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戦争とむらの子どもたち(5)

  


             ☆暑く静かだった敗戦の日

 空襲を受けた疎開先の山寺よりも山形市の方がかえって安全ではないかという話になって、親は夏休みに私たちを一時帰宅させた。それから何日くらいしてからだろうか、昼近く、ズシン、ズシンという腹に響くような音が真っ青な空の下にそびえている東の山の方から遠く低く響いてきた。ちょうどそのころ三陸の釜石への艦砲射撃があったと聞いた。この音が奥羽山脈を越えて二百キロも離れた山形まで聞こえたのである(ではないかと私が勝手に思っているだけ、間違いかもしれない)。
 それからまた何日かしての八月十五日、空襲の警報を聞くためにつけっ放しにしているラジオは、正午に玉音放送があると朝から何度も繰り返し放送していた。前日の新聞にも出ていたので知ってはいた。何を話すのだろう、もっとがんばれと放送するのだろうかなどと祖父母が話していたが、軍国少年の私は天皇おん自らがお出ましになるのは何と畏れ多いことかと感激していた。
 その日は雲一つなく晴れ、それはそれは暑く、静まりかえった日だった。でも、家のなかは涼しかった。畳、戸、障子、襖まで一切合切の家具を家の前の畑に掘った防空壕に入れていたため家のなかはがらんとしており、座敷は床板だけになっていて、風通しが非常に良かったからである。
 正午、茶の間の床板に祖父といっしょに正座した。祖母と父母は隣の部屋の囲炉裏のまわりにいた。そしていっしょに玉音放送なるものを聞いた。でも、何を言っているのか私にはさっぱりわからない。難しい言葉が変な抑揚で流れてくる。何が何だかわからないうちに終わった。その後アナウンサーがその内容について何か説明するのかと思ったら何も言わない。ただ終わりますというだけである。
 そのとき父がぽつんと言った。「日本は負けた」と。祖父母はまさかという。私も信じられなかった。神国日本が負けるわけはないからである。
 私のような子どもにはもちろん、祖父母にも放送の内容がよくわからなかった。近所の人たちもほとんどが何を言ったのかわからなかった。その日の夕方、あるいは翌朝、私の家を訪れた隣近所の人は、父の言うことをなかなか信用しない。天皇は「臣民よ、もっとがんばれ」と励ましの言葉を賜ったのだとがんばる。しかし翌日の昼過ぎ、遅く届くのが普通だった新聞を見てようやく負けたことを信用するようになった。二日後、だれ言うとなく近所の農家の人がみんな私の家に集まり、庭の大きな柿の木の下にむしろをしき、残念会と称して酒を飲み交わしていた。
 このときの私は国民学校四年生、九歳であった。

 農村部に住んでいた家内は、勤労奉仕に行かされていた畑の近くにある農家の庭先で玉音放送を聞いたという。夏休みなのに毎日、学校から二㌔くらい離れた桑畑まで歩き、桑の根を掘り起こして食用作物が植えられる普通畑にするという勤労動員に駆り出されていたのである。先生の指示のもとに同級生と整列して聞いたが、雑音が入っていたこともあって何を言っているかさっぱりわからなかったという。放送が終わった後、先生から日本が負けたらしいのですぐに家に帰るように言われた。これからどうなるのだろう、みんな殺されるのだろうかなどと同級生と話しながら、田んぼのなかを歩いて帰った。途中の家々の庭や山にはたくさんの合歓(ねむ)の花とサルスベリの花が咲いていた。
 敗戦というと、十五日の帰り道に見たこの合歓とサルスベリの花が思い浮かぶと家内はいう。ともかく暑い夏の日だった。

 天皇の放送を聞いてすぐさまみんな泣き崩れる、こんな場面をよく映画やテレビで見る。しかし、玉音放送なるものを聞いてその内容をすぐに理解したものはそんなに多くなかった。一般庶民のかなりの部分は、雑音の入るラジオで、しかもどこの国の言葉かわからない抑揚のない天皇の言葉を聞いても意味がわからず、隣近所や仲間の口コミで敗戦を知ったというのが本当のところだったようである。
 ところが、私はそうではなかったという人がいる。たとえばある婦人団体の役員をしていた女性は「玉音放送を聞き終わったとき、暗い戦争が終わったと万歳をして喜んだ」と誇らしげに語る。その女性の年齢からすると終戦の時は十五歳前後である。その年齢で天皇の放送を聞いてすぐその意味がわかったのだろうか。しかもその年齢では徹底した軍国主義教育を受けている。戦争がいいとか悪いとか考えることなどできなかったはずである。もしも戦災にでも遭っていれば戦争に批判的になっていたかもしれないが、彼女は東北に住んでいて戦災の悲惨さも直接経験していない。普通であれば悔し涙は流しても喜びの声など出るわけはない。万歳などするわけがない。どうして素直に自らの体験を語ろうとしないのかがわからない。戦争反対の運動をしているうちに自分は昔から戦争がいやだったのだと思いこむようになり、ついには万歳の幻影までつくりだしてしまったのかもしれない。
 戦争がいかに誤りであったかが国民に浸透するのには、敗戦から一年近くかかったのではなかろうか。

 敗戦から一週間くらいしてだったろうか、疎開先に戻る必要のなくなった私は家の前のキュウリ畑で父の手伝いをしていた。その日も空は青く澄み渡り、何の音も聞こえない静かな時が流れていた。何という気もなくその青空を見上げたとき、いま日本は戦争をやっていないのだ、この青空の下、戦争をしているところはないのだということにふと気がついた(註)。
 そしたら戦争のない社会ってどんなのだろうと疑問がわいてきた。想像しても想像できなかった。私が生まれた日の約三週間後に二・二六事件が発生し、翌年の七月には日中戦争が始まり、続いて太平洋戦争と、物心ついたときからずっと戦争のなかで育ってきた私にとって、戦争のない社会などは考えられなかったのである。
 それからまたこんなことも頭に浮かんだ。軍隊に入って、とくに希望していた少年航空兵になって、天皇の御盾となって死ぬという目標がなくなってしまった。いつどうなるかという緊張感も解けてしまった。これからどういう気持ちで生きていけばいいのか。
 頭が真空状態になった。これまでが夢だったのか、これからが夢なのか。これからどうなるのか、どうすればいいのか。
 軍国少年としては戦争に負けた口惜しさがあったが、それ以上に何とも奇妙な気持ちで、胸にぽかっと穴が空いたような気持ちで一時期を過ごした。
 恐らく当時の青少年の多くがそういう一種の放心状態になったのではなかろうか。
 ところが家内などは何にも感じなかったという。負けて口惜しいともとくに思わなかったという。そういう非国民がいたから日本は負けたんだなどと私は冗談に言って冷やかすが、直接戦争の被害を受けなかった子どもたちはそんなものだったのだろう。

 空襲のサイレンは鳴らなくなった。夜の灯火管制はなくなった。防空頭巾、救急袋は要らなくなった。それを忘れても、持っていなくとも怒られなくなった。
 だけど防空頭巾だけは子どもたちみんなその年の冬に利用した。かぶっていると暖かいからである。私たちの場合、防空頭巾は防寒頭巾として役に立った。
 こうして少しずつ変わっていくなかで、私たち農村部の子どもたちは戦争が終わったことを少しずつ実感するようになるのである。

(註)
 実際には世界中あちこちで戦争をしていたし、満州の前線にいた私の叔父はそのころソビエト軍の砲撃で戦死したのだが、そんなことを知るのはかなり後でだった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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