Entries

続・その昔の農家の味噌醤油づくり



               マメ・思いつくまま(付記2)

          ☆続・その昔の農家の味噌醤油づくり―岩手遠野の事例―

 まず味噌づくりであるが、前回述べた1938、9年以前と決定的に違うのは、味噌玉をつくって麹の自然発生を待つのではなく、種麹を買ってきて米で麹をつくるようになったことである。したがってこれまでの豆味噌ではなく米味噌づくりに変わったということになる。前にも述べたように私の生家では米味噌だったのだが、それと基本的には同じつくり方となったことにもなる(註1)。

 まず、町の店から種麹を買ってくる。
 その麹を増やすために米を蒸し、小さな木箱(私の生家では縦60㌢、横30㌢、深さ6㌢くらいの箱を使っていたような気がするが、ここも大体それぐらいの大きさのようである)に入れ、米の温度が冷めたころに種麹を入れてかき混ぜる。
 そして麹菌の増殖を待つことになるが、そのためには増殖しやすい温度と湿度を維持することが必要となる。
 そこでその木箱を室(むろ)に入れる。室とは地下室のことで、遠野では養蚕農家が桑の葉の貯蔵保存のためにつくっている(註2)のだが、室の中は密閉度が高いので外気温にあまり触れず、湿度も保たれるし、味噌づくりは秋遅くなので室は空いていることなどから、そこを麹の増殖場所として兼用することにしたのである。
 しかし、この室を持っているのはA地区内で2戸しかなかった。それで、農家が二つに分かれてそこの家の室を利用させてもらうことにした。室をもっていたOさんの家には15戸の農家が頼むことになったという。
 秋のある決まった日、それぞれの家が一斉に5升から1斗の米を蒸し、それを木箱に入れて室のあるOさんの家にもってきて室に入れ、種麹を入れてかき混ぜる。
 そして火鉢に炭火を熾して一定の温度に保つ。農家は毎日来て自分の木箱のようすを見ながら麹を手で混ぜ合わせて麹菌の均等な発生をうながす。
 そのさいの温度管理が大変で、炭火を熾しすぎて熱くなりすぎたりしたら全員緊急に集まり、麹をかき混ぜて冷まし、逆に炭火が消えて寒くなったりしたらみんなで炭火を熾して温めたものだという。

 ちょっとここで脱線、私の生家では締め切った小屋の広い土間に数枚のむしろを敷き、その上に蒸した米と麹菌を混ぜて広げて発酵させており、炭火を熾したなどという記憶は一度、一晩くらいしかないのだが、それは遠野よりも寒冷ではなかったことからかもしれない。祖母が何回か小屋に行ってむしろの上の麹を混ぜ合わせるなどの管理をしていた。麹をつくっているときの小屋の中は、発酵のさいの温度発生からだろう、暖かく、また甘酸っぱい匂いがたたよっていたものだった(註1)。なお、甘酒つくり(どぶろくつくりの場合も)のように味噌ほど多くの麹を必要としないときは遠野の場合と同じような小さい木箱に入れて麹づくりをしていた。

 話はもとに戻るが、こうして3~4日経つと麹ができあがり、各農家それぞれ自分の麹を室から家に持ち帰り、本格的な味噌づくりが始まる。
 まず、かつての場合と同じように、大きな鉄の窯で豆を蒸し、それを大きな木の桶(ハンギリ)の中でつまごを履いて踏み潰し、それに麹を入れてかき混ぜる。そして塩を入れてできあがり、それを1~3年寝かせて食べる。
 こうしてつくった味噌、これは米味噌である。したがって、何百年も続いたであろうかつての豆味噌・味噌玉つくりから大転換をしたことになる。
 この新しい味噌、かつての豆味噌と比べてどうだったかとOさんに聞くと、昔の味噌の方がうまかった、新しい米味噌は豆に塩を入れたような感じだった、長期保存するにはたくさんの塩を入れなければならないからだったのではないかという。
 それでももとに戻ることはなかった。そして戦後もずっとこのやり方が続けられることになる。
 ただし、田植え機が普及したころの70年代、室での麹づくりから水稲育苗施設の発芽器を利用した麹づくりへと変わった。これで温度管理がきわめて楽になり、前のような失敗はなくなったという。

 こうして続けられてきた味噌づくりは93(平成5)年の大冷害を契機になくなってしまった。凶作で米が穫れず、味噌づくりに回す米がなかったからである。それ以降、みんな味噌を買うようになった。
 60年代以降、豆の低価格輸入のもとで豆や味噌を自給するよりは買ったほうが得であり、自給に向ける労力があるならよそに働きに行ったほうがいいという状況になっていたのだが、冷害を契機に一気にその方向に向かうことになったのだろう。
 こうして長年続いた遠野A地区の味噌づくりの歴史は途絶えることとなった。他の地区でも早い遅いは別にして味噌づくりはなくなったようである。

 時代はまた昭和初期に戻るが、醤油づくりも味噌と同様に郡農会の講習会を契機に同じ時期から変わった。醤油は豆味噌を絞ったいわゆるたまりづくりから小麦と豆による本格的な醸造への変化だった。
 まず、先ほど述べた鉄の窯で、指で押して潰れるくらいに柔らかくなるまで、大豆を蒸煮する。
 もう一方でセンバン(漢字でどう書くかわからない)という直径50㌢くらいの鉄の中華鍋のようなもので小麦を煎り、それを石臼で細かく砕く。
 そしてこの焙煎・割砕した小麦とさきほどの蒸煮した大豆とを混ぜ合わせる。
 そこに、買ってきた醤油の種麹を加えて混ぜ、それをさきほど述べた木箱に入れ、人肌程度に冷まして室(むろ)に入れて醤油麹をつくる。室の中では、さきほどの味噌づくりと同じように炭を熾し、保温する。ときどき木箱の中をかき混ぜて菌が固まらないようにし、また熱を発散させて温度を一様にする。この管理は味噌の場合と同じように難しい。
 こうして3~4日培養してできた醤油麹を室から取り出し、大きな木の樽に入れる。それに塩と水を加えて寝かせる。
 それから月に1~2回、酒造りのように樽をかきまわす。そうしないとカビが生えて来てだめになるからである。
 こうして 1年くらい経つとどろどろになった「もろみ」ができる。
 このもろみを分厚い布地でつくられた袋に入れ、おもしをかけた「きりん棒」でジャッキのようなものに力をかけて袋をじわじわと圧搾し(註3)、それで出てきた液体、これが醤油なのであるが、それをその下に置いた甕に垂らす。これで醤油の完成、甕に入れたまま保存し、必要に応じて汲んで使う、ということになる。

 なお、この搾りでできる粕であるが、それはまた搾る。搾り粕に水を加えて溶かし、きりんでもう一度搾るのである。これを二番搾りと言い、最初の搾りは一番搾りと言う。
 これだけで終わらない。次に三番搾りがある。二番搾りでできた粕をまた釜に入れ、水を入れて煮て、それをきりんで搾るのである。
 そしてこの二番搾りと三番搾りで搾った液体に塩とカラメルを入れて醤油の味に近づけ、漬物などの加工用に使う。
 こうして最後に残った粕は家畜の餌として利用する。まさに最後の最後まで無駄なく徹底して利用しつくしたといえよう。
 なお、この醤油づくりに使用するセンバン、きりんであるが、地区内ではOさんともう一戸しか所有していないので、地区内の農家は室(むろ)の場合と同じように二つに分かれて二人から借り、持ち回りで使用したという(註4)。

 こうした方法で味噌と同じように1940年直前ころから醤油を製造するようになり、戦後塩が配給されなくて一度だけつくれなかったことがあっただけで、ずっとこのやり方で自給生産してきた。
 しかし1970年代に入ったころつくるのはやめたという。買ったほうが安上がりだし、うまいということで、だれも自家製醤油を使わなくなったとのことである。こうして新しい醤油づくりも姿を消すことになった。

 以上、遠野市A地区の農家の味噌・醤油づくりとその歴史について述べてきたが、前に述べた農家のYさんが同じ市内のT地区で体験させてもらったという醤油づくり(註5)も小麦を使う方法であり、昭和に入って導入された近代的醤油製造方法だったということになる。T地区はYさんの住む地区と距離がかなり離れているのだが、同じ製法だったのである。
 このことは、そのころ現遠野市管内全体がかつての豆味噌を搾るたまり醤油づくりから麦も使う醤油づくりに切り替わったのではないかということを推測させるものである。そしてそれはきっとA地区と同じく郡農会の講習会をきっかけにした1940年ころから始まったものであり、それ以前はA地区と同じく豆味噌、たまり醤油をつくっていたのではないかとも推測できる。

 ところで、遠野と同じ北上山地でもより北部の山間部に位置する葛巻では、戦中戦後もずっと豆味噌で、作り方は伝統的なものから変わらず、たまり作りも同じだったようである。これは葛巻が当時の技術水準のもとでは米がつくれない地域だったこと、したがって米麹をつくれなかったこと、醤油麹を買う金もなかったことなどからきているものと考えられる。こうした地域では、郡農会の講習会など開いても仕方がないので、そもそも開かれなかったのではなかろうか。それで戦後もずっと従来通りの味噌・たまり醤油づくりをやってきたものと思われる。
 そして60年代から酪農など新しい農業が展開されたこと、大豆等の輸入で旧来の畑作は壊滅状態に陥ったこと、出稼ぎ収入が入るようになったこと等から、味噌・たまりづくりはやめ、購入するようになったものと思われる。

 話は戻るが、Oさんの家には味噌・醤油づくりに使用した鉄の大きな釜、センバン、ハンギリなどが残っていた。釜(これは馬の餌づくりなどにも使ったという)やハンギリは遠野などの古民家の展示で見たことがあるが、センバンは初めて見た。センバン(「煎盤」とでも書くのだろうか)は鍛冶屋さんに特注したのではないかと思われるようなもの、きっと貴重なものと思われるので(私がそう思うだけなのかもしれないが)、製法も含めてぜひ公的に保存してもらいたいものである(もしかしてすでに保存されているかもしれないが)。
 同時に、かつての味噌づくり、醤油づくりをそのまま再現し、残しておいてもらいたいものだ。その点でYさんの学びに行ったT地区の醤油づくりの体験会などは高く評価できるだろう。この醤油づくりは郡農会の指導で昭和初期に始まった方法だが、それ以前の伝統的な豆味噌・たまり醤油づくりも掘り起こし、ぜひとも残してもらいたいものだ。そのさいには間違ってもアメリカ産などの大豆を使わず、遠野産の大豆を使ってもらいたい。
 もう一つ、ヒエとろ飯を復活し、それには伝統的なたまり醤油を使い、遠野の食堂や道の駅で名物として食べさせてもらえないだろうか。
 そのためには大豆、ヒエ、大麦の生産の復活が必要となる。さのさいにはヒエ―麦―大豆の二年三作の新たな段階での復活も考えていいのではなかろうか。

 しかし、こうした畑作の復活は難しいだろうとOさんは言う。大小豆などつくってもニホンジカが来て全部食べてしまう、かつて山にあった畑などはこの獣害問題を解決しない限りその復活は無理だというのである。そうなると、前に述べたような狩猟の普及をはじめとする獣害対策を進めることが必要となる。また、かつての知恵を生かした林野の利用方法の復活等による環境の改善、農林業の活性化や過疎化の防止等も必要となる。
 野生動物と人間の共存、前章でも書いたが、改めてここでも考えさせられた。

 本稿を書きながらふと考えた、間違ったことを書いているかもしれないと。私が体験したことではないし、Oさんなどからの聞き取りも不十分で聞き洩らし、聞き落とし等が多々あり、さらに味噌・醤油の専門家でもないので理解力も不十分であり、推測でしかないこともあるからである。
 よけいなことを書いているのかもしれないとも思う。私などが言わなくとも、もしかしてすでにきちんと記録され、保存され、あるいは再現しておられるかもしれない。そんなことも調べずに書くのはどうかとも思われる。
 しかし、私の年齢、体力と能力からしてきちんと調査をして正確に書くことができなくなっている。今回の遠野訪問でもちょっと体調を崩してIA君夫妻に心配をかけてしまった。だからといって、自分が記録しなくとも誰かがやってくれているはずと思っているうちにみんなから忘れられ、記憶や記録はなくなり、そういう事実があったということすらわからなくなる恐れもある。
 やはり記録だけでもしておこう。役に立つかどうかなどは別にして、それがどれだけ価値があることなのかは別にして。そんなことからここに書いてみた次第である。

 東北各地にきっとさまざまな味噌・醤油の作り方が、また歴史があったのではなかろうか。味噌・醤油ばかりではない、生活、生産にかかわる多様な技術があり、その変化があった。そこから学ぶこともあったろう。しかし私はそうしたことにあまり関心を持たなかった。昔の技術がなくなるということにちょっとさびしい思いがしているだけだった。私が専門としていることからして、また時間的余裕からしてしかたがなかったのだが、ちょっと後悔している。

 Oさんのようにかつてのことを覚えていて語ってくれる人がどんどん少なくなっている。こうした語り部をさまざまな分野、側面、地域から掘り起こし、記録し、それを記載する「遠野物語」の続編、続々編の作成にまで行ってもらいたいものである。これは遠野に限ったことではなく、庶民の歴史として、全国的にやってもらいたいのだが。

(これで豆に関する話は終わりとするが、同時に第七部も終わらせていただき、次回からは第八部としてまた思いついたことを記載していくことにする)。

(註)
1.11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」(1段落)参照
2.「室」については、下記の本稿掲載記事で、私の母の実家の例をあげて説明しているので参照されたい。
  14年7月21日掲載・本稿第六部「第六部を終えるにあたって―これからのこと―」(5段落)

3.この「きりん棒」、そして圧搾の仕方が、いくら聞いても具体的なイメージがわかなかった。そこで家に帰ってからネットで検索してみたら、「きりん」とはてこの原理を応用した圧搾機であり、長い棒(きりん棒)の先端に重りをつけて、搾っていくものとのことで、その図解もあった。ぜひ「www.s-shoyu.com/fukuoka」を検索して見ていただきたい。
4.このセンバンや「室」の使用料(借用料)はどうしたのか、炭火を絶やさないようにするなどの室の日常管理はだれが責任を持ったのか等については聞き落としてしまった。
5.15年9月14日掲載・本稿第七部「☆『たまり』と自家製醤油」(4段落)参照


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR