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大豆油、大豆粕・漁粕と農業



              マメ・思いつくまま(16)

            ☆大豆油、大豆粕・漁粕と農業

 これまで述べてきた納豆、豆腐、味噌、醤油等々、何と優れた食品なのだろうといつも感心するのだが、このことはまたその原料である大豆がいかに優れものであるかを示すものでもある。
 しかし、それにもう一つ付け加えなければならない重要なことがある。それは大豆が食用油の原料でもあることだ。
 大豆と言えば植物蛋白として知られているが、もう一つ大豆には植物油脂が含まれており、人間はそれも食用油として利用しているのである。現在は、天ぷら油やサラダ油、マヨネーズやマーガリンの原料などとして広く用いられていて油の原料としては世界で一番多く使われており、日本でも油消費量の4割近くを占め、菜種油に次ぐ存在となっている。こうした面からも大豆はいかに優れものであるかがわかる。
 それだけではない。この油を搾った後に残る粕、この大豆粕はかつては肥料として使用されて日本の農業技術に大きな影響を与えてきた。さらに戦後は飼料として利用されて日本だけでなく世界の畜産に影響を与えるまでになっている(註1)。このように私たちの食生活に重要な影響を及ぼす大豆油と大豆粕、その原料である大豆は過去も現在も日本のいや世界の政治経済を動かす大きな力をもつ存在となっているのである。このことについてはまた後で述べることにして、まず大豆油と大豆粕についての私の思い出から述べていきたい。

 生活必需品であり、また換金作物だった大豆、当然のことながらかつての農家はみんな栽培していた。もちろん私の生家でもつくっていた。しかし大豆から油を搾ってはいなかった。油を搾れるほどの大豆を生産していなかったからである。そもそも大豆の油含有量は少ないので、必要とする油を大豆から得ようとすれば大面積の大豆を生産しなければならなくなるが、そんな面積を当時の農家は持っていないし、少量の大豆を搾っても採れる油は少なく、それなら含有量の多いナタネを生産して油を搾った方がよかったのであろう。
 さらに明治以降になると大豆の大産地であった中国とくに当時の満州(中国東北部)から輸入した大豆油が、中国に対する日本の植民地支配の強化と相まって、きわめて安く買えるようになっていた。この関係は私の生まれたころの昭和初期には完全に定着しており、したがって私の生家では油は八百屋から買っていた(註2)。しかしその油が満州産だったなどということは大人になってからわかったこと、当時(小学校に入る前、戦前の頃)はそんなことを知る由もなかった。
 ただし、その油を搾った後の粕、いわゆる大豆粕は満州からの輸入であることは知っていた。
 大豆油は生の大豆を搾るのだが、搾った後に残った搾り粕つまり脂分のなくなった大豆=脱脂大豆=大豆粕には油以外の養分がそっくり残ることになる。この大豆粕はさまざまな用途で有効活用されたが、その一つに肥料用があった。私の生家も肥料用として大豆粕を購入していた。それで私は大豆粕を見ており、さらにそれが満州から来たことを記憶しているのである。前にも書いた(註3)のだが、それとちょっと重複するけれどももう一度書いてみる。

 小学校に入る前(1940年)のころだったと思う、生家の籾戸(もみど)で父たちが大豆粕(「まめかす」と呼んでいた)を外に運び出す作業をしていた。この大豆粕、幼い子どもには非常に大きく見え、しかも当時の穴あきの五銭玉(現在の五円玉を思い出してもらえればいい)のような奇妙な形をしていた。それもあってそのときの光景と大豆粕の形がいまだに忘れられないでいるのだろう、黄色と白色の粒々と粉(これが大豆の搾り粕らしいのだが)が直径50㌢、厚さ10㌢くらい(ではなかったかと思うが、子どもだから大きく見えたかもしれない)の円板状に固められ、その真ん中に五円玉のように穴(直径20㌢くらい)が空けられていたのである。そして重かった。子どもが持つのは大変だった。誰にだったか覚えていないが、何でこんな穴が開いているのかを聞いた。そしたら持ち運びしやすいようにだという。大豆粕は重いので運びにくい、そこで満州ではこのように大豆粕に穴を開け、それを何個か並べてその穴に天秤棒を通し、その前後を二人の人が担いで運搬するのだ、こうするとたくさん運べるからだというのである。なるほどと思って聞いたのだが、本当のところはどうなのかわからない(かなり後になって知ったのだが、穴の開いていない円盤状の大豆粕もあったようである)。ともかく、このとき大豆粕が満州から来ていることを聞いたのである。
 なお、これは食べられるというので試しに口に入れてみたが、おいしいものではなかった。また、作業小屋ではなく籾戸(もみど)に保管していたのはネズミに食われないようにだったろうし、春先にその固まりを細かく崩して田畑にまいたのではなかったかとも思う。
 この話を聞いたころ(昭和10年代)は大豆粕から硫安などの化学肥料におきかえられて使用量が少なくなりつつあるころだった。
 やがて太平洋戦争へと時代が進み、当然のことながら大豆粕の輸入は途絶え、それを見ることはなくなった。戦後も同じだった。戦後の中国内戦等で大豆粕の輸出入どころではなかったということもあろうが、それ以上に大きかったのは化学肥料工業の復興と発展だった。こうしたなかで大豆粕は化学肥料に完全に置き換えられ、戦後は大豆粕を見ることがなくなったのである。

 そんなことから私は大豆粕のことを完全に忘れていた。それを思い出させたのは大学院時代に取り組んだ大正末から昭和初期にかけての宮城県の農民運動に関する研究だった。
 農民運動の一つのきっかけとなった当時の凶作は天候不順に起因するが、ちょうどこのころは大豆粕・魚粕等の有機質肥料が硫安などの化学肥料に置き換えられつつある時期、つまり技術の転換期にあり、しかるにそれに対応した増収技術がまだ十分に開発されていないことが被害を増幅したのではないかということが先輩研究者たちの間で論議になっていた。そこでしばらくぶりに大豆粕という名前にぶつかったのである。
 さらに農法論・農業技術史の勉強をしていくなかで明治期に普及した大豆粕・魚粕の有機質肥料が日本の農業技術の発達に大きな役割を果たしたことを知ることとなった。
 前にも述べたように、明治以前の日本農業は作物が土地から吸収した養分を稲わら等の農業副産物、林野から採集した山野草や落ち葉、家畜や人間の糞尿等を腐熟させて投入して補充する、つまり農家もしくは農村内で自給生産することで維持されてきた(註4)。しかしそれでは奪った土地の養分をもとに戻す程度、つまり植物の吸収できる養分は前と変わりないのだから収量が大きく高まるということはない(もちろん天候により収量が高まったり低くなったりする場合もあるが)。つまり農村内部での、地域内での地力再生産には限度がある。
 そこに幕末から北海道の魚粕が、明治半ばからは満州からの大豆粕が大量にしかも低価格で供給されるようになった。
 前にも述べたように大豆粕には栄養分がたくさん入っており、肥料の三大要素と位置付けられている窒素、リン酸、カリを豊富に含んでいる。したがって当然作物の収量は高まるし、使いやすくもある。もちろん買うのだからお金はかかる。そこで当時の二大商品作物である米と桑の生産に大豆粕が肥料として用いられるようになり、その生産力を大きく高めることになるのだが、その話に入る前に大豆粕と同じく(というより先んじて)使われた魚粕の話をちょっとしておきたい。

 「魚粕(ぎよかす)」とはニシン、イワシなど大量に獲れる魚類を煮沸、圧搾して水分や脂肪を除いた粕を乾燥、粉砕したものである。私の生家の地域では「さがなかす」と呼んでおり、この言葉を私がいまだに覚えていること、叺(かます)に入っていてものすごい臭いがしていたような記憶が本当にうっすらとだがあることは、私の子どもの頃は「まめかす(大豆粕)」とともに「さがなかす」を肥料としてまだ使っていたのではないかと思う。
 この魚粕は窒素と燐酸に富む非常に優れた有機質肥料なので江戸時代半ばから肥料として使い始められたとのことである。今のように冷凍貯蔵して流通・加工するなどできない時代、大量にとれたニシンやイワシから油を搾って販売するしかなく、その搾り粕つまり魚粕がいい肥料になるということがわかるなかで魚粕を目的意識的に生産販売するようになったようである。とくにニシンが大量に捕れる蝦夷地ではこの魚粕の生産が盛んとなり、それを北前船(蝦夷地や東北・北陸など北国の物資を西国に、西国の物資を北国に日本海廻りで運送した廻船)が昆布などの海産物とともに運び、とくに瀬戸内や京阪などの綿花栽培農家に販売した。当時は木綿の需要が高まり、増産が求められていたが、綿花は何しろ肥料を多く食う作物、そこに魚粕が運ばれてきたものだから一気に普及したのである (註5)。
 このように魚粕は肥効があるのだが、遠路船で運ばれてくるために当然高価だった。だから綿花などのとくに収益の高い作物の肥料としてしか使えなかった。しかし明治になって北海道開発が進み、また交通手段が発達するなかで大量の魚粕が製造、運搬、販売されるようになり、当時の主要作物である水稲や桑等にも投入されるようになった。
 明治中期になると、それに加えて中国から大豆粕が大量に輸入されるようになり、魚粕と大豆粕と言う購入肥料、動物性・植物性有機質肥料を基礎にした農業が展開されることになるのである。
 もちろんそれはそんなに簡単にはいかなかった。多くの肥料が投入されると作物の栄養成長だけがよくなってあまり実らなくなったり(青立ちしたり)、倒伏したり、病害虫が多発したり、雑草が繁茂したりしやすくなるからである。その結果今までよりも収量が下がってしまうことになる。それでは何にもならない。
 そこで必要となるのが、肥料を多投しても青立ちしたり、倒れたりしない、また病害虫に抵抗性をもつ品種、つまり耐肥性、耐倒伏性、耐病性、耐虫性をもつ品種の開発と導入である。東北や山間部の寒冷地ではそれに耐冷性が加わる。弱弱しく育ってしまったり、実りの時期が遅くなったりしたら冷害をうけるからである。
 もう一つ必要となるのが、多くの肥料をいかに必要な時期に必要な量を散布するか、病害虫をいかにふせぐか、雑草をいかに防除するか、そのために灌排水などどのような管理をどのような時期に行うのかである。
 つまり多肥に対応して多くの収量を得るためには多肥多収品種の導入と綿密周到な肥培管理が必要となる。しかし農薬や除草剤、農業機械のない時代、肥培管理には多くの労力をかけるしかなかった。
 そこで農民はまた試験研究機関はこうした多肥多収技術の確立に取り組み、明治中期にそれを確立した。稲作に関して言えば、魚粕・大豆粕、乾田馬耕、区画整理から正条植え、塩水選までの一連の稲作技術体系が1890年代に確立し、生産力を大きく高めたのである。その技術は「明治農法」(註5)と呼ばれたが、こうした「多肥多労多収技術」は他の作物にも普及することになった。

 このように、肥料を多く投入し、それに対応した品種を開発採用し、周到綿密な管理と労働を施して多くの収量を得ようとする農業、日本農業の特質とまで言われた多肥・多労・多収農業が魚粕と大豆粕の導入を契機に明治期に確立し、やがて有機質肥料は化学肥料の多投に置き換わりながら1960年代まで続き、世界でも冠たる土地面積当たり収量=土地生産性の高さを誇ってきたのである。

 そのきっかけをつくったのが魚粕であり、北海道のニシンの豊漁だった。そしてそれを支えたのが東北からの出面さん(出稼ぎ労働者)だった。今はかつてのような浜のにぎわいはなく昔の番屋や栄華を誇ったニシン御殿が当時の面影を残すだけとなってしまったが。
 やがて大豆粕が魚粕に代って肥料の中心となり、多肥多収多労農業の確立に大きく寄与することになるのだが、その大豆粕は魚粕と違って国産品ではなかった。原料の大豆、大豆油とともに国際商品だった。そしてこれが国内外の政治経済を大きく動かすことになるのだが、次回はそれについてみてみよう。

(註)
1.なお、日本では醤油の原料としても使われている。
2.11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」(1段落)参照
3.11年4月25日掲載・本稿第二部「☆春先の田んぼの作業風景の変化」(7段落)参照
4.13年4月1日掲載・本稿第五部「☆農業と土地、地力」(2~4段落)参照
5.それまで木綿は中国からの輸入だったとのことだが、魚粕の投入による綿花の収穫増は木綿の国内自給を可能にし、麻に代わって肌触りの良い木綿を庶民に普及させたとのことである。
6.明治農法とは明治中期に確立した革新的な稲作技術体系で、改良犂、畜力耕、乾田化、区画整理、暗渠排水、魚粕・大豆粕、多肥多収品種、人力中耕除草機、正条植え、塩水選、短冊苗代等の密接に関連した一連の稲作技術体系であるが、その詳細について語ると長くなるのでここでは省略する。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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