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戦争とむらの子どもたち(3)

  

            ☆国民学校、そして疎開

 戦争は私たち子どもの暮らしに大きな影響をおよぼした。
 太平洋戦争が始まって四ヶ月後の一九四二(昭和十七)年四月、私は国民学校に入学した。前の年に小学校は国民学校初等科に名称変更されていたのである。同時に教科書も大きく変えられた。
  「サイタ サイタ
   サクラガ サイタ」
  「ススメ ススメ
   ヘイタイ ススメ」
 一年生の国語の教科書の一番最初は、私たちの二年上まではこの文から始まっていたが(註)、私たち国民学校の教科書は次のようになった。
  「アカイ アカイ 
   アサヒ アサヒ」
  「ヒノマルノ ハタ
   バンザイ バンザイ」
 また、音楽の教科書には、こんな歌が新しく載った。
  「ミンナデ ベンキャウ ウレシイナ 
   コクミン ガクカウ イチネンセイ」
 この国民学校の教科書には、それ以前の教科書よりも子どもの立場に立った進歩した部分もあった(と私は思う)。一年生の「小學國語読本」は「ヨミカタ」、算数の教科書は「カズノホン」、音楽は「ウタノホン」となったり、子どもには理解の難しいかつての文語体の歌にかわって口語体の音楽的にもすぐれている歌が増えたりしたことなどはそれを示している。もちろん、前よりもさらに皇国史観、軍国主義的思想が色濃くなり、ドレミファソラシドがハニホヘトイロハに変えられたようにさらに国粋主義的になっていたのだが、そうしたなかにも子どものことを考える教師の意見、経験の蓄積が生かされていたのではなかろうか。

 世の中の雰囲気が重苦しくなりつつあったが、ともかく一、二年生の学校生活は平穏に過ぎた。軍事教練や剣道、柔道は高学年になってからのこと、三年生になって手旗信号、モールス信号の訓練をさせられる程度なので、ともかく低学年はのんびりしていた。
 もちろん、防空訓練はさせられた。まず、警戒警報(敵機が近づいているので警戒しろと注意を喚起する知らせ)、空襲警報(敵機がもう来ている、空襲に対処せよという指令の知らせ)が発令されたときの教室からの避難の訓練である。それに爆撃にあったときに身をまもる姿勢の訓練がある。耳の鼓膜が爆風でやられるのを防ぎ、目がやられるのを防ぐためにまず両耳の穴を親指でふさぎ、残った四本の指で目を覆い、さらに爆風や弾丸、破片に当たらないように腹這いになって伏せるという訓練が、教室で運動場で、暑い日寒い日関係なく、何回となく繰り返された。
 慰問袋づくりもさせられた。ときどき先生が「この時間の授業は休みにし、戦地で戦っている兵隊さんに送る慰問袋をつくるので、そこに入れる手紙や絵を書きなさい」と言う。慰問袋とは国外の戦場にいる兵隊を慰めるためということで日用品や食べ物、雑誌、学童の書いた作文や絵などを入れて送る袋のことで、婦人会や学校などがつくって軍に送り、軍はそれを外地にいる兵士に無差別に配るというものだった。

 ある時、近くにある分家の屋敷裏を借家している人が私の家に慌てて飛んできた。中国の戦場にいる息子から手紙があり、そこに次のようなことが書いてあったという。「慰問袋が届いた、それは山形からだった、しかも大家の本家の子どもの書いた手紙が入っていた、学校に入る前のころの顔を思い出す、とってもなつかしくうれしかった」と。驚いた。何と私のクラスのつくった慰問袋、そのなかに入れた私の手紙が、しかも誰に届くかわからないものが、偶然近所の人のところに届いたのである。その親は泣かんばかりに喜んでいた。息子が戦争から帰ってきたら改めてその偶然をいっしょに喜ぼうねと言っていたが、結局は帰ってこなかった。

 私が国民学校三年、一九四四(昭和十九)年になると、学校の雰囲気は大きく変わってきた。
 まず、高学年は山の開墾や航空機用燃料にする松根油を搾るための松の根掘りなどの勤労奉仕に駆り出されるようになった。低学年の私たちも、一度だけだったが、蔵王山麓まで鍬やシャベルを持って一時間以上山道を歩き、原野の開墾をさせられた。
 また、私たち低学年には、ヒマの栽培とヌカボ取りが任務として課せられた。
 ヒマとは唐胡麻の異称で、普通はこの種子から下剤用の蓖麻子(ヒマシ)油をとるのだが、この油の凝固点が低いので航空エンジンの潤滑油に用いることになったという。そこで、ヒマを空き地や道ばたに植え、できた種子を学校にもっていくという仕事が与えられたのである。初めて見る植物だったが、夏になったら私たちの背よりも高くなり、花が咲き、実がなった。トゲのある実をむくと、どんぐりより一回り大きくつやつやと光るこげ茶と黒の縞模様の種子が何個か出てくる。これを学校に持っていくわけだが、その固い種皮をむいてみるとすべすべした白いピーナッツのような中身が現れる。その種子は猛毒だから絶対食べてはだめとはいわれたが、本当においしそうで食べたくなったものである。
 夏休みになったら、ヌカボ(糠穂)採りが宿題となった。ヌカボは道ばたや草むらなどに生えるイネ科の雑草で、夏には葉、穂ともに三十㌢くらいの高さに叢生して伸びるが、その葉や穂の繊維は強く、簡単に切れない。それは私たち子どももよく知っていた。穂や草を両側から結ぶ、誰かがそこに足を引っかける、強いから切れない、それで転ぶ、それをみんなで笑う、こんないたずらをしていたからである。その強い繊維のヌカボを軍隊の衣服に使うのだというのである。それで、夏休みが終わるまでにこれだけ刈ってもってくるようにと目標重量(どれくらいだったかは忘れた)が定められた。しかし、子どもみんなが採るものだからあれだけあったヌカボはなくなり、しかも乾草にしたときの重量が目標なので、目標達成は本当に大変だった。それにしてもあのがさがさしたヌカボをどんな衣服に使ったのか、本当に使ったのか、いまだにわからない。
 その他、あらゆる空き地を見付けて大豆を植えるようになどなど、細かいことは忘れてしまったが、ともかく軍需物資の生産や食糧増産に子どもも動員された。
 学校の中身ばかりではない。外観も変わった。鉄筋コンクリート三階建ての私どもの小学校の屋上に、それと同じくらいの高さの木製の塔(警報塔)が建てられ、警戒警報は三分くらい長々と、空襲警報は断続的に十回、市内外に聞こえるように高々とサイレンを鳴らすようになった。
 もう一つの大きな変化は、学童疎開だった。
 山形市の子どもたちは、最初は疎開学童を受け入れる立場にたち、その翌年には自分たちも疎開学童として出て行く立場になった。

 一九四三年頃から親戚を頼って疎開してくる縁故疎開がぽつぽつと見られるようになり、同級生に東京の言葉を話すものがいるようになった。めったに聞けなかった東京弁を話す子どもたちがまぶしかった。
 翌四四年には、東京の豊島区の子どもたちが近くの寺に集団疎開し、私どもの学校に通った。五年生と六年生それぞれ一クラスで、校舎は同じでも独立して授業をしていた。
 ある日、今で言うホームスティでわが家にも六年生二人が泊まりに来た。それから仲良くなり、しょっちゅう家に遊びにきた。翌年三月卒業なので、東京に帰ることになった。帰る日、あいさつにきた二人に祖母はこっそりリュックに入れて持っていくようにと何か食べ物を渡していた。雲が重くのしかかるような曇りの真っ暗な夜、私たちは宿泊先のお寺から彼らを見送った。
 それは四五年三月十日、東京大空襲の夜だった。後で聞いたことだが、私の家に泊まった二人のうちの一人は家族全員をその夜失ったとのことだった。

 一九四五(昭和二十)年、四年生になった年、山形市は県庁所在地であり、陸軍の連隊もあるので危険だからと、市内に住む子どもも疎開させられることになった。そして疎開で不要になる(というよりさせられた)校舎は軍需工場として接収され、授業もなくなった。
 親戚縁者が農村部にない子どもたちは近くの農村に集団疎開させられたが、私の場合は山寺村(松尾芭蕉の『奥の細道』で有名な山寺のある村、後に山形市と天童市に分村合併した)にある母の実家に縁故疎開することになった。
 五月の半ば頃、私の生家から疎開する荷物もいっしょにつけた牛車に乗って父母といっしょに山寺に向かった。新しい経験が楽しくてしようがなかった。すぐ下の三年生の妹と一年生の弟と三人いっしょ、しかも慣れ親しんでいる母の実家への疎開だから、そんなに寂しいわけでもない。ましてや私たちを送ってきてくれた母も最初の三日間はいっしょにいてくれたから、寂しくなどまったくない。着いたらすぐ、楽しくて遊び回った。
 三日後に母が帰ることになり、私一人で村はずれの川のところまで見送りをし、橋のたもとで分かれた。母が少し歩いてから、母におんぶしていた一歳の弟が振り向いて私に何か言う。その姿が、母の背中が、ずんずん小さく、遠くなっていく。やがて見えなくなってから、帰路についた。とぼとぼと田んぼのなかの道路を歩いているうち、急に寂しく、悲しくなってきた。もしかしたら母や弟が戦災にあい、このまま会えなくなるのではないか、これが一生の別れだったのではないか。胸がしめつけられてきた。三日前送ってきてくれて、その日のうちに帰った父を見送りもせずに遊んでいたことが、急に悔やまれてくる。涙を抑えて家に着き、誰もいない裏の暗い部屋で声をひそめて泣いた。ちょうどその時妹がいじめられて帰ってきた。部屋に入ってきた妹は私を見て家に帰りたいと泣いた。「泣くな、泣くな」と妹に言いながら、自分も涙を流していた。
 生家から十二㌔くらいしか離れておらず、今なら車で二、三十分の距離でしかない。しかし当時は汽車に乗って三十分、それから歩いてまた四十分もかかり、汽車の本数もきわめて少ない。戦争末期になると汽車の切符はなかなか手に入らない。歩けば子どもの足では三時間以上かかる。ともかく家は遠かった。
 もちろん、東京からの疎開などから比べれば本当に近い。しかも母の実家への縁故疎開である。その私たちでさえそうだったのだから、集団疎開した子どもたちはどんな思いだっただろうか。

 それからちょうど四半世紀の時を経た一九七〇(昭和四十五)年、漫画家八木義之介の書いた『糸井ちゃん せんそうのお話 してあげる』という絵本を子どもに買ってきた。糸井ちゃんという女の子が戦争の時代にタイムスリップして、戦争中の子どもたちの姿を見て歩くという話である。
 早速子どもに読んでやった。ところが、あるところにきたら、つっかえて読めなくなってしまった。集団疎開してきた児童の一人が高熱に浮かされて、「お母さーん お母さーん」と叫びながら月夜の線路を家の方に向かって歩いていくという場面である。そこに来ると涙が出てきて、どうしても声が出なくなるのだ。
 自分も疎開の経験があり、その気持ちがわかりすぎるほどわかるからだ。生家の近くを線路が通っている。疎開先から線路さえたどって行けば迷わずに必ず恋しい家に帰れる。これが心の支えであり、線路が本当に恋しかった。その線路を歩いてでも帰りたかった。
 だから、何回読み直してもその頁に来ると泣けてきて、そこから先に進めない。そこで家内に読む役を代わってもらったものだった。

 私は疎開に関しては二重の体験をした。だから受け入れ側の気持ちも疎開してきた側の気持ちもわかる。
 よく疎開していじめられたという話を聞く。しかし、受け入れ側はそれなりに歓迎したのである。ただ当時の社会的条件から集落内の狭い社会に閉じこめられているため、都会人に対する扱い方、言い方がわからない。東京言葉にどう応対していいかわからない。だから無愛想にならざるを得ない。疎開者の東京弁も、しぐさも、衣服もズックも、何もかもまぶしかった。まぶしいものからは目をそむける。逃げる。あまりにもまぶしすぎると瞬間的にたたき落とそうとする。それがいじめと取られることもあったのではないか。子どもの場合などは、乱暴な言葉を使い、粗暴な態度をとって親愛の情を示すこともあるのである。
 もちろんいじめがまったくなかったとは思わない。たしかに意地の悪い人間もいただろうとは思う。
 しかし、そうでなくてさえ食い扶持が少ないところに、多くの人間が農村にきたので自分の食い扶持が少なくなるということから意地悪にならざるを得なかったということも考えて欲しい。

 食糧の買い出しに農家に行く。そのときに冷たく断られた。そう言って農家を恨む人がいる。お腹をすかした子どもたちが待っている食べ物を売ってくれなかった農家を恨みに思う気持ちはよくわかる。
 しかし農家も辛いのだ。供出や小作料で生産物の大半を取られた上に、自分の家族に加えて疎開してきたあるいは引き揚げてきた親族とその家族の食糧の面倒は見なければならない。さらに親戚や義理のある知人からの前々からの予約依頼にも応えなければならない。もう売ってやりたくとも売るものがないのである。そうはいっても現物が目の前にあるではないかと言われるかもしれない。しかしそれはもう使い道、行き先が決まっているものなのだ。その事情を一々説明するのはきわめて大変である。ましてや農家は口べただ。それで農家は冷たい、意地悪だと思われる。これもやむを得ないかもしれない。それでもやはりこうした農家の事情もわかって欲しいものだと思う。
 わかるもわからぬもない、ともかくこちらは今食うものすらなく飢えに苦しんでいたのだ、そう言っていまだに農家を恨む人がいる。やむを得ないとは思うが、悲しい、辛い。恨むべきは、飢えをもたらした戦争であり、その戦争を引き起こした日本の政治経済体制のはずなのだが。

(註)「サイタ サイタ サクラガ サイタ」の後は「コイ コイ シロ コイ」だったはずだとの指摘が、これを読んだ先輩からあった。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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