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大豆三品と日中米関係



               マメ・思いつくまま(17)

              ☆大豆三品と日中米関係

 明治から昭和初期にかけて満州(中国東北部)は世界最大の大豆生産地域だった。それに対応して大豆搾油業も盛んであり、大豆粕が大量に生産されていた。その大豆粕が日清戦争後本格的に日本に輸入されるようになったのだが、その輸入を担った三井三菱などの財閥商社はその見返りに日本で生産した綿布(註1)を満州に輸出し、さらに大豆油と大豆を満州から買い入れてヨーロッパ諸国に輸出し、巨大な利益をあげた。その利権をさらに拡大し、また確実のものにするために、加えて満州の石炭や鉄などの資源を手に入れるために、日本は日露戦争で南満州鉄道を手に入れ、同時に関東州を貿易拠点として租借し、さらに満州事変を引き起こして傀儡国家の満州国をつくって支配するなどして植民地化を進めて行った。
 当然これは中国の人たちの抵抗を招き、また世界各国の反発を招いたが、日本はそれを反省するどころか日中戦争を始めて支配を中国全土に及ぼそうとし、さらにはアジア諸国全体に植民地支配をひろげようとして太平洋戦争に突入することになった。
 このように大豆・大豆油・大豆粕(これを称して大豆三品と言った)は戦争の一因となり、日本を崩壊の危機にさらすきっかけともなったのである。

 同時に大豆三品は日本農業に大きな影響を与えた。
 まず、大豆粕の輸入はさきに述べたように日本的特質とまで言われた多肥多収多労農業の確立の契機となった。ただし当初は日本の大豆生産に直接的な悪影響を与えなかった。明治期の大豆の作付面積は40万㌶台を維持し、それどころか1908(明治41)年には統計史上最高の49万㌶まで栽培面積を増やし、東北は山間畑作地帯の多い岩手県を中心に10万㌶を超す栽培面積を誇っていた。
 しかし、第一次世界大戦以降、日本の商社は大豆粕ばかりでなく大豆・大豆油の日本への輸入を本格化し始めた。これは当然日本の大豆生産に影響を与え、昭和初期には30万㌶台に栽培面積は減少することになった。
 さらに太平洋戦争中や戦後は輸入が途絶したために大豆不足となり、にもかかわらず大豆の栽培面積は戦争による労力不足と資材不足により20万㌶台まで落ち込むことになった。
 このように大豆は、日本の農業生産の発展に大きな刺激を与えると同時に、戦争の一因となって大豆自らをはじめとする日本農業の衰退、食糧危機を引き起こしたのである。そして国民みんなが戦争で大きな被害を受け、さらに食糧不足で苦しめられた。
 そこで戦後、こうした事態を二度と引き起こさないようにしようと民主化を進め、同時に食糧増産に取り組み、大豆生産の復活にも力を注いだ。そして1954(昭和29)年には43万㌶まで栽培面積を復活させ、東北は12万㌶へと増加させている。
 しかし、この1954年は奇しくもアメリカの大豆生産量が中国を抜いて世界一になった年でもあった。そしてこのアメリカがせっかく復活したわが国の大豆生産を衰退させ、さらには壊滅状態に追い込むようになるのである。

 ここでちょっと注意しておきたいが、アメリカは昔からの大豆生産国だったわけではない。アメリカは建国以来の綿花生産国であり、したがって植物油は綿実油でまかなっており、大豆はとくに注目されていなかったのである。ところが1915(大正4)年、綿花が害虫の被害で大打撃を受け、食用油が不足するようになった。そこでやむを得ず日本の商社から満州産の大豆油を輸入するようになった。つまり日本は西欧への大豆・大豆油の実質的な輸出国であると同時に、アメリカへの大豆油の輸出国にもなったのである。
 同時にアメリカはその広大な畑地を利用して大豆の生産に力を入れ、その搾油に取り組むようになってきた。しかもそうすれば副産物の大豆粕が得られ、それは家畜の飼料としてきわめて好適であり、畜産農家に販売できる。それで大豆・大豆油・大豆粕の生産が急激に拡大し、大豆輸出の新興国として20世紀初頭に世界市場に登場するようにもなった。
 さらに戦後、世界的な食糧不足のなかでアメリカは大豆の生産と輸出を増やし、世界一の大豆生産国となった。しかしやがて世界各国の食糧事情が好転し、アメリカの大豆は過剰生産状態となって簡単に売れなくなってきた。そこでアメリカは1956(昭和31)年から日本への大豆の輸出を急増させ、同時に貿易自由化を強要して1961年からは安く大量に輸出してきた。日本の大豆はこのアメリカ大豆の低価格と均質さにかなうわけはなかった。大豆をつくっても売れないし、売れてもきわめて安く、大豆をつくるなら何もつくらない方が得でさえあった(註2)。ましてや畔豆などつくるなら買った方が得だった。そして出稼ぎに行った方がよかった。それでみんなやめていった。
 私の生家でも60年代後半には大豆の栽培をやめ、やがて味噌作りもやめてしまった。それでも何十年と使ってきた味噌桶は捨てることなく漬物桶として使っていた。これで漬けると漬物がうまかったからである。しかし、桶の修理屋もいなくなり、古くなった桶はとうとう漬物小屋からなくなった。
 こうして大豆の作付面積は急激に減少し、70年ころの作付面積はわずか8万㌶に減ってしまった。
 それでも日本人は味噌、醤油を使わないわけにはいかないし、豆腐、納豆を食べないわけにはいかない。家庭の食卓には日本料理には欠かせないものだからである。つまり大豆の需要は減らない。しかし作付面積は減る。そうなると安いアメリカ産大豆を使った製品を食べることになる。豆腐も油揚げも味噌・醤油も、さらに大豆油もみんなアメリカ大豆でつくられる。そうなれば当然自給率は下がり、わずか3~5㌫にまで落ち込むことになった。

 ところで、かつて中国から輸入していた大豆粕だが、前にも述べたように化学肥料の登場で昭和初期から肥料としての需要は減っていた。それが戦後決定的となり、大豆粕を肥料として使うことはなくなった。したがって大豆産地のアメリカから輸入する必要はないことになるが、戦後の畜産振興と家畜の飼料用としてトウモロコシなどとともに大量に輸入されることになった。そしていまや大豆粕は現在の畜産経営にとって欠かせないものとなっている。

 なお、大豆と畜産のつながりは今に始まったわけではなく、また大豆粕を通じて始まったわけでもない。たとえば、かつてのわが国の畑作地帯・牛馬産地帯では大豆を家畜の飼料としていた。北上山地などでは秋の競り市が近くなると夏期間放牧している牛馬をおろしてきて舎飼いし、大豆などをたっぷりと与えて肉付きをよくして競りに出し、高く売ろうとしたものだった。その国産大豆がアメリカ大陸産の大豆粕に代わり、日本の大豆作は壊滅状態に近くなるのである。

 こうして大豆・大豆粕は戦前の中国依存からアメリカ依存に完全に変わることになったのだが、その結果の一つが1972、73年の大豆価格の暴騰だった。
 世界的食糧危機のなかでアメリカは自国民をまもるためにと大豆の輸出禁止措置をとり、日本に大豆がこなくなったのである。そうなれば大豆製品は店頭から消えることになる。買占め・売り惜しみがそれに拍車をかける。日本人の日常の食生活に必要不可欠のものが食卓にのぼらなくなったのだから大変な事態、何とか手に入れようとしても価格は暴騰、とてもではないが手が出ない。それに加えて、アメリカに依存していた小麦、トウモロコシ等も価格は暴騰する。家畜の餌は足りなくなる。かくして私たちの食生活は大混乱に陥れられた。ただ、米だけは自給しており、それも政府の管理のもとにおかれていたので、何とか食べてだけはいけ、餓死者は出なかったが。
 こうした事態は国民に衝撃を与えた。忘れさせられていた食糧自給という言葉を思い出させた。政府も何らかの対策をとらざるを得なくなり、麦・大豆・飼料作物の栽培を推奨し、とくに水田転作作物としてその作付けを推進するようになった(註3)。それで1980年代から大豆の作付面積は若干復活した。しかし輸入依存路線は基本的に変わりなかった。ただアメリカにのみ依存することによる危険を分散しようとブラジルなど新興国からの輸入を増やす、つまり輸入先の分散ということが変わっただけだった。

 もう一つ、国民に衝撃を与えたのは遺伝子組み換え大豆だった。1996年にアメリカでその栽培が始められ、急激にそれが拡大していったのである。そしていまや全世界の大豆作付け面積の八割を占めるにいたったとまで言われている。これに対する消費者の拒否反応は強く、そのために遺伝子組み換え大豆の表示がなされるようになり、圧倒的多数の国民はそうした大豆を用いた製品を買わないようになった(註4)。
 同時に、安全安心の国産大豆を使った食品を食べたいと言う要求も強くなり、それに対応して大豆の作付面積は増え、今は13万㌶まで回復している。
 しかし、かつての面積にははるかに及ばない。自給率もわずか6㌫でしかない。
 また作付面積の大半が転作水田での栽培であることも問題となる。かつての水田地帯が大豆作地帯となり、畑作地帯の作付面積は回復していないのである。東北で言うと、水田地帯の宮城、秋田、山形が都道府県別作付面積ではベストテンに入り、かつての大産地の岩手県はそこから落ちている。そして畑地の耕作放棄が進んでいる。
 このことは、転作奨励金なしでは、零細分散の畑地では大豆作をはじめとする畑作物の生産は成り立たないことを意味しており、したがって畑作地帯での振興つまり大豆の自給率の向上には転作奨励金並みの援助や基盤整備、畑地の利用体系の確立が必要となっていることを示しているといえよう。

 そうした問題はあっても、油糧用大豆を除く食品用大豆の自給率に関して言うと20%まで回復した。このことは評価できよう。そのためもあって国産大豆使用の豆腐や味噌などが店頭に並ぶようになった。農村部では地場産の大豆を使った味噌作りが復活したところもある。
 網走にいるとき、ご婦人のグループが手作り味噌の講習会をやるというのでさすが大豆の産地と家内が喜んで出かけた。しかし残念ながら私にはまずかった。それでその一度きりで終わってしまったが、何とかうまい味噌作りができて本当に手前味噌を並べられるようになって欲しいものである。

 話はまた大豆をめぐる国際的な関係についての話となるが、さきほど述べたようにかつて中国は世界一の大豆生産国であり、輸出国でもあった。ところが今中国は大豆の輸入国となっている。国際貿易で取扱われる大豆の80%が中国向けのものと言われているほどで群を抜いている。中国は輸出大国から輸入大国となったのである。
 これは、畜肉と油脂の消費量の増大に国産大豆の生産が対応できなくなり、大豆を輸入して油を搾り、大豆ミール(大豆粕を粉砕して作つた粉状の粒)を生産するようになったためなのだが、その輸入先はまずアメリカだった。ということは当然アメリカの穀物メジャーを通じた輸入と言うことになるが、最近では同じくアメリカの穀物メジャーを通じてブラジルなどからも輸入するようになってきている。
 こうして今中国は大豆を通じてもアメリカと切っても切れない関係になりつつある。そしてその関係が何らかの事情で切れて大豆が買えなくなったり、売れなくなったりしたら、中米双方が大混乱、政治的経済的関係に大きな影響を及ぼす恐れがある。当然それは日本の大豆の需給事情にはもちろん他の農産物、さらには政治的経済的関係にまで影響を及ぼすことになる。

 前節で述べたように、大豆は近代日本の農業、政治経済、国際関係を動かしてきた。そして今も日本のいや世界の農業を、政治経済を、地球環境を動かす大きな力を発揮している。これからもきっとそうした存在であり続けるだろう。
 Soy beanの由来が日本語にあることからわかるように、大豆は日本から欧米諸国に広まったものであるが、その大豆が何とまあすごい力を発揮し、またこれからもしていくだろうことに驚いてしまう。だけど感嘆しているだけですますわけにはいかない。
 この大豆問題は地球環境問題ともからんでいるからだ。中国をはじめとする世界的な大豆需要の増大のもとでブラジル、アルゼンチン等では穀物メジャーや日本の商社などの手で農地開発や遺伝子組み換え大豆專作化が進められ、熱帯雨林の消滅、地球温暖化、土地の荒廃等々、さまざまな問題が引き起こされているとのニュースもある。

 こんな状況下にあるにもかかわらず、大豆自給率が5~6㌫でいいのか、つくれる土地があるのにその耕作放棄が進む、そんなことでいいのか、TPPで北海道のイモ―ムギ―ビート―マメの輪作を難しくし、日本一の栽培面積を誇る北海道の大豆作を壊滅させていいのか(註5)等々、改めて考えてみる必要があろう。

(註)
1.明治になってからはインドから綿花を輸入し、紡績工場が長時間低賃金で女子労働者を雇用して木綿にし、中国等の外国に輸出して利益をあげるという形態ができあがっていた。
2.11年5月18日掲載・本稿第二部「☆消えた麦畑、菜の花畑」(2段落)参照
1.11年8月10日掲載・本稿第二部「☆転作麦・豆とソバの花」(1段落)参照
4.といっても油や醤油などは表示が義務付けられておらず、消費者の選択は困難となっており、ほとんどは遺伝子組み換え大豆使用とみられている。
5.13年1月21日掲載・本稿第五部「イモ談義(3) ☆なぜ『ジャガイモ―ムギ―ビート』?」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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