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種無しの柿・ブドウ・スイカ



               果実・雑感(6)

           ☆種無しの柿・ブドウ・スイカ

 私たちの時代の子どもたちがみんな知っていた昔話「猿蟹合戦」は、猿と蟹との間の柿の種とおにぎりとの交換から話が始まる。この交換話を私たちは何の疑問ももたずに聞いてきた。おにぎりはもちろんのこと柿の種も知っており、その使用価値の違い、交換成立の理由も理解できたからである。
 同時に、村の子どもも町の子どもも、猿蟹合戦の絵本など見なくとも、柿の種はどんな形をしているかを知っていた。柿は見慣れたもの、よく食べるものであり、甘柿であれ渋柿であれ、ほとんどみんな種が入っていたからである。私が毎年食べた生家の柿、母の実家の柿、ともに渋柿だが種があったし、たまにもらって食べる甘柿にも、さらには干し柿にも種が入っていた。
 この種はじゃまだった。種を吐き出したりする面倒なしに食べられれば、種の代わりに果肉が入っていればもっといいのだがなどと思って子ども時代を過ごしたものだった。
 ところが今店頭に並んでいるのはほとんど「平核無(ひらたねなし)」である。その名の通り種無しの平たい柿である。普通の柿と異なる倍数体をもっており、突然変異で新潟で生まれ、明治期に平核無と命名されて普及したものとのことである(註1)。
 いうまでもなくこれは本当に食べやすい。そしてうまい。姿形もよい。だから店頭に並ぶ。一方、自家用の多様な種あり柿が姿を消している。たとえば甘柿、これはすべて種ありだが、これが店頭に並んでいるのを最近見たことがない。地域にたくさんあったさまざまな品種の柿も売られていない。これで本当にいいのかどうか疑問になるが、とくに問題としたいのは今の子どもたちはこの種無し柿だけを食べているので柿には種がないものだと考えてしまうのではないかということである。
 柿の種を見たことのない、お菓子の「柿の種」で種を想像するしかない、猿蟹合戦の話が理解できない子どもたち、何かおかしい気がするのだが。便利になることは知識を失うことでもある、そういうことなのだろうか。
 柿の実からばかりではない、ブドウの実からも種がなくなりつつある。

 山形内陸はブドウの産地でもある。私の生家ではブドウはつくっていなかったが、母方の叔母の一人の嫁入り先は果樹農家でブドウとリンゴを中心に栽培していた。だから、毎年9月15日、生家の八幡神社のお祭りに招ばれた叔父叔母がブドウをたくさん背負って持ってきてくれた。青いナイヤガラ、黒いキャンベル、紫のデラウェアなど、それで名前を覚えた。その中でとくに私が好きだったのはデラウエアだった。酸味が少なくさっぱりした甘さ、小粒でかわいい形とその淡い赤紫色も好きだった。
 ただ一つ不満なのは、種取りがめんどうだったことだ。小さい粒を親指と人差し指ではさんで潰しながら皮を取り、果肉だけを口に入れ、その果肉を舌で潰しながら種をとる、これがけっこう大変なのである。しかも種をとると、実質食べるところは少ない。とくに小粒のデラはうまいけれども食べがいがなかった。

 その問題を解決したのが1950年代後半に開発されたジベレリン処理だった。ジベレリンは日本の研究者が世界で初めて発見し、またその構造を決定した植物ホルモンであり、さらに同じく日本の研究者がそのジベレリン液にデラウェアの房を浸すと種ができずに果粒が大きくなる(註2)ことを発見し、種無しブドウの生産を実用化したのである。
 これには驚いた。そんなことができるなど考えもしなかったからだ。

 ちょうど同じころのことである、種無しスイカが大きな話題になった。コルヒチンという薬品でスイカの苗を処理すると染色体が倍加する、そのことを利用して種子のできないスイカをつくる方法が開発された(註3)というのである。それも同じく日本の農学者の手によってである。

 このジベレリン処理とコルヒチン処理の話を聞いたのはちょうど学部学生のころだった、胸が躍った。園芸農家の子どもである私、農学者の道を選んで品種改良等新しい農業技術を開発し、農家の暮らしを楽にする役に立ちたいと考えていた私にとって、これはきわめて刺激的な話だった。
 それで園芸学あるいは遺伝学の研究者になる道を選ぼうかとも考えた。
 しかし問題があった。当時は今のように顕微鏡写真が簡単に撮れるような時代(それどころかパソコンに保存して見られるようになった時代)ではなく、顕微鏡をのぞいて写生して結果を伝えなければならない時代だった。だから学生実験の時にはまずその実習をさせられた。ところが私は前にも述べたように持って生まれた不器用な人間、絵を書くのはすさまじく下手、顕微鏡で見た植物細胞の写生などまともにできない。きわめて不正確な絵になる。いや何が何だかわからない絵になるといってよい。これでは他人に自分の研究成果も発表できない。その前に、そもそも顕微鏡をうまく操ることができない(訓練すれば何とかなるのかもしれないが)。つまり自然科学の研究者にはなれない。自分の不器用さ、これが自然科学ではなく農業経済学と言う社会科学を専門分野として選ばせた一つの原因となったのである。もちろん他にもっと別の大きな要因があったのだが、ときどきふと考えることがある、自分が園芸学や育種学を専門として選んでいたらどうなっただろうかなどと。でも、おかしなもので白衣を着て研究している自分の姿はまったく想像することができない。挫折しただろうことがはっきりしているからだろう。

 ちょっと脱線してしまったが、さきほどちょっとだけ触れたスイカの種のことに話を戻そう。
 いうまでもなく、スイカには多くの種が入っており、本当に食べにくかった。
 夏の暑い日、井戸水で冷やしたスイカを祖母か母が大きな包丁で上から四分の一に割り、さらにそれを輪切りにしてくれる。皿に盛られたその中から一切れを手に取り、思いっきり上からかみつく。サクッとした感触、冷たい果汁が甘く口の中にひろがる。うまい。しかし三口目ころからはそうはいかなくなる。下の方に黒い種がたくさん入っているからだ。そこで口の中に入ったスイカの果肉を舌で潰して果汁を喉に流し、一方で口の中に種を残す。そして果汁がなくなったら口に残った種を縁側から外にプッと吐き出す。子どものころはそれくらいしかできないので、行儀が悪いと怒られることもない。
 しかし、うまく種を吐き出しきれず、飲み込んでしまうこともある。すると大人や友だちからよく言われていることを思い出す。スイカの種を間違って食べると種が盲腸に入って盲腸炎(今でいう虫垂炎)になるという話だ。当時「盲腸」(盲腸炎を私たちはこう呼んでいた)は大病だった。腹膜炎になって死ぬ人もたくさんいた。それを知っているからしまったと思うがもう遅い。
  『講談社の絵本』の一冊(主題が何という名前だったか覚えていない)に漫画が後ろの方に載っているのがあり、そのなかにこんなのがあった。子どもがあわててスイカを食べているうちに種もいっしょに食べてしまい、その種が昼寝しているうちにお腹のなかで芽を出し、へそから身体の外に伸びてきてその蔓にスイカが生ったというのである。もちろん最後はそれは夢だったということで終わるのだが、うそだとわかっていても種を食べてしまうと何か気持ち悪かった。
 種無しスイカになれば、こんな心配を子どもはすることはなくなるし、大人も品よくしかも思いっきりかみついて食べることができる。まさに大発見だと思ったものだった。

 また話は横道にそれるが、今言った『講談社の絵本』は、1936(昭11)年から開戦直後まで、講談社から子ども向けに発刊された絵本のシリーズのことである。戦時中は廃刊されたが、戦後再刊され、1970年ころまでシリーズが発刊された。
 日本の昔話から外国の童話、偉人伝などまでの主題が分かりやすい言葉ときれいな絵で書かれ、これまでの絵本よりも分厚く、読みやすかった。主題の話の後ろにいくつかの短い話や詩、漫画が載せられており、いま述べたスイカの漫画はそのなかの一つだった。
 子どものころの私にとってはあこがれの本だった。すべて読みたかった、欲しかった。しかし、戦前の農家にとってはきわめて高価、買ってもらうことなどできなかった。近所の非農家の友だちから読み古したのを借りて何冊か読むことができたが、全巻そろえて読みたかった。
 話を戻そう。

 さて、それではその後種無しブドウと種無しスイカはどうなったのか。
 まずブドウだが、最初に実用化されたデラウェアについていうと、ジベ処理は急速に普及した。それで本当に食べやすくなった。種を取るめんどうがなくなった上に、小粒であっても種がないので食べ応えがあるようになり、果肉は種ありに比べると大きくなったからである。これで一時期のデラの消費量の減少は止まり、今は種なしデラが普通になっている。山形はその大産地である。
 一方、巨峰などの大粒種が普及し、種があっても果肉が多いので食べごたえがあるようになったが、こうした大粒種でもジベ処理による種無しが普及するようになった。さらに最近では皮まで食べられるブドウも開発され、ますます食べるのが楽になっている。しかもうまい。
 農大のときの私のゼミの卒業生の一人で山梨の果樹農家の後継者として活躍しているS君が毎年秋になるとシャインマスカットなどの有名な品種に加えて新しい品種のブドウを送ってくれるが、その見事さとうまさは驚くばかりである。
 ジベレリン処理にかなりの人手がかかる、処理でもって糖度が下がったりしないようにする等々、作る方はいろいろと大変なのだが、食べる方は本当に楽になった。
 このように種無しブドウの方は大いに普及発展したのだが、もう一方の種無しスイカはその後どうなったであろうか。
 これも当然のことながら急速に普及した。私も期待した。
 たしかに黒い種はなかった。しかし、未熟の白い小さい種が赤い果肉の中に若干残っている。これは柔らかいし、小さいので、食べてもとくに邪魔にはならない。だけどおいしくはない。やはり種を食べているという感じがし、何か抵抗感がある。さらにもう一つ、甘みが足りない気がする。実際に糖度が落ちるらしい。こんなことから消費者にはあまり受けなかったようである。
 もう一方で生産者の方は、種無しにすると手間がかかるし、コストが高くなるので困る。
 そんなことで生産者、消費者双方から評判がよくなくなってきた。
 そうこうしている間に、普通の種ありスイカで昔よりも種の少ない品種やさらに甘い品種ができ、栽培技術の進歩で食味はさらによくなつてきた。
 そんなことから一時期の種無しスイカブームは衰え、今はもとに戻って種ありスイカが普通になってきている。
 このように、ブドウとスイカ、同じ種なしでも日本国内では現存とほぼ消滅との二つに分かれてしまった。しかし、東南アジアなどでは種なしスイカの栽培が普通になっているらしく(註4)、いずれにせよ当時日本で開発された技術が今も生きていると言える。これはうれしい。

 ところで、今スイカの話をしたが、ご存じのようにスイカは果物ではない。そもそも果物は樹木に生る果実のうち強い甘味があって調理せずにそのまま食べることもできるものをいうとのことだからだ。ところがスイカは草本類であり、野菜(果菜)なのである。
 しかし、市場や栄養学ではスイカを果物に分類しているので果物と言っても完全な誤りではないし、種無しということとその技術開発や話題になった時期がほぼ同じ時期だったことから一括りに述べてみたものである(註5)。
 ということで、これからはまたもとの樹木に生る果実で食用となるものの話に戻り、思いつくまま書かせてもらうことにする。

(註)
1.呼び名は地域により違っており、私たちは庄内柿と呼んでいたが、新潟では八珍柿、おけさ柿、和歌山では紀の川柿と呼んでいるとのことである。

2.本来ブドウは受粉するとつまり種ができると子房がふくらんで大きくなり食べられるようになるのだが、ジベレリンに子房を浸すと種ができずに子房がふくらむ、つまり種無しブドウができるというわけである。
3.スイカが発芽したころにコルヒチンという薬品で処理して染色体を倍加させ、それでできたスイカ(4倍体)と普通のスイカ(2倍体)を交配させて3倍体のスイカの種をつくり、それを栽培して受粉させてもできたスイカには種ができない、つまり種無しスイカができるのである。

4.果物としてよりも水やジュースの代わりとしてスイカを食べるので種を取る手間がかからないのが喜ばれることと、労賃が安いために価格がそう高くならないことなどからのようである。
5.種無しの果実といえば、受粉しても「雌性不稔性」が強いため種子ができにくいという性質をもつために種無しになりやすい温州ミカンについても語らなければならないのだろうが、東北を中心に語っているのでここでは省略させてもらう。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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