Entries

その昔の農家の味噌醤油づくり



               マメ・思いつくまま(付記)

          ☆その昔の農家の味噌醤油づくり―岩手遠野の事例―

 岩手県の遠野、有名なのであえて紹介することもないだろう、ここには何回も調査でおじゃました。さらに、私の教え子だった東京在住の研究者IA君(註1)が遠野生まれのA子さんと結婚したのを契機に私的にも遠野におじゃまするようになった。そんなこんなで、前にも書いたのだが(註2)、遠野は私の大好きなところである。
 それはそれとして、これまた前に書いたように、このA子さんが遠野の味噌・醤油づくりについて貴重な情報を伝えてくれた(註3)。そこでそれを本稿に紹介させてもらうべくさらに詳しくA子さんに聞こうとしたら、実家の隣に住んでいてその昔の話をしてくれた古老Oさんから直接聞いたらどうか、そのために遠野に来ないかとの連絡があった。私はそういう誘惑には弱い。知的好奇心はいまだに衰えていないようである。それで恐縮だったが、早速その誘いに応じさせてもらった。そして先日、IA君にも東京から来てもらい、いっしょに半日にわたりOさんからいろいろな話を聞かせてもらった。
 非常におもしろい話だったので、それをここに付記させていただく。

 Oさんは1924(大正13)年生まれの91歳、農家の後を継いでこれまで働いてこられたが、今もかくしゃくとしておられ、よくもまあ覚えておられると感心するくらい記憶はしっかりしておられた(註4)。
 そこでおうかがいした遠野の農家の味噌・醤油の自給生産について以下紹介させていただきたい。なお、1930年代末にその生産方法に大きな変化があったので、その前と後に分けて紹介させていただく。

 まず、1940(昭和15)年以前の味噌づくりであるが、先取りして言うと、前に述べた同じ北上山地の葛巻での味噌づくり(註5)とほぼ同じである。だから重複するところが多くなるが、聞いたままを記述しておく。

 秋、農繁期の終わったころ、味噌づくりを始める。まず、自分の家で生産して乾燥しておいた大豆を大きな鉄の窯(直径1㍍、深さ50㌢くらい)でふかす。
 それを、ハンギリと呼ぶ木製の大きな樽(註6)に入れ、ツマゴ(藁沓)を履いてその中に入り、豆を踏み潰す。そのさいにはふんどし一丁の裸になる。豆が熱いからである。
 その潰した豆をそばをこねるように何回もこねて中の空気をなくし、2㌔くらいの四角の玉(味噌玉)を何個かつくる。しばらくおいて味噌玉が固まったら、それにわらを十字にかけて結んで軒下に吊るし、乾燥させる。
 そのうちその表面や内部にカビ(豆麹菌)が生えてくる。
 春、その味噌玉を軒先からおろし、餅をつくときに使う杵で砕く。かなり固いので水車小屋に持っていって水車で搗き砕く(註7)ときもあった。
 こうして砕いた味噌玉をさきほど言ったハンギリ(大きな桶)に入れ、それに水を入れて柔らかくし、さらに塩を入れる(この水加減で失敗することがあったという)。
 これで出来上がりだが、1~3年ハンギリのなかで寝かせてから食べる。
 こういう製造法なのだが、これはOさんの住む遠野ばかりでなく北上山地では一般的だったようで、かなり昔から何百年と続けられてきた伝統的な製法のようである。

 次に醤油であるが、これは今述べたようにしてつくった味噌からつくった。
 まず味噌に水と塩を入れて煮たてる。それを袋に入れて搾って濾過する。その濾過した液体が醤油であり、甕に入れて保存しながら使う。
 ところでこの醤油は前に述べた「たまり」であり、味噌から絞るという点では私の生家が戦中にやった醤油づくりと同じである(註8)。ただ違うのは、生家の場合の味噌は米味噌であり、遠野のは豆味噌が原料だったことである。
 さて、こうして絞って残った粕は馬の餌にした。競りに出すために放牧場からおろしてきた馬に与え、太らせて市場の競りに出したものだという。

 なお、同じ北上山地でも葛巻での醤油づくりはちょっと違ったようである。前に味噌づくりのことを話してくれたNさんによると、味噌を絞るのではなく、味噌樽の味噌の上に浮いてくる液体(これを「たまり」と呼んだ)を醤油として使ったという。味噌の上にたまる液体だから「たまり」と言ったのだろう。なお、味噌樽の隙間から漏れてくる液体も受け皿にためてたまりとして利用した(特に安い樽は隙間があって漏れやすかったという)。ただし、「たまり」をたくさんとってしまうと味噌が美味しくなくなるのでほどほどにとったものだという。

 こうしたたまり醤油は今の醤油と味噌の中間の色で、味は味噌に近く、あまりうまいものではなかったとのことである。
 しかし、とOさんは言う、この醤油を使った「稗(ひえ)とろ飯」、これはうまかったと。
 ヒエとろ飯とは、いわゆる糧飯(かてめし)の一種で、米を節約するために米に大麦と稗とを加えて増量して炊き込んだご飯(これはおいしくないとのことである)に、すり鉢で摺ったヤマイモを味噌汁でといた「とろろ」をかけたものをいうのだそうだが、味噌汁ではなく「たまり醤油」でといたのがうまかったというのである。
 このヒエとろ飯、初めて聞いたのだが、その時思い出したのは「麦とろ飯」だった。麦とろについては前に述べた(註9)が、それとヒエとろは基本的なところが同じだからである。
 麦とろとはすり鉢で摺ったヤマイモを味噌汁でといたとろろをかけた麦ご飯をいう。こうして食べると麦ご飯もおいしく食べられる。
 しかし、遠野の場合は米が穫れるといっても平坦地は少なく、しかも冷涼地帯で収量は低く、米に麦を入れた麦ご飯だけでは家族の食べる米が足りなくなってしまう。一方、遠野は北上山地の他の地域と同様に山間寒冷地にある畑でヒエも生産している。つまりヒエ―麦―大豆の二年三作をしている。そこで麦ご飯にヒエを加えたヒエ飯を食べることになる。しかし、麦飯にヒエを混ぜたらもっとまずい。それをおいしく食べるためにとろろをかけた稗とろ飯をつくる。それでおいしく食べられるが、そのさいのとろろ汁に「たまり醤油」を使うともっとうまいというのである。
 そうかもしれない。Oさんの家の醤油は味噌のうまいところを搾ったものであり、味噌粕など雑物は一切なし、うまいはずである。私も一度食べてみたい。しかしもう無理、たまり醤油はもちろん麦もヒエも今はつくられていないからである。

 さて、話はもとに戻るが、これが昔から伝えられてきた味噌とたまり醤油の製法だった。
 しかし、醤油については、昭和の初めころの一時期、買うようになったらしい。遠野の町にある醤油屋から仕入れた醤油を五斗樽に入れ、天秤棒で担いで触れ売りに来る人が現れ、しかもその醤油は自家製のものよりはるかにうまいということから買うようになったようである。
 こうして醤油は自給から購入へと変わったが、味噌については今まで通りのやり方でつくっていた。
 これが大きく変わったのは1935(昭和10)年ころに開かれた郡農会の講習会がきっかけだったという。そして味噌は新しい作り方になり、醤油づくりについても以前とまったく違ったやり方で再開するようになったとのことなのである。

 その作り方の話をする前に、今出てきた「郡農会」についてちょっと説明しておきたい。若い人の中にはご存知のない方もあろうからである。
 まず、農会であるが、これは1922(大正11)年に制定された農会法にもとづき農業の改良発達と農村末端までの政府による統制などを目的として設立された農業団体である。その全国組織として帝国農会があり、その下部組織として都道府県農会、さらにその下に郡農会、末端組織として市町村農会があった。
 それに対応して、現在の遠野市になっている旧町村の属する上閉伊(かみへい)郡には上閉伊郡農会が設置され、さらに郡内の旧遠野町、綾織村、小友村等々にそれぞれ町村農会がつくられた(はずである、原則がそうだったから)。
 この農会は戦時中に産業組合(信用事業・経済事業等を行っていた)と合併させられて農業会となり、戦後はそれを基礎にして農協が組織されることになるので、農会は農協の前々身ということもできる。もちろん農協の目的、組織形態、事業内容等とは大きく異なるところがあるのだが、それについての説明はさておき、話をもとの昭和10年ころに戻そう。

 さきほど言った講習会はこの上閉伊郡農会が開催したものと思われる。
 このころの農会は、昭和恐慌や凶作による農村の窮状を改善するためとして政府が全国的に展開した農村経済更生運動の一翼を担っており、その運動の一つに農家の現金支出軽減のための生活改善、自給生産の推奨があった。その一環として自家産大豆を活用した味噌・醤油の作り方の指導講習会を開催したのではなかろうか。
 あるいは、日中戦争の長期化に対応して人的・物的資源を総動員するために始まる国家総動員体制の先取りとして、国家の推奨で自給生産の拡大等により地域資源の節約を図るという趣旨から農会が開催したのかもしれない。
 そのいずれかはわからないが、上意下達の農会組織のこと、地域の多くの農家が講習会に参加させられたのではなかろうか。Oさんの家では叔母さん(明治23年生まれ)が講習会に出席して学んだとのことである。
 それを契機にOさんの住むA地区内すべての農家が新しい味噌・醤油づくりをやるようになったのだが、どのような経過でやるようになったのか具体的なことはもうわからない。何しろOさんがまだ子どものころだったからこれもやむを得ない。また実際に始めたのはいつかもはっきりしない。15、6歳のころだったというから、1938、9(昭和13、4)年ころだったのだろう。
 しかし、どのような製法だったかについてはOさんははっきりと覚えておられる。長年やってきたことだからだろう。それを今回お伺いしたわけだが、具体的にどのような作り方をしたのかを旧来のやり方との相違点を中心に次節で書いてみることにする。

(註)
1.15年5月11日掲載・本稿第七部「☆ノウサギ、因幡の白兎」(追記)参照
2.11年7月1日掲載・本稿第二部「☆山地の大規模開発」(6段落)参照
3.15年9月14日掲載・本稿第七部「☆「たまり」と自家製醤油」(追記)参照

4.さっきOさんを「古老」と呼んだが、考えてみれば私と10歳違いでしかなく、にもかかわらず年寄り扱いするのは失礼かもしれない。しかし辞書によると古老には「昔の事や故実に通じている」という意味が入っているので、そうした意味から呼ばせていただいたものである。
5.15年8月17日掲載・本稿第七部「☆自家製の味噌」(2段落)参照

6.漢字でどう書くのかわからなかったが、A子さんが友人のYさん(前に本稿に登場していただいた)に聞いてくれたところ、木製の大きな樽を半分に切ったくらいの大きさの樽ということで「半切り」と書くのだとのことである。
7.12年12月13日掲載・本稿第五部「☆鹿威し、ばったり、水車、踏み車」(4段落)参照
8.11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」(1段落)、
  15年9月14日掲載・本稿第七部「☆「たまり」と自家製醤油」(3段落)参照
9.13年2月14日掲載・本稿第五部「☆トロロイモ・ヤマイモ・ナガイモ」(4、5段落)
  13年2月18日掲載・本稿第五部「☆麦ご飯、臭いメシ、麦雑炊」参照

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR