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笹の実、次年子・笹子



                  果実・雑感(10)

               ☆笹の実、次年子・笹子

 「笹に実が生った」、1945年、敗戦の年の秋、こんな噂が私の生家の地域でひろがった。しかもそれは食べられると言う。子どもではあったが、まったく初めて聞くこと、信じられなかった。
 数十年ぶりのことであり、笹に実が生るのは凶作の年、今年は大変な年になると言う。実際にその年の米は大凶作だったのだが、いずれにせよ食糧難の時代、笹の実は食べられるというので、山に採りに行った人がかなりいた。近所にも採ってきた人がおり、その人から見せてもらったら麦とそっくりで驚いた。ほぼ同じ形、大きさ、しかも茶色、たしかに食べられそうだった。
 見せてもらったのは私の生家の籾戸のわき、見せてくれた人の掌のなかで日光に光っていた茶色の笹の実、その情景は鮮明に覚えている。だけど、見せてくれた人が誰だったのかまったく思い出せない。近所に縁故疎開してきた男の人だったような気がするが。
 私は実を見ただけ、笹に実っている姿は見ていない。また、食べてもいないのでどんな味なのかもちろんわからない。どうやって食べるのかは聞いたのかもしれないが覚えていない(このことに関しては末尾の「追記」を参照されたい)。

 ちょっとここで1971年に話は飛ぶが、山形県舟形町に山村振興の調査に行ったときのことである。
 地域振興のために何をなすべきかを話し合う集落座談会を全集落で開くので出席してくれとの町からの話でいくつかの集落をまわった。奥羽山脈の麓から最上川を挟んで出羽山地の麓までかなり広い範囲を回ったが、もっとも印象に残ったのが松橋という集落だった。出羽三山の東側のふもとにある本当に山奥の集落で車で来ればここが行き止まり、隣の大石田町次年子(じねんご)集落までは山の中を歩いて行かなければならないというまさに行き止まりの山奥の山村集落だった。
 なぜこの松橋が強く印象に残ったかはまた後で述べる予定でいるが、ここで話題にしたいのは次年子という隣の集落の名前である。「じねんご」、初めて聞く珍しい名前だった。何でこういう名前がついたのか、一体どういう意味があるのか、いつか調べてみたい、同時にいつかこの松橋から次年子まで歩いて峠越えをしてみたいなどと思ったものだった。

 また話は飛ぶが、それから5年後のことである。農地流動化に関する農水省からの委託調査で秋田県鳥海町(現・由利本荘市)に行った時のことである(註1)。役場で町の概況を聞いているとき、町の最南端で鳥海山の東麓に「じねご」という山村集落があるという話が出た。いただいた地図で探してみたが、それらしい集落がない。聞いて見たら笑いながら教えてくれた、「笹子」という地名の書いてあるところがそれだ、こう書いて「じねご」と呼ぶのだと。
 何で笹子がじねごなのか、じねごとはどういう意味なのか、不思議に思ったのだが、そのとき私の頭に浮かんだのは山形の大石田の「次年子」だった。「笹子」、「次年子」と漢字は違うが、読み方は「ん」がつくつかないが違うだけで基本的に同じ、ともに山村集落で直線距離だけで言うとわずか数十キロ、きっと同じ言葉のはず、何か共通する意味があるのだろう、いつか調べてみよう、それでそのときは終わったが、「じねご」「じねんご」という地名はその後も頭の片隅にひっかかって残った。

 それからまた十数年過ぎてから、90年代に入ったころではなかったろうか、私が生家に帰ったとき、雑談で弟がこんなことを教えてくれた、次年子は今「そば街道」として有名になっていると。
 山間豪雪地帯のために過疎化が進んでいたのだが、数軒の農家が自分の家屋を利用して昔からつくって食べてきたそばを食べさせる店を開いて売り出し、それがそば街道と称されて大人気、土日などは県外ナンバーの車で渋滞するほどになっていると言うのである。
 これには驚いた、同時にうれしかった。

 それからさらに何年か過ぎ、定年で少し暇になったころ、ふと「次年子」、「笹子」を思い出し、何となく気になって考えてみた。そしたらこんなことが頭に浮かんできた。
 「じねご」あるいは「じねんご」という言葉は、鳥海町の「笹子」ということからすると笹と関係があるのではなかろうか。もしかすると「笹子」は「笹の子ども」つまり「笹の実」を意味するのではないか。
 鳥海町、大石田の両集落ともに山間部にあり、笹がたくさん生え、何年かに一度は笹の実が生る山村集落である。それで「笹の実」を意味する「じねご」あるいは「じねんご」という言葉を集落の名前としてつけたあるいはつけられたのではなかろうか。
 そのさい、鳥海町の集落では「じねご」を漢字で書くときにその意味に即して「笹子」にしたのではないか。一方大石田の集落では同じく笹の実の生る集落ということで「じねんご」と名前をつけたが、漢字にするときは漢字の読みに合わせて「次年子」としたのだろう。

 とは考えたものの、「じねんご」は本当に笹の実のことを言うのだろうか。半信半疑で 『広辞苑』で調べてみた。「じねんご」でひいてもわからないだろうと思い、「笹の実」をひいてみた。そしたら何とあった、「笹の果実。ささみどり。自然粇(じねんご)」とある。これで笹の実と「じねんご」は結びついた。
 それでまた「自然粇」をひいてみたら「竹の実」とあった。そうなるとまたちょっと意味が違ってくる。でも、笹子も次年子も寒冷地で竹はあまり育たず笹の生えるところ、また笹は竹と同じ仲間、そういうことからするとここでの「自然粇」はやはり笹の実と理解していいのではなかろうか。
 そうだったのである、笹子集落も次年子集落も自然粇(じねんご)集落=笹の実集落だったのだ。あるいはこんなことはもうとっくにわかっていることかもしれない。でも私にとっては自分で考えまた調べた結果としての新しい発見、うれしかった。

 今回これを書くにあたり、改めてネットの辞書で「笹の実」を検索してみたら、次のように出てきた。
 「笹の実 自然粳(じねんご)。」(『コトバンク』)
 「ササの実。じねんご。凶作の年には食料とした」(『大辞林』)
 「竹の実。自然粳(じねんご)。」(『デジタル大辞泉』)
 基本的には広辞苑と同じである。ただ「自然粳」は『広辞苑』の「自然粇」と一字違う。しかし読み方は同じじねんごであり、「粳」は「うるち」、「粇」は「ぬか」という意味で、「粇」は「粳」の異字体でもあるとのことである。したがって両者は同じものと考えていいであろう。なお、パソコンで検索した辞書では「自然粳」と書いているのが多いので以下この漢字を用いることにする。

 ところで、自然粳(じねんご)というと自然薯(じねんじよ)を思い出す。いうまでもなく自然薯(註2)は日本原産のヤマイモである。自然粳の親の笹も日本土着の種が多く地方変異種も多いとのことである。このようにともに日本原産の野生種なので、昔からある自然の笹の実、自然のヤマイモということで、先祖は自然粳、自然薯という漢字名をつけたのであろう。
 いうまでもなく自然粳、自然薯は山林原野に自生している。次年子集落、笹子集落の地域もそもそも人間が住み着こうとしたときは一面笹原だったのではなかろうか。それを開いて家々を、田畑をつくっていったのだろう。その過程で、あるいは開発が終わって残った笹原で、笹の実が一面生るのを見た、それで笹の実の生る集落、次年子・笹子=じねんご・じねご集落と命名したのかもしれない。
 次のようなことも考えられる。次年子、笹子集落はともに山間冷涼地域である。きっとかつては米もあまりとれなかった地域、絶えず冷害など凶作にあう地域だったと推測される。それを笹の実まで食べて耐えてきた、いや笹の実で助けられた、こうしたことから笹の実=じねんごという名前を集落につけた、そういうことなのかもしれない。

 そんなことを考えていたらふと会津の民謡を思い出した。
   「会津磐梯山は 宝の山よ
   笹に黄金が エーまた なり下がる」
 私はこの歌詞をこう理解してきた。秋、磐梯山のふもとには笹の葉のように大きく伸びた稲の葉のなかに黄金色に熟した稲穂が垂れ下がる、これは磐梯山からの水や風などの恵みがもたらしたもの、まさに磐梯山は宝の山だと。
 しかし、次のようにも解釈できる。この歌の言う笹はやはり言葉通りの笹なのではなかろうか、「笹に黄金がなり下がる」は「笹に実がなる」のことであり、磐梯山の笹に実の生った年つまり凶作の年、その笹の実で飢饉を免れた、だから磐梯山は宝の山だということではなかったのだろうか。
 いや、磐梯山麓では笹に実がなるような凶作にたびたび見舞われるので、磐梯山を宝と称えることで豊作にしてくれるよう山の神にお願いした唄だったのかもしれない。

 さて、話を最初に戻すが、笹の実の話を聞いた1945年と同じ年だったか翌年だったか覚えていないが竹に花が咲いたという話も聞いた(註3)。
 竹は百年に一度花を咲かせ、実をつける、同時に竹は枯れてしまうのだが、それが今年起きたのだと言うのである。何か天変地異が起きているようで、というより敗戦という異常な人災と関連しているようで、気味が悪かった。
 この竹の実も笹の実と同じように食べられるということだったが、本当に食べたという話は聞いていないし、私は見たこともなかった。

 このように、戦中戦後、さまざまなものを食べて飢えをしのいだという話はいろいろ聞いたが、これは戦中戦後だけではなかった。農作物の凶作の時には普通の年には食べない山野の植物を食べて飢えをしのいだものであり、それは戦後の一時期まで続いた。
 そのなかには普通の年には食べないどんぐりなどの木の実もあった。

(註)
1.1975年とそれから10年後の二回、まったく同じ趣旨の調査で鳥海町におじゃましたのだが、この調査の一端については本稿の下記掲載記事で述べている。
  11年7月11日掲載・本稿第二部「山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(3) ☆葉たばこ・ホップの技術革新と規模拡大」(3、4段落)
2.13年2月14日掲載・本稿第五部「イモ談義(10) ☆トロロイモ・ヤマイモ・ナガイモ」(1、4段落)参照
3.竹は約120年周期、笹は40年から60年周期で花を咲かせ、結実し、その後には枯死するのだそうである。ともに飢饉の際の非常食として知られている。

(追記)
 本節をブログで公表して半年くらいしてのこと、高校のときの同級生のWT君と会う機会があった。それで、この笹の実について聞いてみた。彼の生家は山形市の西北の山麓の農家だったからである。
 そしたらやはり敗戦の年のササの実の大豊作について覚えていた。六十年に一度の花が咲いた、今年は笹の実が豊作だというので集落の大人から子どもまでみんな裏の山に採りに行ったそうである。
 笹の花は稲の花と似ており、実は麦の実と似ていたという。場所により粒の大きさが異なっていたが、手で穂をしごいて実を取り、みんなかなりたくさんの量を採ったとのことである。
 実はまず煎って食べる。香ばしい匂いがして本当にうまかった。
 だが、ほとんどは粉にした。乾燥させて挽くのだが、麦のように皮がうまくはかれないので、実と皮のいっしょの粉となる。それをすいとんのようにして食べる。つまり団子状にしてゴボウやニンジンなどといっしょに醤油や味噌で煮て食べるのである。しかしあまりうまいものではなかった、いっしょになっている皮がまずかったからだろう、それでも当時は食糧不足の時代、がまんして食べたものだということだった。(16.10.14記)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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