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戦争とむらの子どもたち(4)

  


                  ☆空襲に遭った日

 疎開前の山形での話になるが、B29、グラマン等、空襲に関する言葉が新聞、ラジオから連日流れ、学校では敵機襲来に備えるということで爆撃を受けたときの姿勢や教室からの避難の訓練、町内では防火訓練がさらに厳しくなされるようになった。
 また各家庭は家族全員の防空頭巾と救急袋(包帯、干し飯、炒り豆などを入れていたはずである)をつくらされ、私たちはそれを毎日左右の肩にたすき掛けにかけて学校に通わされた。通学ばかりではなく、どこに出かけるにもそのスタイルでなければならなかった。
 さらに防空壕をつくらなければならなくなった。私の生家では最初のころ家の前の畑にあるサイロを防空壕代わりにした。家畜の餌を入れるため、直径三㍍の円筒形に地下二㍍くらい掘り、そのまわりと底をコンクリートで塗り固めてつくったものだったが、警戒警報が出るとそこに入った。しかしそれでは小さすぎるし、土をかぶった屋根もない。そこで、近所の人に手伝ってもらって家の前の畑を深く掘り、屋敷にあった物置小屋をそっくりそのままそこに移して埋めてつくった。だから、かなり広くて大きな防空壕で、家財道具の主要なものもそこに入れた。
 前にも述べたように小学校周辺の家は壊され、強制的に立ち退かされ、空き地になってしまった。商家や造り酒屋などのお蔵の白壁は黒く塗りつぶされた。白いと飛行機に見つかりやすく、爆撃目標となるからだという。町の景観は大きく変わり、人の服装も変わり、何か異様な雰囲気だった。商店もほとんど閉まった。開いている店があっても品物は本当に少なかった。物資不足、配給制度で売るものがなかったからである。
 そのうち、小学校の屋上に新しくつくられた木製の高いサイレン塔から警戒警報・空襲警報を知らせるサイレンがしょっちゅう高々と鳴るようになった。また警報の詳しい中身を知るために一日中つけっ放しにされたラジオは、「東部軍管区情報、東部軍管区情報」の前置きで「敵B29編隊が接近のため○○地区に警戒警報発令」というような臨時ニュースをいつも流していた。そのうち「東部軍管区情報」が省略され、「ジジー」という音の後に「情報」というだけの前置きとなった。敵に情報がもれないように軍管区などの言葉を省略することにしたのだとのことだった。
 警報が出たらすぐに防空壕に入ったが、夜寝るときは枕もとに衣服と防空頭巾、救急袋をそろえておき、それを身につけて防空壕に走った。しかし私はそれがなかなかできなかった。夜中に警報のサイレンが鳴る、すさまじくでかい音である、ところが熟睡している私はその音で目を覚まさない、祖父母が起こしてもまた寝てしまい、寝ぼけてなかなか服は着られないのである。それでは逃げ遅れて死んでしまうと半分笑われ、半分怒られたものだつた。
 灯火管制で家々からの灯りはもれず、星も出ていなかったある真っ暗な夜、寝る直前に警戒警報のサイレンが鳴って防空壕に入った。そのとき初めて米軍機の爆音を聞いた。しかし通り過ぎただけだった。昼は何回も警報は出るが、米軍機の音を聞いたことはなく、姿はもちろん見たことがなかった。そう言う点では平穏だった。
 初めてまともにB29を見たのは疎開先でだった。

 疎開で転校したのは山寺村(註1)国民学校だったが、そこは母の実家のある集落(註2)から四㌔くらい上っていかなければならないところにある。それでこの集落には一年から四年まで通う分教場があった。私は四年だったのでその分教場に通うことになった。私のような疎開学童を迎えていたので生徒数が多くなったらしく、教室の後ろぎりぎりまで机が並べられていた。
 疎開騒ぎで山形の学校の授業はかなり後れていたのに、ここの授業はもっと後れていた。山形とそれほど離れていないのに本の読み方は独特のイントネーションで、みんないっしょに声を合わせて国語の本を読まされるときはついていくのに困った。ただ勤労奉仕はあまりなかった。みんな農家の子弟で家での手伝いがあったこと、分教場は低学年だったことからであろう。ただ一度、仙山線の山寺駅に近いところまで生徒全員連れて行かれ、そこの線路の補修のために近くを流れている川の川原から線路まで小石を背中に背負って往復しながら運ぶという作業をまる一日させられただけだった。

 六月の日曜日だったと思う。私たちのいる母の実家を祖父が訪ねてきた。一年半前に死んだ幼い妹(註3)の歯骨を山寺の立石寺に納めに来たのだという。それで私も祖父について山寺に行くことにした。
 山寺に向かって歩いていくと、爆音が聞こえてきた。見上げてみると、B29が一機だけ、抜けるような青い空にきらきらと太陽の光を浴びて、本当に高く、仙台の方から奥羽山脈をこえて飛んできた。そしてやがて西の方、日本海の方に向かって消えていった。しかし空襲警報はおろか警戒警報のサイレンすら鳴らなかった。飛行機が通り過ぎてから警戒警報のサイレンが間延びしたように鳴っただけだった。一九四五年ともなるといかに日本の防空体制がだめになっていたかを示すものだった。のんびりと何の抵抗を受けることなくわが物顔でB29は飛び去っていった。
 山寺に登ったのはその日が初めてだった。時代が時代だったのだろう、参拝者はほとんどおらず、本当に静かだった。巨石に囲まれた急な坂道をあえぎながら登っているうちに気がついたことがあった。坂道のあちこちに小石が積んであるのである。祖父に聞いてみると、死んだ子どもが賽の河原で地獄の鬼に石を積むように命じられる、せっかく積んでもまた翌日鬼が崩し、積み直させられる、その子どもたちの石積みを手伝ってやるために石を積むのだという。死んだ妹もそんなことをさせられているのかと思うとかわいそうでかわいそうで、一生懸命小石を積みながら奥の院まで登った。

 話は飛ぶが、二〇〇五年の夏、小学生の孫二人を初めて山寺に連れて行った。あれからちょうど六十年(註)、私のあのころと同じ年齢の孫といっしょに山寺を歩いているのが何か不思議だった。あのときの閑かさと違って山寺は観光客で賑わっていた。妹の歯骨を納めた奥の院に着いたとき、妹が死んでからもうこんなになるのかと感無量だった。そして心の中で妹に謝った、自分だけこんなに長生きして、孫と一緒に来る幸せまで味わわせてもらって、申し訳ないと。

 疎開先での八月初めのある朝、眠い中をたたき起こされた。空襲のようだという。たしかに南の山形市の方からグゥォングゥォンとすさまじい音が、轟音とはこのことを言うのだと教えるように、聞こえてくる。サイレンは鳴らない。いつものことだ。飛行機が見えてから警戒警報のサイレンが鳴るのだから、鳴らなくとも空襲の可能性はある。すぐに着替えて外に出た。
 雲一つない青い空を見上げていると、しばらくして透き通るような銀色をした飛行機が小さく見えてきた。そして何十機かの編隊が上空をかなり高くゆっくりとぐるぐる旋回し始めた。これだけの数の飛行機ともなるとすさまじい音である。日本の飛行機にしては形が違う。やはりアメリカの飛行機だろう。そのなかに型の小さい飛行機が何機か少し後ろをついていく。あれは日本の飛行機ではないか、アメリカの飛行機を追いかけているのではなかろうか。こんな期待を子ども心にもつ。それにしても遅くて小さい飛行機は日本のものと考えたのは子どもなりに日本が戦力的に劣っていると考えていたのだろうか。
 そのうち見えなくなった。音も小さくなった。通り過ぎてどこかに飛んでいったのだろう。と思ったとたん、何か爆発するようなすさまじい音がした。すぐ近くに臨時につくられた十文字飛行場があり、そこに複葉の練習機(通称赤トンボ、機体が濃い橙色に塗られ、主翼が二枚だったのでこう呼ばれたようだが、戦争前の飛行機は複葉が普通だった)が配置されていたのだが、そこへの爆撃と機銃掃射が始まったのである。逃げようにも防空壕はない。田舎だからまだ空襲はないだろうと裏庭に掘り始めたばかりで、まだできていなかったのである。それで家の裏の桑畑に隠れた。何かを切り裂くようなキーンという金属音がする。これは急降下の音だったのだが、その直後にダダダダダダダダという機銃掃射の音がする。それからグーンというエンジン音がし、私たちの隠れている桑畑の上を急上昇していく。操縦士の顔が見えるくらいすれすれだ。これが何十回か繰り返されたが、目的を達成したのか、行ってしまった。もう大丈夫だろうと柿の木に登って見てみた。やがて遠くに、急降下と急上昇を繰り返しながら機銃掃射を加えている飛行機と立ち上る煙が見えてきた。神町の飛行場とその近くの軍需工場だろうと祖母は言う。集落や人間に対する直接的な機銃掃射はなかったようだ。その空襲で途中停車していた仙山線の列車が撃たれたということは後で聞いた。そのときの銃撃の弾痕が楯山駅のすぐ近くのガードの壁に残っていたが、今はどうなっているだろうか。
 朝の七時頃から始まって昼ごろに空襲は終わった。今で言うトラウマであろう、サイレンの音とプロペラ機の音、戦後何年かはこの音を聞くとぞっとし、身体が震えたものだった。
 山形市は爆撃を受けなかった。脅しのように陸軍の連隊兵舎にちょっと機銃掃射をしただけだったという。田舎だから安全だと疎開したのに、疎開先の方が危なかったのである。

 東北の農村部の戦争はそんなものだった。それでも私の場合はともかく空襲を直接体験した。しかし、家内などはまったくなかった。
 家内の戦争体験といえば、四五年の夏、夜中に空襲だと起こされ、防空壕もないので近くの寺の境内に避難したとき、遠くの空が真っ赤になっているのを見たことである。そのときはどこが空襲を受けているのかわからなかった。近くに軍の火薬庫があったので、そこではないかと近所の人たちがしゃべっていたという。実はそれは三十㌔くらい離れた仙台への大空襲だったのだが、それぐらい近くに見えるほど激しい空襲だった。七月十日の夜だった。怖かったけれども燃え上がる空がきれいに見えたこと、みんなと寺のサルスベリの木で遊んだことが強く印象に残っているという。
 多くのむらの子どもたちにとって戦火は遠くだったのである。

(註)
1.松尾芭蕉「奥の細道」の俳句で有名な山寺のあるところ。昭和の大合併で山形市に合併している。
2.この集落は私の生家から十二キロくらい離れている。なお、後に山寺村から分村して天童市と合併した。
3.この妹のことに関しては、10年12月14日掲載の記事「働く農家の子どもたち(2)☆子守り-幼い妹の死-」のなかで述べている。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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