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小豆餡から見た私たちのその昔



               マメ・思いつくまま(19)

            ☆小豆餡から見た私たちのその昔

  これまで述べてきた「大豆」、いうまでもなくこの読みはダイズである。そしてこの「ダイズ」が日常の会話の中で用いられ、同時に和名(生物等の学名に対応してつくられた日本語での公式名称)ともなっている。
 この大豆に対応する栽培植物として「小豆」がある。この読みはショウズであるが、小豆の一般的な呼び名や和名はショウズではなく「アズキ」である。また英名はazuki beanである。
 漢字で小豆と書き、ショウズと呼んでいるのになぜ和名・英名・通称がアズキなのか、これはよくわからない。もしかするとこんなことかもしれない。
 ダイズという呼び名は「大豆」という漢字からきたもの、つまり中国読みであるが、それがそのまま使われたということは日本で栽培された大豆は中国からわたってきた種であることを示しているのだろう。
 これに対しアズキの原種は日本に自生しているヤブツルアズキであり、それがヤマト言葉のアズキとして栽培されていた(縄文時代から食べられていたとのことである)。そこに中国からアズキの栽培品種が導入され、小豆という漢字も入ってきたが、基本的にそれは日本のアズキと同じ、したがって漢字は小豆でもそのままアズキと言う言葉が使われてきた。このような考え方もできるようだが、いずれにせよいかに小豆・アズキが日本人の食に深いかかわりをもっていたかを示すものといえよう。
 そう考えれば、本来ならここではアズキという言葉を用いるべきだろうが、大豆と対比するということから小豆という言葉をこれから用いさせてもらうことにする。ただし、小豆の読み方は文意に応じて適宜ショウズとしたり、アズキとしたりしていただきたい。
 ところで、大豆の英名soy beanのsoyは醤油という日本語からきており、小豆の英名azuki beanはヤマト言葉のアズキからきているが、このことは大小豆の世界的な普及、認知は日本から始まったことを示すものなのだろう。

 さて、大豆・小豆、その名前は大小と対照的だが、何かのおりには他の豆をおいて「大小豆」とまとめて言われることがしばしばある。このことは、いかに小豆が大豆と並んでわが国において歴史的に大きな位置をしめてきたかを示しているといえよよう。
 実際に小豆は豆の中では大豆に次いで栽培面積が多く、ともに伝統ある生活必需品でもあった。もちろん、大豆のように日常的に食べるものではなく、必要性も相対的に少ないので、栽培面積は大豆ほど多くなかったが、かつての家や村での祝い事、行事には不可欠であり、たいがいの農家は自家用として小豆をつくったものだった。私の生家も同じであり、とくに祝い事のさいに不可欠のお赤飯、お正月などの餡子餅、お彼岸などの牡丹餅、旧暦のひな祭りの草餅や端午の節句の柏餅、冬至カボチャなどに使うために生産していた。このお赤飯や餡の入ったあるいは餡をつけた餅などについてはすでに述べている(註1)ので省略するが、こうして自分の家で使って余るようなときは当然販売もした。農家以外の家庭でも自分の家でお赤飯や餡子をつくっていたので、小豆は売れたのである。
 それだけでなく、小豆はお菓子の材料とくに餡としての需要があった。まんじゅう、大福、どら焼き、団子、餅、羊羹、もなか等々の和菓子にとってきわめて重要な位置を占めていたからである。いうまでもなく餡は豆を煮てつぶし、砂糖や塩を加えて練ったものだが、小豆にはその餡に好適な食感があるので珍重されたのである。
 それで、米や生鮮野菜などの販売作物をつくれない山間部や北海道の畑作地帯の農家は現金収入を得るために大豆とともにこの小豆に力を入れてつくったものだった。それは、小豆が低温でもつくれ、生育期間も短いので冷涼地でも栽培できるということからでもあったが。

 餡を使った甘いお菓子、子どもたちはみんな好きだった。私たちの幼いころは、キャラメルなど甘いお菓子も出て来てはいたが、主流はまだ和菓子だったからである。
 とくになじみが深かったのは饅頭だった。葬式饅頭(註2)、お祝いの紅白饅頭、温泉に行った人からお土産にもらう温泉饅頭等々、戦争が激しくなる前はけっこう食べたもので、私たちにとっては甘いお菓子の代名詞だった。そういえば大福、どら焼きもあった。
 同じくなじみ深いものとしては羊羹があった。といっても饅頭などに比べると食べる回数は少なかった。高価だったからではなかろうか。来客等からお土産としてもらったときなどに食べたのではなかったかと思う。また、街の知り合いの家に客として行ったときにお茶請けとして何切れか皿に盛って出され、つまようじで食べたことが何度かあったのも覚えている。甘さ抜群だったので好きになってよかったはずだが、あまりにも甘過ぎ、さらにねばりがあって口の中に残り(うまく表現できないが)、たくさん食べたいとは思わなかった。
 この印象があるからだろう、今もあまり食べたいとは思わない。ただし水羊羹は大好きである。これは大人になってから初めて食べたものだったが、さっぱりしているし、上品な柔らかさ、食感もよいので、とくに夏、冷蔵庫で冷やして食べ、夏バテ防止に役立てている。よけいな話をしてしまったが、話をもとの戦前にもどす。

 何しろ貧しい農家の倅の私、そんなに甘いお菓子など食べられるわけもなく、いくらなじみがあるといっても饅頭だってそうそう食べられなかった。ましてや太平洋戦争が始まったら、もう饅頭などは見られなくなった。天長節だったかに学校でくれた紅白の餅もやがてくれなくなった。
 こうして甘いお菓子などほとんど口にすることなく小学校を終え、お菓子のことなどもう忘れかかったころ、戦後2~3年過ぎたころだったと思うが、お菓子も少しずつ出回り始め、紙芝居屋さんの景品も干し柿一切れから水飴に戻り、小豆餡を使ったお菓子で言うと「きんつば」が街で売られ始めた。家内の住んでいた農村部の小さな町にも鉄板で焼くきんつばの店ができ、それをもらって食べたことを今でも覚えているという。当時のことだからきっとサッカリン入りのきんつばだったと思うのだが、食べて見てそういえばこんなお菓子があったと思い出したものだった。

 そのうち『あんみつ姫』という漫画が少女雑誌に連載され(註3)、大人気となった。私の中学時代から連載されたのだが、しばらくぶりで思い出した、そういえばあんみつというものがあったと。名前からわかるように甘いもののはずだが、食べたことがあったのかどうか思い出せない。当然どんなものかイメージはわかなかった。そういえば「みつまめ」というのがあったはずだが、それと親戚関係にあるのだろう、とはいってもみつまめがどんなものだったかも思い出せなかった。いつか食べて見たいとは思った。しかしそんなものよりは「しなそば」を食べたかった中高の時代(註4)、あまり関心をもたず、山形で売っている店があるのかどうかもわからずに過ごした。
 そうこうしているうちにお菓子はどんどん復活し、お菓子屋さんも増えていき、小豆に関して言うと大判焼きとか鯛焼きとかの店ができた。これは初めて聞く名前だった (忘れていただけなのかもしれない)が、目の前で焼くのを見せてくれるのがおもしろく、熱々のをほおばる、寒いころにはたまらなかった。小遣いなどもらえなかったころだったので、買うことなどめったにできなかったが。

 敗戦から約十年過ぎに東北大に入学したが、仙山線で仙台駅に着くと、すぐ近くに「白松が最中」という字が大きく書かれた煙突が立っているのが見られた。白松という製菓会社のモナカの宣伝文句なのだが、まだ戦災による焼け野原の残っていたころ、大きく高く見えたものだった。同級生のなかに最初それを「白松がサイチュウ」と読んで何のことを言っているのかわからなかったと笑っているものもいたが、私たち世代にはモナカなどのお菓子がそれほど忘れられた存在となっていたのだろう。それでも私が仙台にきたころは戦後復興が軌道に乗り始めた頃、モナカも食べられるようになっていた。函館に住む親戚の伯父(註5)は白松の三色モナカのうちゴマ餡が大好き、仙台経由で山形から函館に帰るときはいつもそれをお土産にしていったものだった。

 仙台にようやく慣れたころ、誰だったか覚えていないが友人が盛り場の一番町の仙台三越の前にある小さなお汁粉屋に連れて行ってくれた。お汁粉という名前は知っていた。それが餡でできているらしいこともなぜか知っていた。子どものころ食べた記憶がないのだが。
 蓋のついた小さなお椀にお湯で薄く溶かしたようなこし餡が入っており、その中に小さな餅が入っているだけだったが、何となく上品な感じがした。
 お汁粉以外にもぜんざいというものがあるということもこの店で始めて知った。何のことはない、ぜんざいは粒あんを少しお湯で薄め、中に餅が入っていないだけ、生家で食べている餡と同じようなものでちょっとがっかりした。
 それにしても汁粉だけを食べさせる店があるとは、さすが大都市と驚いたものだった。

 そのころ(50年代後半)から、甘いものがようやく出回り始めた。バラック建ての仙台駅舎の前にあった丹六というお菓子屋、そこの甘納豆が安かったので家内たちはよく同級生と買って食べたものだと言う。なつかしい甘いお菓子がたくさん並ぶその店に私たちもよく立ち寄ったものだった。思い出した、ちょうどそのころ小豆キャラメルを生まれて初めて見て早速買って食べ、うまいと思ったものだった(最近見かけないが、しばらくぶりで食べてみたい)。
 1960年代に入ってだったと思う、盛り場のあちこちに喫茶店や甘味どころができ、蜜豆やあんみつを食べさせるようになった。
 テーブルに運ばれてきたみつまめのガラスの器のなかには、賽の目に切られた寒天、ちょっと大きめのゆで小豆、小さな甘い白い団子、缶詰のミカンやモモなどそれぞれ何個かずつ入っていて、甘い砂糖水が下に沈んでいた(これはうまかった)。
 それを見たときに感じた、これはどこかで見たことがある、やはり幼いころ食べたことがあったのではなかろうかと。
 ところでこの中に入っているゆで小豆、全然うまくなかった。かなり後でわかったのだが、これは小豆ではなくゆでた赤エンドウマメなのだそうである。道理でうまくなかったわけだ。それもあったのだろうが、みつまめをあまりうまいとは思わなかった。これもかなり後でわかったのだが、甘い砂糖水と思ったのは糖蜜だった。これはうまいと思ったのも当然だった。
 さて、あんみつだが、これはみつまめに餡をかけただけのものでしかなく、ちょっとがっかりしたが、単なるみつまめよりはずっとうまかった。餡の甘さが効いたのだろう。

 そのころからではなかろうか、氷水(こおりすい)屋=かき氷屋(註6)で今までのイチゴ、メロンに加えて氷小豆(店によっては金時氷という名前を使っていた)が売られるようになってきた。削った氷の上にシロップをかけ、さらにその上に小豆餡を載せるのである。氷の中の冷たい餡を食べる、これはうまいと思ったものだった。
 この小豆氷と並んで売られ始めたのはミルク氷だった。かいた氷にシロップをたっぷり入れ、その上に練乳をかけるのである。これはなぜか小豆氷以上にうまく感じた。
 このミルク氷と小豆氷を一体化した小豆ミルク氷もできた。高価なミルクとあんこ、和洋両方の味を一度に味わえる、シロップもたっぷり、白と赤紫の二色で豪華にも見える、当然高いが、こんな贅沢ができるようになった。それからしばらくして小豆、ミルク小豆のアイスキャンデーも発売され。簡単に家の中で小豆氷、ミルク小豆氷の味を味わえるるようになった。いい世の中になったものだと思ったものだった。

 ちょっと脇道にそれるが、かき氷=氷水で思い出したことがあるのでここで触れさせていただきたい。
 先日、家内が大学病院に勤めていたころの後輩に当たる二人の女性がわが家を訪ねてきた。しばらくぶりだったので話ははずんだが、たまたま二人とも山形県寒河江市の出身なので山形の話でも盛り上がった。そのなかで、寒河江にある国史跡の慈恩寺にかつて行ったとき境内の売店で食べた酢醤油のところてんがおいしかった(註7)という話をした。みんなその通りだということで一致したら、一人がこう言った、私のところでは氷水に酢醤油をかけても食べると。これには驚いた、初めて聞いた。二人が帰ってからパソコンで検索してみたらたしかにあった。「酢だまり氷」と呼ぶらしく、戦時中、氷水にかける甘味料がなくなったときにところてんにかける酢醤油(山形では酢だまりと言い、さらに少量の芥子をまぜて食べる)をかけたら食べられた、それが後々まで残っているのだというのである。寒河江市と山形市の中間にある山辺町が発祥の地らしいとのことだが、なるほどこれなら十分に食べられるかもしれない。
 戦中の氷水ではこんな思い出がある。戦争が激化した43年、私の小学2年の夏のある日、畑作業の帰り道にある氷水店が珍しく開いていた。そのころはもう氷水などという贅沢なものは食べられなくなり、ほとんど休店していたのにである。それを見て父はこれは珍しいと早速私たち弟妹や母を連れて店に入った。期待した、本当にしばらくぶりだったからだ。出てきた氷水、氷の上に何か薄い黄色の液体がかけられていた。ともかく喜んで匙ですくって口に入れた。とたんにみんなで顔を見合わせた。まったく甘くない、塩味でもなし、それだけならまだいい、渋いような苦いような何とも表現できない味、いまだにその掛け汁が何だったのかわからないのだが、私だけではなかった、みんな一口が二口でやめてしまった。そしてがっかりして帰った。こんなことを、そしてそのときのがらんとした店内の机やいすの配置などのようすをいまだに印象深く覚えているのだが、あのときの氷水と比べたら「酢だまり氷」などは絶品といえよう。よくもまあ考えたものである。いつか山辺、寒河江に行ったときにぜひ食べて見たいと思っている。

 話を戻そう。『およげたいやきくん』(註8)がブームになったころの1970年代には甘いものが氾濫するようになっていた。そのころからではなかったろうか、汁粉屋はなくなり、あんみつなどを出す店が少なくなってきた。甘い菓子、とくに洋菓子がたくさん供給されるようになるなかですたれてしまったのだろうか。
 それでもお菓子の材料としての小豆の需要は根強くある。コンビニではお赤飯を売り、スーパー等ではお正月に家庭用の餡や小豆を売っている。和の伝統がいまだに息づいているのである。これはよしとしていいだろう、輸入小豆が増え、国産小豆の生産がとくに山間部で減っているのが問題ではあるが。

(註)
1.ただ、冬至カボチャについては書かなかったのではないかと思うので、ここでちょっと触れておく。冬至になると、夏に採って保存しておいたカボチャを煮、また小豆を甘く煮崩し(粒餡にし)、両者を混ぜて冬至カボチャといって食べさせられたものだった。風邪をひかないという意味があったようである。
 なお、赤飯、餡子餅、草餅、牡丹餅と柏餅に関しては、下記の本稿の掲載記事で触れているので、参照されたい。
 11年1月26日掲載・本稿第一部「 ☆季節の行事、祭り」(2~4段落)、
 13年4月18日掲載・本稿第五部「☆もち米、赤飯、餅搗き」(2、3段落)、
 13年4月25日掲載・本稿第五部「☆かき餅・くだけ餅、牡丹餅、ちまき」(3段落)
2.13年6月6日掲載・本稿第五部「☆戦時中に歌った替え歌」(4段落)参照
3.倉金章介『あんみつ姫』、雑誌「少女」(光文社)、1949~1955年連載
4.11年3月2日掲載・本稿第一部「☆蝋紙、朝鮮特需、屑鉄拾い」(1段落)参照
5.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真・石盤」(7段落)参照
6.10年12月3日掲載・本稿第一部「☆幼いころの農の情景」(4段落)参照
7.11年9月26日掲載・本稿第三部「☆食の地域性」(1段落)参照
8.歌:子門真人 作詞:高田ひろお 作曲:佐瀬寿一 1975年
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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