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渋抜きと熟柿



               果実・雑感(5)

              ☆渋抜きと熟柿

 山形の私の生家にあった二本の柿の木(今はもうなくなったが)はともに渋柿で同じ品種だった。ただし何という品種だったか思い出せない。聞いているはずなのに、あれだけお世話になったのに何事かとは思うのだが。
 今店頭で売られている「平核無(ひらたねなし)」と比べると縦長でてっぺんが少し尖っており、やや小ぶりだった。
 当然渋抜きをして食べることになるが、生家では「お湯抜き」が普通だった。南京袋あるいは大きな布の袋(註)に入れた柿をお風呂のまだ温かい残り湯に一晩漬けて渋を抜くのである。金も時間もかからず簡単だったからこのやり方だったのだろう。
 なお、岩手県葛巻町のNさん(これまで何度も本稿にご登場いただいた)の話では、ぬるま湯にそば殻(ソバの収穫後の茎)を入れ、それに渋柿を入れて一昼夜くらいおいて渋抜きをして食べたものだという。この渋抜きの主体がお湯なのか(つまり「お湯抜き」の亜種なのか)、そば殻が主体なのか(「そば殻抜き」と言うべきなのか)よくわからない。

 お湯抜きの柿は渋みが抜けて甘くなってはいるが、何でかあまりおいしいとは思わなかった。これに対して「焼酎抜き」をした柿はうまいと思ったものだった、これまたなぜかわからないが。
 この焼酎抜き、私は手伝ったことがないので実際にどのようにやるかは知らなかった。しかし家内は覚えていた。その記憶にもとづいて今も渋抜きをしている。秋田の若美町(現・男鹿市)の農家ONさんご夫婦(前にも本稿にご登場いただいた)が毎年秋になると自分の家の庭に植えてある柿の木から採って贈ってくれる大きな段ボール一箱の渋柿を焼酎で渋抜きをしているのである。柿のへたに焼酎をちょっと付け、漬け物桶のなかに入れた大きなビニール袋の中に段々に敷き詰めて入れ(段の間には新聞紙を敷き)、いっぱいになったら袋をぴったりと閉め、桶にふたをして密封し、一週間から十日ほど待つ。ときどきふたを開けて渋が抜けたかどうかを見るのが楽しみである。近所の人などにおすそ分けをして喜ばれてもいる。

 この「お湯抜き」、「焼酎抜き(アルコール抜きの方が正確なのかもしれない)」の他に、柿の渋でもって渋を抜く「渋抜き」もしていた。
 ただしこれも私は具体的にどのようにしたのか記憶にない。そのさいに使う渋は豆柿の渋だと聞いたような気がするが、さだかではない。
 でも宮城県南生まれの家内は実家でやっていたのをうっすらと覚えていた。塩水の入った桶に渋柿を何個かすりおろして入れ、そこに渋柿を漬けたように思う、だけど何しろ幼かった頃なので正確かどうかわからないという。柿を漬けた塩水が凍るころ、小屋にある桶の表面に張った薄氷を割ってこの柿を取り出し、家に戻って暖かいこたつに入って食べる、その柿のちょっと酸っぱいような冷たい甘さが忘れられない(他の渋抜きをした柿とはまるっきり味が違う、でもそれがうまく表現できないと家内はもどかしがるが)、もう一度食べてみたいと家内はなつかしく語る。

 もう一つ、渋柿を干すという渋抜きの方法がある。私の生家では聞いたことがなかったが、家内の実家ではしていたそうである。
 名前はわからないが小粒の品種の柿を串に並べて刺して外に干し、何日間か寒風にさらして渋抜きをして食べた、でも串刺ししたところが腐ったように黒くなり、おいしいとは思わなかったという。

 考えて見れば、干し柿にするのも乾燥による渋抜き法の一つだということができよう。
 干すことで水溶性のタンニンを不溶性にし、渋を感じさせなくするという点では同じであり、ただ干し柿の場合には皮をむいて寒さにさらすというところが違うだけなのである。
 しかし、干し柿はいわゆる渋抜きをした柿とはその姿形は大きく異なるし、甘さをはじめとする味や食感もまるっきり違い、違った果実だといっていいほどである。とすると干し柿にするということは渋抜きの方法と言うより新しい食品への加工方法の一種だと考えた方がいいのだろう。

 ところで、私の生家では干し柿はわずかしかつくらなかった。ほとんど渋抜きをして自分の家で食べた。家族数が多いために干し柿にする量的余裕がなかったからなのか、秋の野菜をはじめとする農作物の収穫・販売等で忙しくて柿の皮をむいて乾燥させるなどという労力的余裕がなかったからなのか、よくわからない。
 でも干し柿はよく食べた。とくに母の実家から干し柿がたくさん届いたので不自由なく食べた。母の実家には大きな柿の木が三本もあった。晩秋になると家族総出で柿の皮むきをして縄に吊るしていた。養蚕農家なので干し柿の時期は労力に余裕が出てくるからだろう。軒下にずらっと並べて下げられている干し柿は見事だった。なお、柿をむいた皮、これもぶらさげて干していた。これも甘くてうまかった。砂糖の手に入らない戦中戦後は干し柿を甘味料として料理などに使っていた。たとえば正月料理のなますに干し柿を刻んで入れていたが、私はあまり好きではなかった。
 母の実家の柿の実の姿形は生家の柿と同じだったが、少し実が大きく、品種名も違っていた。しかしなぜかこの名前も覚えていない。
 家内は実家で焼酎抜きをした渋柿はトヤマ、串干しにしたのはレンギョウ、甘柿は富有だったと記憶していたが、日本には多様な柿の品種があったとのことであり、季節によって変わりゆくその葉や実の色が家々の庭をまた裏山をかざってきた。

 1960年代以降、こうした自家用の柿は農家の庭先から姿を消すようになってきた。たまに残っている木もあるが、収穫期になっても実をとらないで放置しているのも多い。
 都市部でも見られなくなってきた。私の今住む住宅地でも、私が引っ越してからの約50年の間にほとんどなくなってしまった。新改築が進む中で柿の木など家庭果樹のあったところは駐車場や住宅敷地に変わってしまい、かつての柿の木のあった家々の景観は見られなくなった。
 みんな柿を食べなくなったからなのだろうか。でもそうでもなさそうである。秋になると店頭に大量の柿が並ぶからである。柿は買って食べるものに、自給作物としての柿は商品作物に変わってしまったのだろう。
 そして東北ではまだ柿のとれない9月末ころから果物のコーナーに柿が大量に並ぶ。和歌山などの南の産地からの柿である。やがてその産地は山形などの北に移る。
 山形県庄内の山麓に行くと柿の広大な園地がひろがっている。戦前戦後は柿のない北海道に送っていたらしいが、今は全国各地に販売しており、柿の大産地として発展している。
 そして柿は12月過ぎまで店頭に並ぶ。かなり長い期間食べられるようになったことがわかる。
 品種はほとんど「平核無(ひらたねなし)」で、私たちが庄内柿とも呼んでいた渋柿である。またさきほど述べた秋田の農家ONさんから贈っていただき、おいしくいただいている柿も同じ庄内柿である。平たくて大きく、焼酎抜きをすると本当に甘くなり、きめ細やかな舌触りで果汁がたっぷり、本当にうまい。
 しかし、売られている「平核無」はあまりうまいとは思わない。それは炭酸ガスで脱渋されているからだろうと私は考えている。
 この「ガス抜き」は、施設さえきちんとしていればきわめてやりやすく、大量に処理できる。しかも柿はそれほど柔らかくならず、樹から採ったばかりのような固さなので、その大量輸送はきわめて容易であり、店頭にかなりの期間並べておくこともできる。つまり大量生産、大量輸送、大量販売にはきわめて適した脱渋方法である。それで販売されている柿は炭酸ガスによる脱渋を行っているのだが、これなしには柿の生産販売の拡大はなかったであろう。
 柿好きの私のこと、これには大助かり、とくに網走から仙台に帰ってきてからは秋になるとリンゴとともに毎日のように食べるようになった。そういう意味ではガス抜きはありがたいと思っている。
 しかし不満もある。渋みが若干残っており、甘みは足りず、固いことである。そもそもガス抜きはその程度しか脱渋ができないからなのか、輸送や保存のために完熟させないように完全に脱渋していないからなのか、よくわからない。
 それでも柿好きの私は我慢して食べていた。もちろん秋田から贈ってもらった柿の焼酎抜きが終わったら、そちらの方がおいしいので、それだけを食べ、店からは買わなくなる。もちろん食べ終わったらまたガス抜きに戻るより他なかったが。
 しかしこの柿の渋、私の胃にはよくないらしい。一昨年の私の入院の一因にもなり、退院するとき医師から渋の残っている柿は食べるなときつく言われている。それで昨年の私は買って食べなかった。秋田から贈ってきた柿を焼酎抜きで完熟させて食べられるようになるまで待つことにした。
 でも固い柿の好きな家内は、私に遠慮しながらも時々ガス抜きの平核無を買って食べていた。それでも私は食べないでがまんできる。もともと私は昔から柔らかい(できれば熟し切ってもう潰れそうなくらいに柔らかくなった)柿が好きだからである。こうした熟柿は、固い柿(甘柿も含む)と形は同じでも中身は別の果実と言っていいくらい違うとすら考えている。もちろんそうはいってもやはり柿は柿、固いのが嫌いというわけではなく、喜んで食べてはきたのだが、やはり完熟した渋柿にはかなわない。
 とくに樹でそのまま完熟させて真っ赤になって柔らかくなった頃、それはちょうど雪の降る頃になるが、その時期に取って食べる柿の実はまさに熟柿、これは最高である。ただし、完熟するまで待っているうちにカラスやスズメに食べられてしまったり、落ちて食べられなくなったりするのが口惜しい。こんなことで本当の熟柿はなかなか食べられない。
 そこで工夫する、その一つがこれだ。渋抜きするために取った固い渋柿を何個かそのまま、あるいは渋抜きしたばかりのまだ少し固い柿をすぐに食べずに、小屋のなかのどこかに並べておく。すると年末ころにはちょうど熟してくる。それを家に待ってきて皿の上に載せ、こたつに当たりながら食べるのである。
 柿は皮も中身もまさに熟柿色、皮はぷよぷよに柔らかいので下手に触ると破れてしまい、果肉が外に出てしまう。そこで、柿に口をつけ、舌で皮を破って中身を吸い出す。すると柔らかい果肉がとろっと口のなかに溶け出してくる。それは果肉というよりもはや果汁に近い。甘い。しかもそれは暖房のない小屋などに入れておいたものだから氷のように冷たい。それを口に入れる、こたつのなかは暖かい、これはたまらない。ただし、間違ってこたつ布団の上に果汁をたらしてしまって怒られないように注意しながら食べなければならないのがちょっと不便だが。
 私の熟柿好きを知っている母は、秋遅く生家の前に植えてある柿の実を収穫して竹籠に並べ、小屋の中に入れて熟させておき、年末年始に帰る私に食べさせてくれたものだった。うまかった。その母ももうこの世にいなくなり、柿の木もなくなり、このような熟柿はもはや食べられなくなってしまった。

 こうした思い出があるからだろう、私は家内と違って柔らか派、熟柿派である。その私が願っているのは熟柿を店で売ってくれないかということだ。もちろんそれは無理なこと、難しいことであることはよくわかっている。さきに述べたように熟柿はそもそも腐敗寸前の果実なのだからた。だから熟柿が店頭に並ぶということはほとんどなく、食べたくとも食べられない。できれば多くの人に賞味してもらいたいのだが、それも難しい。
 そこでお願いは、熟柿の果肉をそのまま瓶詰や缶詰にして販売してもらえないかということだ。熟すまで樹に生らせていたら収穫できないので、私の子どものころやったようにまだ固い柿を収穫して貯蔵し、自然にもしくは人工的に完熟させ、へたをとってそのまま潰して缶詰、瓶詰にし、保存できるようにして売り出すことができないだろうか。
 砂糖など加えなくても十分に甘い。加えたらかえってうまくなくなるかもしれない。だけど、砂糖を入れると腐敗を遅らせる効果があるという。砂糖が水分を抱え込んでその腐敗を遅らせるのだそうである。それならやむを得ない、若干の砂糖を入れてもいいだろう。ただしそうなるとこれは「柿ジャム」ということになる。
 といっても、こうした加工が技術的に可能なのか、経済的に引き合うかどうかわからない。そもそも需要があるかどうかもわからない。
 私のような熟柿派、瓶詰やジャムにしてまで柿を食べたいなどと思う人がそんなにいるとは思われないし、日本人のジャムの需要はそれほどあるとは思えないからだ。
 そもそも日本にはジャムをつくる伝統がない。日本の果実は十分に甘く、酸味も少ないので、砂糖を加えてジャムになどしなくとも生食でおいしく食べられるからだろう。さらに米が主食ということもあるかもしれない。米の飯は甘いので、梅干しや漬物等塩分のあるおかずはあうが、甘いものはおかずにならない、これもジャムの食文化を育ちにくくしたのではなかろうか。こうした一般論からしても柿ジャムの需要は少ないだろう。とすると少量生産しかできず、価格は高くなって需要は伸びない。私もいかに好きとはいえ年金暮らし、高ければやはり買わない。そうなると柿ジャムなどできるわけはない。私の要望はあきらめるよりほかない。
 秋田のONさんご夫婦から柿を贈ってもらえる間は、今まで通り焼酎抜きができる間は、柿のうちの何個かを物置に何日間かおいて追熟させ、熟柿状態にして真冬にこたつに入って食べる、これを楽しみに生きていこう、こんなことを今考えている。

(註)
 春先、水稲の種籾の発芽を促進するためにぬるま湯に浸すが、そのさいに種籾を入れる大きな袋を渋抜きのための袋としてそのまま使っていたような記憶がある。


★附記・2016年を迎えて

 国内はおだやかに新春を迎えたようである。何はともあれおめでたい。
 私事になるが、東京農大を定年退職した直後の2006年の春から本稿を書き始めて今年でちょうど10年、それをこのブログで公表しはじめた2010年暮れからもう5年になる。
 書き始めたころは私が70歳、公表したのは74歳のときだった。それで本稿の題名を「随想・東北農業の七十五年」としてブログに連載してきた。
 しかし、私ももうすぐ80歳になる。それでももう少し本稿を書き続けたいと思っている。
 となると、これからの本稿の題名は「随想・東北農業の八十年」としなければならなくなる。しかし、そのように中途から変更すると、パソコンの検索等々でご不便をおかけする恐れがある。とくに、まだ掲載が続いているのに別のブログと思われてしまう可能性もある。さらに、この10年間の農業・農村・農家の状況、変化についてはときたまちょっと触れるだけでしかなく、話の中心はそれ以前のことである。
 そんなことから、これまで通り「随想・東北農業の七十五年」として本稿の掲載を続けさせていただくことにするので、よろしくご了解のほどお願いしたい。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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