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食料としてのどんぐり



               果実・雑感(13)

            ☆食料としてのどんぐり

 どんぐりについて私がいかに無知であっても、苦くて食べられない、このことだけは小さいころから知っていた。栗の実と似ているので皮をむいて食べたくなるのだが。
 前に登場してもらった仙台生まれのKT君の子どものころは「どんぐりを食べるとどもりになる」と年上の子から教えられたものだったというが、私は誰からどのように教わったか覚えていない。

  いつ頃だったろうか、どこか山奥の地域でどんぐりの実を灰汁抜きして食べるのをテレビで見たのは。大昔はどんぐりの実を食べていたらしいこと、昭和になっても凶作飢饉のときなどには食べていたことなどをそのころは知っていたが、灰汁抜きなどがいかに大変かがわかり、クリなどと違って食べられなくなったこと、飢饉のときなど非常時にやむを得ず食べるものだったことなどが、そのテレビを見て納得したものだった。

 しかし、どんぐりを食べた、味はこうだとか、あく抜きをしたことがあるなどという話を私は体験者から直接聞いたことはない。かつてこの地域では食べたそうだという昔話を聞いたこともない。都市部でどんぐりなどない私の生家の地域では当然かもしれないが、どんぐりの豊富な山村の調査に行ったときにも聞いたことがないのである。何度も何度も農山村に調査に行っているのにである。
 私の調査研究の中心が農業経営や地域の現状分析にあり、食などの生活問題やその歴史を直接の研究対象にしてこなかったから、つまりどんぐりなどの食べ物について調査することがなかったからだろうと思う。質問したこともないのだから聞いていないのは当然、これはしかたがない、いつか山村に長年住んできた方などなら聞いてみようと前々から考えていた。
 その機会がたまたま3年前にあった。岩手県北上山地の葛巻町におじゃました(註1)とき、私よりちょっと年上の農家の方お二人にお会いする機会があったので、凶作にあった時にどんなものを食べたかと聞いてみた。そしたら特別なものを食べた記憶はない、いつも通りだったという。
 そこで、前に何度もご登場いただいた同じ葛巻町の酪農家Nさん(70歳)にも先日聞いてみた、どんぐりを食べたことはなかったかと。そしたらどんぐりを山に拾いに行って食べた記憶はなく、食べたという話も近隣の人から聞いたことがない、山栗はどこのだれの山でも自由に拾うことができたので拾ってきて食料にすることはあったが、との答えだった。
 さらに、葛巻から南に位置する遠野市のOさん(93歳)に聞いてみた(註2)。昭和九年の大凶作のとき、日常食べるもの以外に山野から食べ物を採ってきて食べたということはなかったかと。そしたら、そういう記憶はない、覚えているのは全国各地から救援物資が送られてきたことだという。

 私の期待していた回答とはまるっきり異なるし、私がさまざまな本や映像等で得た知識とも異なる。私のもっていた知識は記憶違いだったのだろうか。
 そこであらためてネットで『どんぐり』を検索してみた。そのなかの一つにこんな文章があった。
 「米の栽培が困難な東北の山村などいくつかの地域では、大正期あたりまで主食格の食品として重要であった」、「北上山地の山村では、ナラ(ミズナラ)の果実を粉砕して皮を除き、湯、木灰汁などを用いて渋抜きした『シタミ粉』と呼ばれるものが作られていた。シタミ粉は通常湯で戻し、粥状にして食べた」(註3)。
 にもかかわらず、どうしてあのような回答となったのだろうか。
 まず考えられるのは、どんぐりを食べたというのは大正以前の話であり、私のお聞きした四人の方はすべて昭和の時代を生きてきた人、それでどんぐりを食べたことがないという答えが返ってきたということなのかもしれない。
 それより何より私の聞き方が悪かったのかもしれない。そもそもどんぐりは昔は常食(日常普通の食べ物)であり、それを非常食と考えて、飢饉のときにとくにどんな食べ物を食べたかという聞き方をしたから答えなかっただけではなかったろうか。
 また次のようなことも考えられる、どんぐりの実を食べたことがあるかと聞いたから悪かったのではなかろうか。私たちはどんぐりと一括するが、そもそもミズナラ、コナラ、カシ等々それぞれ違った樹種の実を総称しているだけであり、木の形状も実の形状やあく抜きの仕方、食べ方、味等々すべて異なることはいうまでもない。それを山村の人々は熟知しており、それぞれの木をどんぐりの木などと一括して呼ばず、実についてもそれぞれナラの実、カシの実、ブナの実と区別して呼んでいるはずである。そのそれぞれの木の実の名前を出してこの地域でそのうちのどれかを食べたことがあるかと聞けばよかったのではなかろうか。
 もう一つ考えられるのは、有名な凶作の年に何を食べたかという聞き方をしたことも悪かったのではないかということである。平坦部で凶作であっても山間部は凶作ではなかったのではないか、だから特別な食べ物は食べなかったという返事となったのではないか。そのことを山形在住の農経研究者のST君に話したら彼も同感、稲作にとっての凶作年と雑穀作の凶作年とは違うのではないかと言う。そうかもしれない。
 今度もしも聞く機会があったなら、こうしたことを踏まえてきちんと聞いてみようと思っている。私としては直接この耳で体験者から聞いてみたいからだ。
 といってももう無理かもしれない。体験した方、耳にした方は少なくなっているし、私も高齢化して調査などに行けなくなっているからだ。あきらめるより他ないだろう。
 とは思ったもののどうしてもあきらめきれない。そうだ、「また聞き」でもいいではないか。ちょうど後輩研究者で葛巻出身のNK君、奥さんが遠野出身のIK君(お二人とも何度も本校に登場してもらったが)がいる。この二人が帰郷した時に私にかわって周囲の古老などに聞いてもらおう、そのさい「シタミ粉」を知っておられるかということから話を切り出してもらおう。
 私の年齢のせいもあろうが思い立ったら矢も楯もたまらない、二人とも大学の中堅教員で忙しいさなかなのに、メールでそのお願いをした。そしたらこころよく引き受けてくれた。

 まずIK君の奥さんのA子さんから電話が来た。近所で聞いてみたけどやはりこのA地区ではどんぐりを食べたという話は聞いたことがないとのこと、ただし遠野の山間部の土淵地区では食べたという話を聞いたことがあるとのことだった。A地区は街の中心部に近い平坦部、違いはこの差からくるのだろうか。
 それから、「里の凶作は山の豊作」という言葉が地域にあるという。この山の豊作はどんぐり等の山の産物の豊作を言うのか、雑穀作等の豊作をいうのかよくわからないが、ST君の話は当たったことになる。

  NK君からも返事が来た、お祖父さんのNNさん(85歳)に聞いた、そしたらその昔は「シダミ」(シタミではなくこう呼んでいた)=「ナラの実」を食べていたとのことだったと。
 秋になるとシダミを山に拾いに行き、それをトナガマ=やだ釜(註4)という大きな釜に入れ、木灰(あく)汁で煮る。それを1〜2日乾かしてから「ばったり」(註5)で叩く、そうすると皮がむけてくるので、それを箕にかけて皮を飛ばす。こうして取り出した中の実を囲炉裏の上の「ホケ」(火棚=細い木を組み合わせてつくった棚)の上に敷いたヨシで編んだむしろにそのまま広げて保存する。
 そして必要なときにそれを取り出してそのまま煮て塩を付けて食べた。あるいは「ばったり」か唐臼でついて粉(シダミ粉ということになる)にし、餅にして食べた。
 このように葛巻等の北上山地の山間部ではやはりどんぐりを食べていた。しかもそれは凶作時の非常食などではなく、常食だったのである。ただしナラの実以外のどんぐりは食べなかったようで、それがなぜなのかよくわからない。
 それはそれとして、これで私の疑問は解けたことになる。凶作飢饉のときに何を食べたかと聞くからいつも食べているどんぐりの名前が出てこなかっただけでどんぐりが非常食なのは平地の人間だけだったのであり、さらにどんぐりを食べたかと聞くから答えなかっただけでどういう木の実を食べたかと聞けばナラの実の名前をあげたはずなのである。

(註)
1.このときの調査の経緯については本稿第五部の下記掲載記事に書いてあるが、その結果は同じく第五部の「ムギ・雑穀談義」の章をはじめ、各所で紹介している。
  13年3月4日掲載・本稿第五部「☆五穀・雑穀、ヒエ、アワ、キビ」(6段落)
2.15年11月9日掲載・本稿第七部「☆その昔の農家の味噌醤油づくり」、
  15年11月16日掲載・本稿第七部「☆続・その昔の農家の味噌醤油づくり」参照
3.「ja.wikipedia.org/wiki/ドングリ」参照。東北だけではなく、長野、熊本等々全国各地の山村で食べられていたとのことである。
4.15年8月10日掲載・本稿第七部「☆豆腐と凍み豆腐の自給生産」(3段落)、
  13年3月11日掲載・本稿第五部「☆雑穀作から酪農へ、そして今は」(7段落)参照
5.12年12月13日掲載・本稿第五部「☆鹿威し、ばったり、水車、踏み車」(3段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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