、一瞬だ。にもかかわらず忘れられない味である。
 この炒り大豆で思い出すことがある。

 私の就学前の年(1940年)だったと思う、たまたま病気療養で家でぶらぶらしていたT叔父と二人だけで家にいたときのことである。このT叔父については前に述べているが(註2)、16、7歳のころだったのではなかろうか、何を思ったのか大豆を砂糖で炒ってこっそり食べようと言う。お菓子など甘いものがなくなってきていた時代、おやつなどめったにもらえない時代、もちろん私は賛成、大いに期待した。
 叔父は小屋に収納している大豆をすくって持ってきて鍋に入れ、台所で炒り始めた。いい匂いがする。さらに叔父はそれに砂糖を入れてかきまわし始めた。これまたいい匂いである。期待は高まる。しかしなかなかうまく焼けない、そのうち焦げ臭くなってくる。叔父はそれを冷やそうと水を入れた。ところが砂糖が飴のようになり、その飴に大豆が粘り、さらに鍋にくっついてうまくかきまぜられない。そのうち焦げ付いてきた。あわてて火からおろしたら冷えてますます飴が固まり、鍋の底にみんなくっついてとれない。何とかはがして飴のくっついた豆を食べた。飴状となって表面にくっついている砂糖はなめると甘かったが、豆にくっついてうまく食べられず、豆といっしょに食べようとしても豆がもう固くなっていて食えたものではない。幼い私は四粒か五粒しか食べられなかったのではなかったろうか。叔父もあまり食べられなかった。
 料理もまともにしたことのない叔父のこと、まさに大失敗作、あの後叔父はどう始末をしたのか、夕方帰ってきた祖父母に見つかって怒られなかったか、まったく覚えていない。それより何より何でこんなことをいまだに覚えているのか、これもわからない。
 このことはT叔父のドジさ加減を示すものだが、こうした叔父のドジと言うかついていないというか、もう一つ思い出す話がある。

 やはり同じ頃、叔父が就学前の私を連れてちょっと遠くの(歩いてだから遠く感じたのだろうが)川に魚釣りに出かけた。もちろんあまり釣れない。前にも述べたように大きな川や沼もない地域だからだ。それでも小鮒を数匹ようやく釣り上げ、家の庭の池に放そうとバケツに入れて帰途についた。暑い日だった。何分か歩いているうちにバケツの水が温かくなってきた。このままでは小鮒が死ぬのではないか心配だと叔父はいう。たまたま途中に私たちが沼と呼んでいた農業用のため池があり、そこで養魚をしていたので、参考のためにその水温を測ってみようと立ち寄り、叔父が沼の水に手を突っ込んだ。間の悪いことに、ちょうどそのとき養魚の番人が現れ、何をしているかとどなる。そしてバケツに入っている小鮒を見てこの沼から釣ったのだろう、けしからんと怒る。そうではないといくら説明してもだめ、せっかく釣った魚は全部取り上げられ、沼に放されてしまった。いくら抗議しても何しろこちらは若僧と子ども、証拠もなし、結局とぼとぼと田んぼの中を家まで歩いて帰った。あのときの口惜しさと惨めさ、忘れられない。

 ともかくT叔父は何をやってもついていないというか今風に言うとドジというか、家の中でもいつも祖父母や父に怒られていた。しかも病弱でまともに働けないとくる。まさにこの叔父は「だめ叔父」(註2)の典型だった。
 それでもようやく病気が治り、近くにできた軍需工場で働き始めた頃、軍隊に行く年齢となり、兵隊検査を受けた。当然病弱だから丙種合格、これでは兵隊に行けない、つまり徴兵されない。今までがそうだった。
 ところが赤紙つまり召集令状が来た。前に述べたように叔父はようやく一人前として認められた、兵隊に行くことができると欣喜雀躍、胸を張って山形の連隊に入隊した(註2)。他の叔父たちの出征の時と同様に家の前で壮行式、いろいろな挨拶のあと、最後に叔父が長兄(私の父)に教わって暗記していた挨拶をし、「お国のためにがんばって戦ってきますので、銃後の守りをよろしくお願いします」で終えて解散、祝出征ののぼり旗を立てて町内会や国防婦人会の十数人で行列を組んで連隊に向かって歩いて行った。私は家の前で見送り、連隊まではいかなかったが。
 それから数ヶ月後、どこか戦地に送られることになった。いうまでもなくどこに行くかは軍事機密だが、何日の何時の列車で山形駅を出発するという知らせが叔父からあった。それで、会えるかどうかわからないが見送りに行ってみようと父といっしょに駅前に行った(註3)。駅前の広場はもう見送りの人でいっぱい、しかも夜だから暗くてなかなか探せない。父が大きな声で叔父の姓名を何度か呼んだ。どこからか「おう」という声がし、ようやく軍服姿の叔父が現れ、何とか会うことができた。人混みにもまれながら数分くらいいたろうか、やがて発車時間、叔父たち兵士は駅構内に入り、別れと言うことになった。
 あのときの暗い山形駅前の異常な熱気を帯びた家族、兵士の人混みとざわめき、そのなかで叫ぶ父の大きな呼び声、いまだに忘れられない。
 これがT叔父との最後の別れとなった。中国の戦地に行き、そのまま帰って来なかった。身体の弱いT叔父のこと、当然外地での厳しい軍役に耐えられず野戦病院に入院、敗戦の翌日戦病死してしまったのである。あのとき叔父といっしょに列車に乗って中国に行った兵士たち、あのうち何人生きて帰ってきたのだろうか、ふとそんなことを考えるときがある。

 戦後、見知らぬ人がT叔父が帰ってきたかと訪ねてきた。死んだと言うとびっくり、戦地でいっしょになり、ともに山形だと言うので仲良くなったが、部隊が違ったので途中で別れることになり、そのとき山形に帰ったら会おうと約束をした、そして住所をお互いに教えあった、何とか帰ってきたので会いに来てみたというのである。仏壇の前に座り、残念だったと何度も何度も嘆いていた。それからときどき訪ねてくるようになり、電気屋に勤めたというので、祖父母はときどきそこから電気製品を買っていたようだが、やがて行き来も途絶えてしまった。

 私が駅前から出征を見送った三人の叔父のうち一番下のM叔父だけが生きて帰ってきた(註4)。そのM叔父がいつだったかこんなことを言ったことがある。
 もしもT叔父が無事帰ってきたら「だめ叔父」で両親(私にとっては祖父母)に苦労をかけただろう、ところが戦死してくれた、そして遺族年金を両親に遺してくれた、いい親孝行をしたことになると。
 「だめ叔父」とは、婿の口もなく、よそで働く口もなく、土地もなくて分家させるわけにもいかず、家に残って厄介者扱いされた次三男のことを私たちの地域で言った(註5)のだが、真実に近かったかもしれない。M叔父のその言葉と頭に浮かんだT叔父の姿、そしてかつての次三男問題の深刻さが私の胸をぎゅっと縮め、何とも言葉がでなかった。

 もうこのT叔父の事を覚えているものはほとんどいなくなった。私も、怒られている叔父、失敗している叔父、しかも病気ばかりしている叔父、こんな姿しか覚えていない。生きて帰ってきても「だめ叔父」で終わったのかもしれないのだが、このT叔父についての私の記憶はどんどん薄れていく。まだ覚えているものの一つがこんなことだ。まったく何ということのないことなのだが、なぜか脳裏に強烈に焼き付いていていまだに離れないのである。
 今年で戦後70年、T叔父そして同じく中国で戦死したK叔父の七〇回忌ということになるが、こんなに年月が経ってしまったのかと改めて驚く。当然のことながらあのころの記憶は脳裏から消えつつあり、やがてまったくなくなるだろう。それは私ばかりでない。こうしたなかで、圧倒的多数となりつつある戦争を知らない世代に戦前戦後の姿が、真実が伝えられなくなり、それどころか戦前の大日本帝国が、戦争が、そしてアメリカが大好きな政治家たちによって捻じ曲げて伝えられ、やがてまた戦争へと進んでいく、こんな風にだけはなってもらいたくないのだが。

 話が脇道にそれてしまったが、大豆を炒るということでは「耳開(みみあ)げ」という行事があった。これについては前に述べている(註6)ので省略するが、もう一つ、「きな粉」が炒り大豆と関連している。次回はそれについて思いついたことを書いてみる。

(註)
1.11年1月26日掲載・本稿第一部「☆季節の行事、祭り」(3段落)参照
2.10年12月28日掲載・本稿第一部「☆身売り、だめ叔父、貧富格差」(3段落)参照
3.11年2月7日掲載・本稿第一部「☆もんぺ姿、人の取り上げ」(4段落)参照
4.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(5段落)参照
5.その背景や実態等については下記の本稿記事を参照されたい。
  10年12月25日掲載・本稿第一部「☆いえの相続―宿命と特権―」
  10年12月27日掲載・ 同 上  「☆北海道へ、満州へ」
  10年12月28日掲載・  同 上   「☆身売り、だめ叔父、貧富格差」
6.11年1月26日掲載・本稿第一部「ひとときのゆとり(3) ☆季節の行事、祭り」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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