Entries

身近な食べ物だった栗



                 果実・雑感(7)

              ☆身近な食べ物だった栗

 これまで述べてきた果物は、すべて多肉質で水分が多く、軟らかい果実だった。これに対して成熟すると果皮が硬く乾燥する果実がある。栗やクルミがその典型で、私たちが一般に「木の実」と呼んでいるものだが、これからはその木の実について思いつくまま書かせていただく。

 栗拾い、私はしたことがない。生家には栗の木がなかったし、母の実家に大きな栗の木があったが、栗の収穫の時期は生家の秋作業がまだ終わらないので連れて行ってもらえなかったからである。近所の魚屋さんの裏の畑に一本あったが、生垣で入れないようになっていたのでこれまた拾えない。山が遠いので山に拾いに行くこともできない。遠足で山に行ったとき栗の茶色のイガが落ちているのを見つけ、実が入っているのではないかとみんなで大騒ぎになるが、残念、あるわけはない。そんなことでこの齢になるまでまともに栗拾いをしたことがない。
 それでも、毎年、鋭いイガのなかから栗の実を取り出すことはしていた。九月の八幡様のお祭りのときにさまざまな露店と並んでまだ青いイガのついた栗の実を売る人がおり、それを買い、イガを自分でむいて完全に熟していない生の栗を食べるのが子どもたちの楽しみだったのである。そのさいのイガのむき方については前に詳しく述べているのでそれを見ていただきたいが(註1)、イガから取り出した実のまだ茶色になっていない皮(鬼皮)は柔らかく、簡単に破って実を取り出せる。しかし、それを覆っているまだ真っ白の渋皮をむくときに指と爪に渋がべとべとくっつき、黒くなるのがたった一ついやなことだった。未熟のしかも生のままの白い実は甘くも何ともなかったが、カリカリと音をたてながら初秋を味わったものだった。
 秋深くなると、イガのないまさに栗色の成熟した栗をおやつとして祖母が何個かくれる。筆入れからナイフを取り出して固い栗の鬼皮に傷をつけ、そこに親指の爪を立ててむく。すると茶、銀、黒の筋の入った厚い渋皮に包まれた実が出てくる。この渋皮を取らなければ渋くて食べられない。そこで今度はナイフの刃を立てて渋皮をけずり取る。これでようやく食べられる。若干黄色みがかった固い実をかじるとカリカリと音がする。まだ甘くはない、でもほかの食べ物にない味であり、それを楽しみながら食べる。それはいいのだが、ナイフの後始末、これがいやだった。ナイフの刃に渋がべっとりとくっついており、それを後で取るのが大変なのである。もっといやだったのは、せっかく時間をかけてきれいにむいたのに中に虫の食った穴がトンネルのようにあいているときだ。それどころかそのなかにまだ生きている虫が入っているときがある。そういう栗はむく前に鬼皮の表面をよく見るとぽつっと黒い小さい穴が空いているのでわかるのだが、小さいころに虫が入るのでその穴が小さすぎ、見落としてしまう場合が多い。せっかく苦労してむいたのに食べられない、そんなときはがっかりである。
 冬になると、いろりの火の燃えている下の灰の中に栗を突っ込んで焼く。この焼いた栗は甘かった。熱々の実を口の中でフーフーしながら食べる、これは私たち子どもの冬の楽しみだった(註2)。しかもこれだと渋取りに苦労することもない。そっくり黄色い実が取り出せ、それをそのまま口に入れることができる。ただし、灰の中の栗がはねて火傷することに気をつけなければならない、それが大変といえば大変、でもこれもスリル、焼くこと自体も楽しかった。当然のことながら、猿蟹合戦で栗がいろりの灰のなかに隠れて猿を火傷させてやっつけるなどという話は実感として理解できたものだった。
 栗がたくさんあるときには祖母が鍋で煮てくれる。それが冷えてから手で皮をむいて食べるのだが、皮は柔らかくなっており、渋皮も簡単に取れるので食べるのは楽だった。またほくほくしていて甘かった。
 それから栗ご飯である。めったになかったが、これはいわゆる糧飯とは違い、好きだった。とくにごま塩をふりかけて食べると栗の甘みが引き立ってうまかった。
 このようにして食べた栗は、母の実家から持ってきてくれたものだったり、知り合いや近所の人からもらったり、近在の山村から売りに来る人から買ったりしたものだった。
 ここまで書いたらまた思い出した、干した栗を食べたこともあった。何日間かわからないがきっと天日で長期間乾燥させたのだろう、普通の栗よりちょっと小振りで軽い。乾燥させているうちに水分が抜けて縮み、軽くなるのだろう。皮を押すとへこむ。中身の栗の実の水分が抜けて縮む、一方鬼皮の方は固いのでそんなに縮まない、それで鬼皮と実の間に隙間ができるからだろう。その干し栗の鬼皮を歯で噛むと簡単に割れて中身を取り出すことができ、渋皮も簡単にはがれ、水分が抜けて縮まってしわしわになった黄黒色の小さい栗の実が現れる。硬くて大変だが、噛むとパリンと小さく割れるときもあり、それをしゃぶりながら食べる。これは本当に甘い。きっとその昔のお菓子であり、また保存食でもあったのだろう。これはもらい物だったのか、買ったのかわからない。
 そんなこんなで、栗は私たちにとって身近な食べ物だった。

 仙台に来てからは栗を食べるなどということはほとんどなくなった。寮生活、続いて自炊生活だったから当然のことである。しばらくぶりで食べたのは結婚してからである。家内の実家の山畑に栗の木が二本あり、その実を秋になると家内の母が持ってきてくれることがあったからである。しかも皮をむいてである。その夜のご飯は当然栗ご飯である。
 でも、不作だったり、盗まれたりするとアウト、食べられない。家内にとっては子どものころ秋に毎年食べていたものなので、食べないと落ち着かないようで、何年も食べないと生栗もしくは栗の瓶詰を買ってきて栗ご飯をつくる。
 十数年前網走に引っ越してからもそうだった。家内の実家から送ってくると栗ご飯をつくる。
 さらに熊本県産の栗もわが家にまぎれこんでくるようになった。しかも大量、栗の質も本当にいい。研究室の助手をしていたWMさん(これまで本稿に何度も登場してもらった)が熊本出身のご主人の実家から大量に送られてきたのでおすそ分けだとわが家に届けてくれるのである。それで家内は嬉々として栗ご飯をつくる。
 まず朝ご飯で食べ、それから私の昼の弁当に入れる。同時に、重箱に詰めて私に持たせる。昼食時に研究室の院生や学生に振る舞うためである。珍しい、なつかしいとみんな喜んで食べてくれる。
 さらに家内はいつもお世話になっているお隣のSさんの家に届ける。Sさんの娘さん二人は私の幼い孫二人と同年代、孫が網走に来るといつもいっしょに遊ぶ仲になっているということもある。北海道の北部、東部は栗のとれないところ、栗ご飯など食べたことがないらしく、とっても喜ばれる。これが毎年の恒例になっていたのだが、網走を去る年度の秋晩く、朝早く家内ができたばかりの栗ご飯を持ってお隣に届けた。玄関先でそれを渡すとSさんの奥さんが腹をかかえて笑って言う、「実は昨晩、娘から栗ご飯を食べたくなったのでT君(孫の名前)のおばあちゃんに頼んでちょうだいと言われたばかり、それが今朝届くとは、何とタイミングのいいこと、声が聞こえたのかしら」と。家内もいっしょに大笑いをしたということだが、翌年は私たちが引っ越し、もうごちそうできなくなってしまった。
 仙台に帰ってからも毎年栗ご飯を家内がつくる。ただしさっき言った家内の実家の事情があって送られてこない年があり、またWMさんとも離れてしまったので熊本産の見事な栗(調べてみたら熊本は茨城に次いで第二位の栗の生産県なのだそうだ)も手に入らない。そういう年には生協ストアにたまに並ぶ生栗を買う。そのときの問題は生栗の皮むき 渋皮むきだ。家内は包丁を手にこたつに入り、新聞紙をこたつの上に大きく広げ、ゆっくり時間をかけてやる。勤めのなくなった私も手伝わざるを得ない。しかし生来の不器用な私のこと、家内の三分の一の能率までいけばいい方、でも猫の手よりは役に立つ。こうやって苦労してむいた栗をご飯といっしょに炊き込む。あるいはもち米といっしょに蒸す。できあがりは本当にいい匂い、それにごま塩をかけて栗とご飯の甘味を引き出して食べる。
 なお、家内の実家の栗の実は小さい。だから皮むきが大変なのだが、家内に言わせるとこれは柴栗だからだという。これは山栗とも呼ばれ、山野に自生している栗の木はこれである。これに対して私の母の実家の栗や売られている栗の実は大きい。WMさんからいただく熊本産の栗も見事な大きさだった。これは栽培品種であり、柴栗はその原種だとのことである。
 このように栗には野生種と栽培種があることは知っていた。しかし、栽培種は庭園果樹として屋敷内に植えてあるだけで、畑でつまり樹園地をつくって栽培するなどということはないものと考えていた。栗拾いなどは山菜採りと同じく山に行って野生の栗を拾うことを言うと思っていた。自分の小さいころからの体験から、またとくに栗の育ち方に関心をもっていなかったことからくるそうした先入観念が間違っていることを知るのは、かなり遅くなってからのことだった。

 1969年の夏、山村振興調査で秋田県の田沢湖の西部にある西木村(現・仙北市)に行ったとき(註3)のことである。役場の方との雑談で西木村という名前は西明寺村と桧木内村と合併してできたさいに両村の名前から一字ずつとってつくったものだ、この西明寺は実は全国の栗産地で有名なのだという話をしてくれた。西明寺栗が日本の栗をクリタマバチから救う大きな役割を果たしたからだというのである。それはこういうことである。
 1940年代に中国から侵入したクリタマバチ(クリの新芽に虫こぶを作る害虫)が日本各地に急速に分布を拡大し、秋田県に侵入した50年代には日本の栗は全滅かとまで言われるようになっていた。栗の栽培が県内でもっとも盛んだった西明寺地区も壊滅的といわれるほどの打撃を受けた。しかしそこであきらめなかった。クリタマバチの被害を受けた栗園のなかでまったく害を受けずにそのまま残っていた木、つまりクリタマバチに強い木を選抜し、それを育成して被害をなくそうとしたのである。それは成功し、西明寺栗は全国に有名になり、同時にそれに学んで各地でクリタマバチ抵抗性品種の選抜育成に取り組むようになったというのである。
 まったく知らなかった。もちろんクリタマバチの名前は聞き知ってはいたが、当時の私の研究テーマとは直接関係がなかったし、調査研究も始まったばかりでまだまだ視野の狭かった頃だったからやむを得なかったとは思うが、それにしても勉強になった。
 また栗が畑で栽培されていることも知った。それでも、こうした栗園は山村にしかないものと思っていた。平地で大規模にやっているところをまともに見たのはそれから10年くらいして、茨城県でだった。もちろんそのころは茨城県が日本一の産地だということは知識としてはあったが、まともに平地に栗の園地が広がるのを見るのはそのときが初めてだった。さらにその後、宮城県にも栗園があること、それも製菓会社が営んでいることを知り、また農家が新たに造成した園地があることも知った。
 一方、ちょうどそのころは自給自足的家庭果樹がなくなるころであり、前に述べた柿と同じく栗も屋敷内から消えていった。それと同時に、最初に述べたような昔の私たちの体験した栗の食べ方もなくなっていった。
 これはちょっと寂しいが、栗饅頭や栗羊羹などの和菓子や洋菓子にも栗が使われてお菓子やケーキ屋さんにその昔以上に並んでいるのはうれしい。
 秋になると生協ストアの店頭に秋の果物といっしょに生栗が並ぶ。年末になると甘く煮た栗がビニール袋に入って売られる。正月料理の栗きんとんにでも使うのだろうか。何かほっとする。ほんの一時期、量もたいしたものではないが、まだこれを買って家庭で料理におやつに使っている人がいると思うとうれしい。

 ちょうど同じころの秋から冬にかけて、天津甘栗も店頭にたくさん並ぶ。シロップをかけて石焼きしたものらしいが、皮が簡単にはがれ、また非常に甘いので、おやつには最適、ついつい手が出てしまってたくさん食べてしまう。この名前からわかるように中国産であり、品種も日本の栗と違う。またこれは果実というよりお菓子として食べていると言っていいだろう。つまり日本の栗とは異なるものと考えていいのではなかろうか。だからこれはこれで食べていいのだが、これで日本の栗の代用にはしてもらいたくない。やはり秋になったら日本の栗を日本流のやり方で食べてもらいたい(もちろん新しいさまざまな食べ方があっていいが)。でも、今はいろりのない時代、栗を焼いて食べるなどということはできなくなっている。それがざびしい。何とかできないだろうか。

 青森県の三内丸山遺跡からの出土品の分析で、縄文時代には栗が栽培されており、主食でもあったことがわかったということだが、このように何千年も前からの伝統のある食材であり、また山村等では最近まで重要な食材であったこの栗を私たちの食に改めてきちんと位置付け、最初のところで述べたような食べ方なども後世に残し、わが国の古代からの栗にかかわる文化を維持発展させていく必要があるのではなかろうか。

(註)
1.11年1月26日掲載・本稿第一部「☆季節の行事、祭り」(6段落)参照
2.11年2月1日掲載・本稿第一部「☆水浴びと冬の遊び」(3段落)参照
3.この調査に関してはで、鉄道敷設との関連で下記の本稿記事で触れている。
  12年5月7日掲載・本稿第四部「☆東北における国鉄路線の新設」

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR