Entries

戦争とむらの子どもたち(2)

  

             ☆土地の取り上げ、自給自足

 人に続いて、土地も国に取り上げられた。
 一九四三年、日本飛行機山形工場(日飛・「にっぴ」と省略して呼ばれた)が私の生家の近くにつくられることとなり、その敷地として広大な農地がただ同然で取り上げられ、生家の田畑も四分の一くらい取られることとなったのである。これには当然反対できない。反対などしたら非国民として特高に引っ張られる。
 東北の他の市町村のなかにも軍用地や軍需工場用地として農地や林地を取り上げられた(正確に言えば有無を言わさず安く買い上げられたということなのだが)ところがかなりあった。青森県の三沢基地などがその典型で、戦後それは返還されることなく、米軍と自衛隊の基地としていまだに使われている。

 私の生家にとってはこれが明治以来三度目の土地買収であった。一度目は明治末の県立農事試験場の設置による土地の借り上げ、二度目は昭和初期に家のすぐ前に新設された小学校の敷地のための土地買収である。この二度目の時に桑畑がほとんどなくなり、それで養蚕をやめ(だから私の小さい頃は蚕具がかなり残っていた)、畑は野菜を中心に栽培することにしたようである。そして注文に応じて市内のお得意さんや八百屋に売り、東京などにも出荷して収入を得ることにした。米はどうやって売っていたのかわからない。物心ついた頃は供出制(政府の定めた量を政府の定めた価格で政府が農家から強制的に買い上げる制度)になっていたからである。土地が転用されるのは都市近郊のさだめでしようがないのだが、それを集約的な近郊野菜への切り替えと農地の購入で何とか農業を続けてきた。
 しかし、この三度目の土地取り上げには参ったようである。減った面積で大家族を養っていけるか悩み、父は日飛の工場に働きに行こうかと迷ったという。
 土地を取り上げられるどころか、家屋まで壊される家もあった。軍事施設や工場の近くの家は、爆撃に遭って燃えればその施設等に延焼させる危険性があるからと強制的に立ち退かされ、破壊された。敗戦の年、軍需工場に接収された私の小学校の前の家屋もすべて破壊され、がらんとした空き地になってしまった。

 日飛の工場建設は急ピッチで進められた。やがて、張り巡らされた塀の中からピーピーと呼び子が鳴り、続いてジャンと金属を叩いたような大きな音がし、それが何度も何度も繰り返し聞こえるようになつた。徴用や学徒動員の人たちの機械操作の訓練だったようだが、私たち子どもにはその調子のいい音が面白く、みんなでピーピージャン、ピーピージャンと言いながら遊んだものだった。
 そのうち本格的な飛行機の生産が始まった。それから何ヶ月くらい過ぎてからだろうか、ある夜、その工場が火事になった。プロパンガスか飛行機のタイヤかが爆発したのだろう、すさまじい破裂音が何度も何度も聞こえ、真っ赤な炎が火の粉が天高く舞い上がる。サイレンが鳴る、半鐘が鳴る、「飛行機を出すのを手伝え」、「飛行機を運べ」、大きな声で叫びながら走って歩く人がいる。爆撃にでも遭ったのかと思ったくらいの大騒ぎだった。それでも幸いなことに一般家屋には延焼しないで何とか鎮火した。
 スパイが放火したらしい、工員が隠れて吸ったタバコから火が出たらしいなどと子どもたちは噂したものだったが、本当のところは私たちにはわからなかった。
 何しろ戦争遂行に不可欠な軍需工場、すぐに復旧工事が始まり、やがて生産が再開された。

 この日飛の工場をわきにみながら、残された田畑で何とか生きていこうと親たちは働いた。そして何とか食べていけた。食うという点では都会のような苦労はしなかった。周辺の農家もそうだった。食糧を生産する農業をなりわいとしているのだから、たとえ供出で政府に持って行かれても、ともかく最低限食うことは出来、飢えに苦しむことはなかったのである。
 しかも戦争で不足するようになったものを自分の家でつくることができた。
 もちろん、それ以前にも自給できるものはほとんど自給していた。自分の家で生産できるものは生産する、よそから買うのはもったいないと、多種多様の作物、家畜を栽培・飼育し、また加工して自給してきた。私の生家でも、米はもちろん、麦類、豆類、芋類、各種野菜、ナタネ、ゴマ、麻、ホウキグサ等々を栽培し、家畜を飼育し、味噌、漬物、各種生産資材等を加工し、販売用・自給用にしていた。さらにはウドやフキも栽培しており、これが山菜で山で採れるものだなどということを若い頃はまったく知らなかった。
 ただし、私の生まれた頃は綿などの工芸作物、アワやキビなどの雑穀は生産しなくなっていた。ところが、戦争による物資不足は、そうしたものの生産を復活させた。それどころか、気象条件からして生産の難しいものまでも生産しようとした。
 まず、衣類不足を補うために綿を家の前の畑につくった。私はそのとき初めて綿の花と実を見た。本当にわずかしか栽培せず、まさに自家用だったのだが、その綿を何に使ったのかはわからない。
 ところで、この綿の栽培を祖父母は経験していた。山形県内陸の特産だった紅花、綿、ハッカ、麻等の工芸作物を生家でも明治の半ば頃までつくっていたらしいからである。しかし、外国からの低価格の綿糸の大量輸入で綿はだめになった。紅花も化学染料の普及などで売れなくなった。それにかわるものとして輸出作物のハッカを増やした。ところがその生産は北海道、とくに網走管内の産地に負け、やめざるを得なくなった。一方、網走管内の野付牛町(現在の北見市)などは世界市場の七〇%を占めるほどに生産を伸ばした。実はそのハッカは山形から旭川・湧別を経て一九〇一(明治三十四)年ごろ持ち込まれたものだった。それを網走で知ったときはちょっと驚いた。もんぺにしろハッカにしろ私の故郷の山形から網走管内に持ち込まれていたのである。偶然にもその網走に私の第二の職場があり、そこに住むことになったが、何か不思議な縁で結ばれていたのだろう。それにしても、こうした北海道農業によって山形の畑作物は変えざるを得なくなり、私の生家の近くでは近郊野菜などに切り替えた。ところが戦争はかつて栽培していて一度は駆逐された綿を復活させたのである。
 さらに戦争は、もうつくるのをやめていたキビ、モロコシ、アワ、ハトムギ等の雑穀も復活させ、家の前の畑に本当にわずかだがつくった。ただし、食べた記憶はない。ハトムギをお茶の代わりに飲んだのを覚えているだけだ。むだに捨てるわけはないし、当時の食糧事情からして家畜に食わせるわけもないので、ともかく食べたのだろう。何かに混ぜて食べたから、あるいは加工したから、わからなかったのかもしれない。それとも単に忘れてしまっただけなのだろうか。
 復活させたばかりでなく、新たに導入したものもあった。サトウキビがそうだった。砂糖が買えなくなったので、気象条件からしてこれまで栽培したことがないのにつくることにしたのである。当然のことながら沖縄のようにはいかず、やせ細った茎にしかならなかったが、噛むと青臭い甘さが口の中にひろがった。それを絞って砂糖をつくった。また麦芽で水飴をつくった。こうして糖分を補給しようとした。もちろんこんなことで砂糖不足を補えるわけはなく、砂糖の代わりに干し柿を料理に使ったりもしたものだった。
 魚は本当にたまにしか手に入らなくなっており、家で飼っている鶏の卵(病気のときくらいしか食べられなかったが)、山羊の乳、子どもたちのとってくるつぶ(たにし)、どじょう、いなごなどの自給物で動物蛋白をとるしかなかった。
 こうした私の生家と同じように、当時の農家はもの不足や食糧不足に対応するための自給生産の拡大に取り組んだ。
 しかし、自由にこうした生産に取り組めたわけではない。栽培する作物の種類や面積などは国から規制されたからだ。たとえば果樹や桑、花木などは不要不急のものだとして栽培が制限され、麦等の食糧となる作物に転換させられたり、サツマイモの作付面積拡大を強要されたりしたのである。
 同時に、国は小作料を統制し、また食料を統制して一定の価格を補償するという政策を展開した。
 こうして国は食糧増産を図ったが、戦争による生産資材不足と労力不足は収量を低下させた。そこに生産物の低価格での半強制的な供出がある。当然生活は苦しくなったが、農家はともかく食べてはいけた。私の家の場合は、ご飯に他のものを入れる糧飯(かてめし)、雑炊、小麦粉でつくったすいとんなども食べたが、ともかく米の飯は食べられた。食糧不足を補うためということで、これまで食べなかったアカザとかイタドリ、ハコベなどの野草を食べた人もいたが、私は伝統的に食べていた野草以外食べなくともすんだ。
 しかも山形市は戦災を受けていない。家族を空襲で失うことはなかった。そういう面では戦争の被害をそれほど受けなかったと言っていい。しかし、やはり戦争は私の家族にも否応なしにさまざまな側面で大きな影響を与えた。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR