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尊敬すべき「雑豆」



                 マメ・思いつくまま(21)

                 ☆尊敬すべき「雑豆」

 小豆の豆の色つやが宝石のようにきれいだとさきほど言ったが、ササゲ、インゲンの豆も同様にきれいである。ただしその色はさまざまだ。白、赤、茶、褐、紫、黒、さらにそれらの色がさまざま組み合わさった斑紋の豆がある。また大半は小豆よりも大きく、扁平なものから角張ったものまでさまざまな品種があり、可愛いとはあまり思えない。
 山形の私の生家ではこのササゲ(私たちはササギと言っていたが)とインゲンも栽培していた。しかしその豆=乾燥子実は翌年播くための種子であり、売ることもなく、食べることもなかった。
 ただし、赤茶色のササゲの豆だけは小豆のかわりに赤飯に入れられた。私はこの赤飯が好きではなかった。小豆でさえ食べたくないのに、それよりももっと大きくてごそごそしているササゲ、口の中に入れるのに抵抗感を感じ、こっそり茶碗の底に残して捨てて怒られたこともあった。でも、やはり小豆を使うのがほとんどだったので、その点では助かった。
 それから、ササゲかインゲンかわからないが、どちらかの白い豆で白餡をつくったことが何度かあった。だからササゲやインゲンの豆も餡子に使われるらしいことは知っていた。またお菓子として買う甘納豆は、あの大きさからして、ササゲかインゲンの豆を原料としているのだろうことは理解できた。それは、祖母が甘く煮ておやつにしてくれた(たまにだが)ことからも想像できた。
 生家ではこの程度しか成熟した豆は使わなかった。だから知識も私にはなかった。豆の生産・販売・使用を目的としてササゲとインゲンを栽培していたわけではなかったのである。
 目的は、若い緑色の莢(さや)に豆が入っている状態のときに採って野菜として食べるためだった。つまり莢豆をそのままお浸しや和え物、汁の実、煮物、炒め物、天ぷらなどに家で使うためだった(枝豆は未熟の豆だけを食べ、莢を食べないが、ここに大きな違いがある)。
 また、そうした莢豆に対する消費者の需要に応えて八百屋や市場に販売するためだった。生家は都市近郊に位置していたために未熟の莢豆を生鮮野菜として販売することが可能だったからである。そしてさまざまな品種をけっこうな面積栽培し、長期間にわたり販売していた。
 ただし、都市からの遠隔地域や畑作地帯では煮豆や甘納豆、菓子用の餡の原料として成熟した豆の生産、販売を目的に栽培した。北海道などはその関係で今でも大産地である。

 今はどうなっているかわからないが、かつてNHKのラジオは昼と夕方に株式市況を放送していた。よくまあこんなに早口でしゃべることができるものだとアナウンサーに感心しながら何の気なしに聞いていると、オオテボウとかトウギリとかよくわからない言葉が出てくる。それが何のことかわかったのはいつだったのか記憶にないが、オオテボウ(最初は大手紡績会社のことかと思ったが、それにしてもおかしかった)とは白インゲンの一品種のことで、白餡の原料となるために先物取引の対象となっていたようである。トウギリとは当限と書き、当月限=受渡期限が売買約定した月の先物取引とのことだった。つまり餡の原料となるインゲンやササゲの品種も小豆と同じく先物取引の対象となっていたのである。
 もちろん私はそんなことはまったく知らずに育った。生家でのインゲンやササゲの栽培は成熟した豆ではなく、莢豆の生産販売が目的だったからである。
 だから豆を見てもどれがササゲでどれがインゲンなのかいまだにわからない。インゲンの方がササゲよりも大きかったような気がするが、本当にそうだったかどうかわからないし、赤飯用のササゲが何とかわかる程度である(といっても今はまったく自信がない)。
 といって、莢豆を見てササゲとインゲンの違いがわかるかというと、そうでもない。ササゲの莢の方が細く長いのが特徴と子どもの頃考えていたのだが、インゲンにも長細い品種があるからである。
 生育中の姿を見ても違いがわからない。蔓の有無、背丈の高低等で判断しようにも、両者ともに蔓のあるもの、蔓のないもの、半蔓性のものがあり、また背の高いもの、低いものがあり、判断できない。
 インゲンはマメ科のインゲンマメ属、ササゲは小豆と同じササゲ属、きっと何か区別があるのだろうし、父母や祖父母から教えられているのかもしれないのだが、いまだに私にはわからない。野菜農家の子どもとしてササゲ、インゲンの莢豆収穫や蔓を這わせる支柱立てなどの管理作業を手伝わされ、またおかずとして食べてきたにもかかわらず、インゲンやササゲの違いもわからないでこれまできているのである。野菜農家の子弟としてはまさに落第生ということができよう(実際に落第して今に至ってしまったのだが)。

 今思い出した、ササゲやインゲンの莢の上の方に固い筋(というのか糸というのか)があるので、煮炊きをする前に莢の片端をプチンと折り、それにくっついている筋(糸)を引っ張って採るという作業があり、よく私たち子どもがその手伝いを命じられたものだった。それがササゲ、インゲンいずれもそうだったのか、いずれか一方だったのかわからない。今はそんなことをしなくともすむようだが、品種が変わったのだろうか。

 そういえばエンドウマメ、これもサヤエンドウとして食べるときには同じく筋取りの作業があった。ただし莢の中の豆粒が本当に未熟で小さいときに収穫して食べるときにはそんなことは必要なかったが。
 このエンドウマメは、ササゲやインゲンと同じく、莢にまだ包まれている未熟な豆粒を莢といっしょに食べるものである。枝豆の場合は莢を食べず未熟な豆を食べるのだが、エンドウは豆ももちろん食べるが莢を食べるのが主目的と言った方がいい。そしてそれを汁の実や煮物、炒め物、料理の彩りの具等々、初夏から初秋にかけての野菜として食べる。
 そうした需要に応えて私の生家でも主要作物の一つとして栽培し、販売した。
 この栽培にさいして記憶に残るのは、秋遅く畑に種を播いて一冬を越させ、春の芽生えを待ったと言うことである。そうするのは麦とこのエンドウしかなかったからである。
 この芽が黒い土から顔をのぞかせたときは、春が来たことを実感して本当にうれしかった。やがて柔らかい緑の茎と葉が伸びてくる。すると「て立て」=支柱立ての作業が始まる。2㍍くらいの細竹をエンドウのわきの土に刺し、一定の高さのところに竹を横に渡して倒れないようにする(うまく説明できないが)。やがてエンドウはその支柱に蔓を巻き付け、葉を両脇に伸ばしながら背を伸ばしていく。そのうち白い花をつける。これがまたきれいである。観賞用の花としてもいいのではないかとさえ思う。6月半ばころではなかったろうか、初物のサヤエンドウが味噌汁の中に浮かぶ。まだ莢は薄っぺらだが、何とも言えない味、それにきれいな柔らかな緑、特にうまいとは思わないが、いよいよ夏が近づいたことを知らせるこの汁が好きだった。
 やがてエンドウはどんどん上に伸び、横にも伸び、びっしり茂ったころ、採りたてられないくらいに生る。それでもこの収穫はトマトやキウリより楽である。軽いからである。手触りも優しい。しかし、量が多いからなかなか採りたてられない。しかも葉と同じ色、見落としてしまうこともある。豆が大きくなりすぎたらサヤエンドウとしては売り物にならないので、見落とさないように採るのが大変である。
 そのころになると毎日のように食卓にサヤエンドウが出る。いろいろと料理はするが、もう飽き飽きしている。しかも豆が大きくなりすぎたりして売り物にならないエンドウ、大体こうしたものは豆の匂いがきつすぎ、味もあまりよくないのだが、これが食卓に出るものだからますます食べたくなくなる。そんなことで夏の終わりになるとサヤエンドウが嫌いになってしまう。

 さらに嫌いなのは、大きくなったサヤエンドウの豆を枝豆のように莢から取りだし、それをご飯の中に入れた「豆ご飯」だ。お釜の蓋をとってその匂いをかいだとたん、食べたくなくなる。豆だけ取り除いてご飯だけ食べようとすると栄養があるのだから食べろと当然のことながら怒られる。豆で米を食べる量を減らすため、いわゆる「糧飯(かてめし)」としての豆ご飯なのだからなおのことだ。やむを得ず塩をたっぷりかけ、何とか味をごまかして食べるしかなく、まさに苦行だった(註1)。
 でも、白い飯の中に緑の豆、見た目はきわめてきれいである。それで料理に彩りを添えるために豆を飾りとして入れることになる。その典型が店で出すライスカレーだった。その昔は黄色いカレーの上に必ず5~6粒のグリーンピースなるエンドウマメが載せられていたものだった(註2)。もちろん私は食べなかったが。
 エンドウマメは生家の暮らしを支える柱の一つであり、見たり育てたりするのは好きだったのに、食べるのはあまり好きでない、私にとっては何とも表現のしようのない作物だった。

 今述べたササゲ、インゲン、エンドウと違って、枝豆のように完熟していない青い豆を莢から取りだして食べる豆に、ソラマメがある。といっても、そうやって食べることを私が知ったのはかなり大人になってからで、子どものころは食べたことがなかった。
 私たちがソラマメと言ったのは大きな扁平形の白い豆が茶色い皮に包まれて半分だけ顔を出しているものだった。手で触ると油っぽいので油で揚げたのだろう(実際に豆を素揚げするのだそうである)。皮も実も全部食べられるが、皮は固くてごそごそして歯に引っかかったりするので、私たちは皮をむき、白い豆だけを食べた。でもそれも固かった。ピーナッツどころではなかった。それでも塩味がついているし、香ばしくもあるので、けっこううまかった(これを「いかり豆」と称していることはかなり後で知った)。何しろ異様な姿、しかも生家でも周辺地域でも栽培していなかったので見たこともなく、それで私は南京豆と同じく外国産なのだろうと考えていた。
 戦中戦後はほとんど姿を見なくなったが、日本で栽培していること、枝豆のようにして食べること、また完熟した豆は煮豆、甘納豆、餡などに使われていることはやがて知るようになった。知識としてでしかなかったが。
 1990年頃ではなかったろうか、岩手県のどこだったか思い出せないのだが、ソラマメの産地にすべく取り組んでいるという話を聞いたころから、飲み屋などでビールのおつまみに塩ゆでしたソラマメを出すようになった。私はそのとき初めて青いソラマメ、枝豆的ソラマメを食べた。うまいことはうまかったが、どうせ食べるならやはり本来の枝豆の方がいいと思ったものだった。やがて宮城県を始め各地で栽培し始め、店にも並ぶようになったが、その栽培している姿を初めて見たのは鹿児島だった。開聞岳の麓の雄大な畑作地帯に広がるソラマメ畑、見事だった。下に垂れ下がるのではなく上にいや空に向かって伸びている実、ここから「空豆」という言葉が出てきたということをここで初めて実感した(註3)。
 今は宮城県が鹿児島、千葉、茨城などに次ぐ産地となり、私のようにソラマメと言えばいかり豆と考えるような子どもはいなくなっているようである。喜ばしいことだ。

 さて、これで豆に関する話を終わらせていただくが、この最後の節で大小豆以外の豆のことを書く(南京豆については前に述べたが)さいにそれを一括して総称する言葉を題名にしょうと考えた。しかしなかなか思い浮かない。そのうちふと「雑豆」という言葉を思いついた。大小豆が主要な豆だとすれば、それ以外の雑多な豆ということで総称しているのではないかと思ったからである。
 調べて見たらその言葉があった。ただしその定義には「大豆、落花生、緑豆を除いたマメ」というのと「大豆、落花生以外の豆類の総称」との二種類があった。なぜ落花生がまた緑豆(日本ではもやしの原料)が大豆と並んで主要な豆と位置付けられるのか、小豆が雑豆に位置づけられているのかがわからない。もしかするとこれは昔の中国の豆の位置づけとの関連から来ているのかもしれない。日本であれば大小豆以外の豆を雑豆と位置付けていいのではないかと思うのだが。それでこの節には「雑豆」という名前をつけた。

 しかし、それはきわめて日本的な考え方のようだ。調べてみたら、世界的には大豆と落花生は「食用作物」としてよりは「油糧作物(油の採取を主目的に栽培される作物)」として位置付けられている。とくに大豆の場合は油糧作物+飼料作物(=大豆粕)として世界的に重要な位置を占めており、直接的な食用として重視されているわけではないのである。わが国では前に述べたように主要な食料として位置付けられており、実際に大豆は枝豆から味噌醤油にいたるまで今も食用として大事にされており、落花生もおやつ、つまみとして利用されているのだが。
 それから小豆が重視されているのは日本だけ、他国ではまさに雑豆らしい。

 それでは食用作物として世界的に認知され、また多く栽培されている豆にはどんなものがあるのか。
 調べて見たらインゲンマメなのだそうだ。日本では何となくマイナーな作物に見られており、豆としてより野菜として目に触れるのが多いのだが、世界的にいうと食用の豆類の中の最大の生産品種で、世界各国に多くの栽培種があるとのことなのである。
 世界的には「雑」豆などではないのだ。これからはもう少し関心をもって、いや尊敬の念をもってインゲンマメを始めとする「雑豆」を見ていこうと思っている。
 同時に、世界的に特異な作物である大豆、そして日本人に不可欠の食料としての大豆にこれまで以上の関心をもち、国内での生産力向上にさらに力を注いでいくよう、多くの人々にさらに強く訴えて行きたいと思っている。

 さて、これまでマメについて思いつくまま書いてきたが、これで終わらそうと思ったら、岩手県遠野市の農家の方から味噌と醤油のその昔の自給生産について面白い話を聞かせていただいた。そこで次回はそのことについて付記することにする。
 なお、次回の掲載は11月9日(月)とさせていただく。

(註)
1.糧飯については下記の本稿の記事で簡単にだが触れている。
  10年12月7日掲載・本稿第一部「☆米をつくっても米が食べられない農家」(1段落)
  13年8月1日掲載・本稿第六部「☆お粥・水ご飯・混ぜご飯・雑炊」(6、8段落)参照
2.11年9月30日掲載・本稿第三部「☆消えていく伝統料理、家庭料理」(7段落)参照
3.もう一つ、漢字では「蚕豆」とも書くが、これはさやの形が蚕に似ていることからきたとのことである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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