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貧乏・簡便食だった納豆




                   マメ・思いつくまま(6)

                 ☆貧乏・簡便食だった納豆

 いうまでもなく納豆は蒸した大豆を納豆菌で発酵させたもので、私の小さいころは「藁苞(わらづと)」に入った納豆を八百屋や納豆売りから買ってとくに朝飯のおかずとして食べたものだった。もちろん、餅をつくと納豆餅にして食べた。
 しかし戦時中の食糧不足、生産・流通統制で買って手に入れることは難しくなった。それでだろう、敗戦前後のある年の冬、祖母が納豆をつくり始めた。自家産の大豆を蒸し、それを稲わらでつくったつとのなかに入れ、風呂敷に包み、それをこたつの中(もちろん直接火の当たらない場所)に入れた。こうして加温し、一昼夜(だったと思うのだが記憶はさだかではない)保温しておいたわらつとを祖母が出したら、何と、中の豆が糸をひいているではないか。納豆ができているのである。ただ豆を蒸して藁の中に入れただけなのにである。不思議に思ったものだが、稲わらにはそもそも納豆菌が付着しており、それが大豆に移行し、増殖して発酵し、納豆ができるのだと知ったのはかなり後になってからだった。といってもこの自家製の納豆、いつも食べる納豆よりは色が悪く、糸も粘りも少なく、うまくなかった。私は一口食べてやめてしまった。祖母の技術が未熟だったのか、いい納豆菌ではなかったからなのか、材料の豆が悪かったのかよくわからない。二~三度つくったような気がするのだが、家族の評判が悪かったせいか、市販の納豆が出回るようになったせいかわからないが、そのうちやめてしまった。

 ちょっとここで脱線、こたつの中で保温すると今言ったが、こたつはその昔の雪国の保温器、加温器だった。
 たとえばご飯の保温に使った。冬の朝炊いたご飯をそのままにしておいたらお昼には冷たくなって食べられなくなってしまう。それで、お釜からおひつにご飯を移し、おひつを小さい薄い綿布団でくるみ、さらにそれを風呂敷で包んでこたつのかけ布団の中に入れ、わきの方において保温しておく。こうしてお昼に温かいご飯が食べられるようにする。
 これなどはその典型で、何かあるとこたつで温め、また保温したものだった(註1)。

 戦後何年かしてそんな苦労をしなくとも納豆が食べられるようになったが、いうまでもなく納豆はまず醤油を入れて混ぜ、それをご飯にかけて、つまりご飯といっしょに食べる。
 問題はそのときの醤油の量だ。普通は味付け程度にちょっぴり納豆にかける。ところが戦前戦後の私の生家は違った。大きなどんぶりに入れた納豆に、醤油をたっぷり入れる。だから醤油に納豆が浮いていた。それをご飯にかけて食べる。極端にいうと、醤油ご飯の上に納豆が何粒か載っているということになる。それが戦前戦後の生家の納豆ご飯だった(註2)。家族数が多く。しかも金もない、それでみんながたっぷり食べられるほどの納豆が買えず、醤油で増量するしかなかったからだろう。納豆が安く買えるようになった頃には醤油の量が減ったからである。
 もちろん納豆と醤油だけでなく、ネギの収穫の時期にはそれにネギを刻んで入れる。また、ダイコンやナガイモのある時期には大根おろしやトロロに納豆を入れて食べる。そのときの中心は大根おろしであり、トロロであり、納豆はそのなかに浮いている。ネギや大根おろしの辛みと納豆がうまくあって、またトロロの味と納豆の味がからんでさらに食欲が出てご飯がすすんだものだった。
 そんな薬味がなくとも、おろしなどなくとも、納豆+醤油だけでご飯の十分なおかずになった。他におかずがなくともそれだけでご飯が食べられた。
 しかも納豆は他のおかずと比べて安い。健康にもいいと言われている。食卓に出すのに手間もかからない。朝の忙しいときなどは本当に便利だ。まさに簡便食である。だから納豆は多くの場合朝食のおかずとして食卓に載った。そのさい不便なのは納豆の臭い、とくにネギを入れた場合の臭いが口臭となって残ることだ。朝飯のおかずが納豆だとみんなにすぐわかったものだった。
 家内が小学生の頃、通学路の途中にある同級生の家に毎朝立ち寄って学校にいっしょに行っていた。朝、戸口のところから声をかけると、一間だけの家なので家族全員が食卓をかこんでご飯を食べている姿がすぐ前に見える。もちろんおかずも見える。納豆と味噌汁だ。それが毎朝欠かさず、ほかにおかずはない。うまそうに納豆ご飯をみんなで食べている。小さい頃納豆がきらいで食べなかった家内はそれが不思議でたまらなかったという。
 納豆は貧乏人が毎日食べるもの、まさに納豆ごはんは貧乏食、簡便食だった。

 そんな納豆もさきほど述べたように戦中戦後の一時期食べられなくなったが、少なくとも戦後二年目には、子どもの納豆売りが朝早く売り歩いていたのを記憶していることからして、納豆の復活は早かったと思われる。それだけ需要が多く、また納豆屋も多かったのだろう。
 やがてわらつとの納豆が姿を消し、三角に折った経木の中に入れた納豆が売られるようになった。これはかさばらずにすむことや、わらにくっついた納豆粒をとる苦労がなくなるなどで非常に便利だったが、現在は発泡スチロール容器入り、取り扱いやすい上に冷蔵庫に入れて保存もできるなど、さらに便利になった。

 私の貧乏学生時代、自炊のときは納豆がおかずという場合が多かった。安いし、手がかからないし、まさに簡便食、しかもそれだけあればご飯のおかずとして十分だったからである。
 卵が相対的に安く手に入るようになったころ、納豆に生卵を入れ、醤油で食べるという贅沢をしたものだが、ちょっとくどいのであきてしまい、それ以後はあまり食べなくなった。
 中年を過ぎた頃からではなかろうか、家内が健康にいいからと納豆をよく食べるようになったが、私は食べる気がしなかった。出張で旅館に泊まると朝食に必ずといっていいほど納豆が出るが、ほとんど残した。
 でも納豆汁だけは食べた。このことについては前に述べている(註3)ので省略するが、これは大好きだった。

 今から20年くらい前のことである、場所がどこでだったか、なぜだったかわからないが、旅館の朝の食卓に出ている納豆が突然食べたくなった。しかも醤油なしでかきまわしもせずそのままで食べたくなったのである。食べてみた。けっこううまいではないか。かきまわさないのであっさりしており、今のは昔と違って臭みも少なくなり、食べやすくもなっていることもあるのかもしれないが。いや、先祖返りしたのかもしれない。もちろんたくさん食べたら塩味がないからあきてくる、一口で十分である。それからくせになった。わが家の朝食で納豆が出ると、まず私が一口だけそのままで食べ、それから家内がねぎとだし醤油をかけて食べるようになった。
 こんなことで、いつごろからだったろうか(とくに私の定年後だと思うのだが)、わが家の冷蔵庫には必ず納豆が入っているようになった。そしてなくなりそうになると生協ストアから補充する。家内について買い物に行くようになってから納豆の棚も見るようになったが、大粒とか小粒とか、ひき割り、国産大豆等々さまざまな種類の納豆がたくさん並んでいる。これだけ並んでいるということは需要がかなりあること、若い人も食べているだろうこと、貧乏人の納豆から抜け出したことを示すもの、これはうれしい。
 聞くところによると最近は西日本でも納豆を食べるようになったとのこと、喜ばしいかぎりである。ぜひとも全国で食べてもらいたいものだ。
 そのさいにはできるかぎり国産大豆を使った納豆にしてもらいたいものである。さらに外国にも日本の納豆をひろめてもらいたい。

 80年代半ばころ、カナダからの留学生が初対面のあいさつで「私は納豆を食べます」と言った。みんなびっくり、なにしろあの匂いとネバネバの触感、欧米人にもっとも嫌われる日本食と聞いていたからだ。それを食べる、まさに知日派、もちろん日本語はしゃべれる、みんなすぐに彼と仲良くなった。
 一年くらいしてかなり親しくなってから聞いてみた、本当に納豆が好きなのかと。そしたら彼はいう、「食べられるけどそれほど好きではない、でも納豆を食べると言うと日本人はみんな好感をもってくれる、それで初対面の日本の人にはそう言うようにしているのだ」と。
 きっとそんなことだろうと思っていたのだが、最近は外国でも納豆を好む人が多くなりつつあるとのこと、健康にいい発酵食品、日本流の米飯での食べ方はもちろん、おいしい納豆サンド・ハンバーグなども開発して、ぜひ世界中に広めてほしいものである。

 わらつとに入った納豆、独特の臭いがしたものだったが、もう何年食べていないだろうか。現在の流通機構には合わないし、不便でもあるし、稲わらが容易に手に入らない時代でもあり、もう無理なのだろうが、もう一度食べて見たい。年寄りの懐古趣味でしかないのだろうが。

(註)
1.これらのことについては下記の本稿掲載記事でも触れているので参照されたい。
  11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(2段落)、
  12年͡7月11日掲載・本稿第四部「☆冬の寒さ対策の今昔」(2~3段落)、
  13年8月12日掲載・本稿第六部「☆冬と野菜」(2段落)
2.このことは前に書いたような気がするのだが、どこに書いたか思い出せない。もしかしたら書かなかったかもしれない。もしも書いていたら重複することになるが、これも私の高齢化の進展のいたすところ、これからもあるかもしれないけれども、お許し願いたい。
3.11年9月26日掲載・本稿第三部「☆食の地域性」(1段落)参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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