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床板のない家屋、わら布団



               果実・雑感(15)

            ★床板のない家屋、わら布団

 前回、どんぐりとのかかわりで縄文の食について触れたが、この縄文で思いついたことをちょっと述べさせてもらう。
 縄文式とか弥生式とかはまず小学校の社会科で習うものなのだろうが、私たちの子どものころつまり戦前は社会科というものがなかった。かわりに歴史、地理という授業科目があった。それはともに五年生になってから始まり、歴史は『國史』(=日本史)として習うことになっていた。私がその五年になったのは敗戦の翌年だったが、「國史」の教科書は配布されなかった。前にも書いたように(註1)国語や算数等の教科書すら夏休み近くなってしかも製本もされていない状態で渡されたのだが、国史については教科書がそもそも配布されなかったのである。それどころか国史の授業もなかった。国史の授業は地理、修身とともに天皇中心の軍国主義的・非科学的なものだったので禁止されたのである。
 それが復活し、『國史』ではなく『くにのあゆみ』という教科書が私たちの手元に届いたのは五年生の冬だったような気がする。このように遅くなったのは、戦前の歴史教育をいかに転換させるかの検討に時間がかかったのと当時の紙不足、印刷能力の低下等からであろう。
 『くにのあゆみ』、これまでの堅苦しい教科書とは違うやさしい名称、しばらくぶりのきれいな印刷にすぐに手をとってみたものだった。やさしい言葉で読みやすかった。
 でも、その最初のところはちょっとショックだった。古代に関する私たちの知識とはまるっきり違ったことが書いてあったからである。
 私たちは学校に入るとすぐから、あらゆる機会を通じて、高天原から降臨した大神(おおみかみ)の子孫の天皇がいかに国をよく治め、素晴らしい国をつくってきたかという話を聞かされてきた。叔父たちが小学校で習った国史の教科書にもそう書いてあった(註2)。ところが何ということだろう、『くにのあゆみ』は、大昔の日本人は石器や縄目の模様のついた土器を使い、獣や魚貝類などを食べて生活していたのだというではないか。日本人は神の子と思っていたのに野蛮人と同じ生活をしていたのである。
 中学に入るとさらに詳しく教えられた。また私も土器石器に興味をもって拾い集めたりもした(註3)。そのなかで縄文時代は竪穴式住居、横穴式住居など床のない家に住んでいたことを知るようになった。竪穴式住居については、その教科書に書いてあったのか、他の本で見たのか記憶がさだかではないが、長方形の竪穴を覆うように三角形の草ぶきの屋根が直接地べたに接している想像図が載っていた(註4)。
 この絵とそっくりの住居を見たのはそれから数年後だった。

 私が大学三年だった1956(昭31)年の夏、北上山地の中央部にある岩手県新里村(現・宮古市)の山村調査に連れて行ってもらった。このことについては前に述べている(註5)ので見ていただきたいのだが、そのとき訪ねた「焼き子」(山林地主や薪炭商人に雇われて彼らの所有もしくは借り入れしている山林の木を伐って炭を焼く人、私はこの調査でその存在を初めて知った)の方の家はかなりの山奥、一人しか通れないような細い山道をたどっていってようやく探し当てた。雑木林の山中の比較的平らな狭い場所にぽつんと一戸だけ家が建っていた。いや、家と言うよりも掘っ立て小屋だった。といっても柱や壁はない。長方形の敷地の上に萱でふいた三角形の屋根が載っており、その下部は地べたに直接接している。その屋根の骨は太くて長い杭のような木と近くから伐ってきたわりに細い木を縦横組み合わせて縄で結ばれており、そこに束ねた萱を縄で縛り、それを重ね合わせてつくられていた。建てたばかりのようで萱はまだ青く、いい匂いを発していた。入口が三角屋根の前方につくられ、そこには稲わらでつくられた筵が扉として上から下げられていた。家の中には床がなく、分厚く萱が敷いてあり、その上にわら筵が敷いてある。その下の土が掘られていたかどうかわからなかったが、掘られていなかった(つまり竪穴式ではなかった)ような気がする。もちろん一間(5~6畳くらいの広さではなかったろうか)であり、キャンプなどで使う三角テントを人が立って歩けるように高く大きくした程度と思えばよい。一間だから台所などなし、炊事は外でしているようだった。したがって簡単に組み立てられ、逆に簡単にこわすこともできる。
 家族は夫婦と幼い子ども一人で、その住居の近くに炭焼き窯がつくられていた。
 なぜこのような住居なのかだが、2~3年たって焼くべき木々が少なくなるとまた焼ける木々のあるところに移動し、そこに家を建てて炭を焼く、つまり移動するのできわめて簡略な建物となっているのである。
 こうした焼き子の方の多くは次三男、したがって本家はあるが、ここが実質的な自宅であり、何十年かして金がたまれば集落のあるところに定住する家を建てたようである。
 この三角屋根の住居を見たときにこれは縄文時代の住居ではないかとショックだった。その年の冬のこと、何かのきっかけであの住居を思い出し、この厳しい寒さに耐えられるのか、胸が詰まるようだった。

 それから十数年過ぎての話になるが、北海道に転勤した先輩に札幌で会って飲んだとき、先輩はこんな話をしてくれた。
 明治の初めに北海道に入植した農家出身者はアイヌの人々とすぐ仲良くなった。そしていろいろ生活の知恵を教えてもらった。
 その一つに、家(といっても開拓当初だから掘っ立て小屋ということになるが)をつくるときに床は作らず、土間にそのままカヤなど草をたくさん敷いて寝るということがあった。それで冬の寒さをしのぐというのである。それを学んだ入植農家は床板を張らない家をつくり、土間に草を敷き詰めてそこに寝た。内地とはまったく違った厳しい寒さだったが、地温に加えて敷き草も温かく、それで何とか冬を越せた。
 一方、武士の入植者は身分の違うアイヌと仲良くなるどころか軽蔑していた。当然のことながら、土間にそのまま寝るなどというのは野蛮な土民のすることだと内地にいたときと同様に床板を張った家を建てた。そして冬を迎えた。ところが寒い。むしろを敷こうと何であろうと、床下から床板の隙間を通って入ってくる冷たい外気、床板に直接伝わる零下何十度の外気温、布団に入っても温まるのは容易ではない (金があってきちんとした大工を頼んでやればそんなこともないだろうが、開拓では武士といえども、とくに下級武士は、自力中心で家を建てざるを得なかったのでこうなったということもあろう)。それで子どもをはじめ弱いものから病気になり、死んでいったという。
 こうして苦しんでいるところに警察官の募集があった。そこで武士出身者の多くがそれに応募し、開拓から脱落していった。その武士の中に多くの伊達藩士がおり、士族身分と警官の身分をかさに着て威張った。それが「仙台衆の通った後にはぺんぺん草も生えない」という言葉ができた原因となった(註6)。

 この話が本当かどうかわからない。でも話としておもしろかったのでいまだに覚えている。そしてそれを聞いたとき、「焼き子」の方たちの住まいを思い出し、そこも温かかったのではないかと何となく安心したものだった。
 そういえば、貧乏な農家の中には床がなくて土間でわらにくるまって寝る家がある、でもそれがけっこう温かいそうだ、こんな話を子どものころ聞いたことがある。私の生家の近くにはそういう家はなかったが、家内は実家の近くにあったという。ある商家の土蔵を借りて住んだ疎開者の家族が土間にむしろをしいて暮らしていたというのである。でも、これは戦中戦後の特殊事情であり、ちょっと違うとは思うが。その家族がその後どうなったかは記憶にないそうである。
 金があって建てつけのしっかりした家が建てられ、寝具もたくさんあり、火も十分に熾せた家は別にしてだが、寒さの厳しいところでの床板を敷かない家はそれなりの合理性があったのではないだろうか。

 そんなことを考えているとき、農業経済研究者で島根出身のST君と岩手・葛巻出身のNK君(二人とも本稿に何度も登場してもらっている)と三人で飲む機会があった。そのときST君がNK君をこう言って冷やかした、日本で一番遅く電気の点いた江刈地区のある葛巻町のこと、床のない家どころか竪穴式住居も最近まであったのではないかと。それに対してNK君は躍起になってそんなことはなかったはずだと否定し、島根の過疎僻地の人からそんなことを言われる筋合いはないというような顔をする。私は思わず笑ってしまったのだが、旧江刈村は府県の中ではもっとも寒い地域、それに大山林地主によって経済的に徹底して収奪され、身分的にも差別を受けてきた「名子」(註7)が大量に存在している地域、このことから考えると、土間で寝る家があったとしても不思議ではないと私も思ってしまった。さらにさきほど述べた「焼き子」の住まいのあった旧新里村は江刈地区に隣接しており、焼き子もいたはずである。そうするとST君のとなえる葛巻竪穴式住居仮説はあり得るかもしれない、調べてみる必要があるだろうと思うようになっていた。

 それから三、四日してST君からNK君と私にメールがあった。ネットを検索していたら、長野県の飯田周辺にはそうした竪穴式の土間で暮らす「土座式住居」というのがあり、床がなく、居間も寝室もすべて土間で、土の上に籾殻やわらを敷き、さらにむしろを敷いて暮らしていたとのことで、写真もある、ぜひそれを見てもらいたい(註8)、そうした住居形態が葛巻にかつてあったのではないか、こういうのである。
 早速見てみたが、可能性としては十分にあり得る。ただし、江刈の場合は「土座式住居」のように籾殻や稲わらを敷くということはなく、萱あるいは麦わらを敷き、その上に柔らかい乾草を敷きつめた家もあったのではなかろうか。この地区には水田はなく、かなり距離のある平坦稲作地帯から当時としては貴重な稲わら等を大量に購入するなどは容易にできなかったろうからである。しかし、やはり稲わらにはかなわない、綿入れの布団は買えなくともせめて温かくて柔らかい稲わらを買ってそれを布団にしたもしれない。
 それから、竪穴を掘ったかどうかだが、それはわからない。可能性は十分に考えられるが、厳しい社会的経済的条件にまた地域の気象条件に対応したそれなりの合理性をもった「江刈型土座式住居」などというのがあったかもしれない。 あるいは、土間ではなくて床を張り、その上に稲わらでつくったむしろを敷き、そこにわら布団を敷いて寝たのかもしれない。
 いずれにせよ、寒冷山間地の江刈地区ではさまざまな工夫をこらして、また豊富な薪炭も活用して、冬の厳しい寒さを乗り切ってきたのではなかろうか。

 そんなことを考えていたら、数日過ぎてまたST君からメールがあった。戦後農地改革のころに江刈村の村長をしていた方の著書(註9)に当時の家々には「布団はなく、人々はわらにもぐって寝ていた」という記述があったというのである。わらにくるまって寝る農家があるという話は私の生家でも聞いたことがあるのだが、江刈では土間にそのままわらを敷いたのか床の上に敷いたのか、いずれかよくわからない。前々期的収奪による貧困と寒冷地であることからして土間の可能性の方が高いと思われるのだが。

 さらに一ヶ月くらい過ぎてNK君からメールがあった。同じ葛巻町の中でも江刈地区より自然的社会的条件に相対的に恵まれている葛巻地区(旧葛巻村)に住む長老のNNさんから話を聞いてくれたと。これは非常に勉強になった。そこでまた彼のメールを引用させていただくことにする。ただし、私の文の体裁や展開との整合性をとるために彼の承諾を得て文の順序やテニオハを若干変えさせていただいている。

 「土間だけの家は近隣にはなく、みんな床板を張った部屋に寝ていたが、一般の家では敷布団は使わなかった。
 寝床は、まず縦150㌢×横90㌢×高さ60㌢前後の箱(食料にするヒエを保管するのに使っていた箱)で囲いをつくり、そこに稲わらの茎のかたい部分を上からこすって落とした柔らかい葉(これを『フタズ』と呼んでいた)だけを入れ、それを敷きつめてつくった。その上に布(今で言えばシーツ)を敷き、そこに横になって掛け布団をかけて寝た。結構暖かいものだった」(註10)
 「地頭=山林地主などのむらの上流階級は敷布団を使ったが、それはわら布団だった。そのわらは先ほど言った『フタズ』で、それを米や牛の餌などを入れて運ぶための茶色の大きなふすま袋=ズック袋(筆者註・黄麻の繊維を用いた平織りの布袋)を何枚かほどいて縫い合わせて作った布団袋に入れて作った。数日でぺっちゃんこになってしまうけれども、暖かかった」
 「掛け布団は、記憶している限りでは、綿入りのものを使っていた。木綿の布を買ってきて、自分で縫い合わせて袋を作り、そこに綿を入れて作った。当時は村内に綿の業者がいて、綿の販売と打ち返しをやってくれた。地頭などの上流クラスは年一度、庶民は2〜3年に一度、綿を布団袋から取り出して、打ち返してもらって再び使った。布団を縫うための長さ10㌢くらいの『布団針』が家々にあった」
 「畳は上流階級が使っていた。一般の家でも昭和10年頃には畳を使っている家があったと思うがはっきりとは覚えていない。NN家では、馬を盛岡のセリ場まで追っていく仕事をしていたので収入があり、畳を入れたのは早い方だった」
 「敷布団が綿入りのものに変わってきたのは戦後のことだった」(註11)

 今から70~80年前にこうした暮らしがあったことをうかがわせるようなものは、今の江刈地区に葛巻町にその片鱗も残っていない。戦後の農地改革への取り組み、そして酪農をはじめとする新しい農業の確立、70年代以降の農林業を取り巻く厳しい状況を打破するためのむらおこし(註12)等々に取り組むなかで、地域に適し、現代に対応した新しい住宅にすべて建て直し、畳の上に布団を敷いて寝るようになったのだろう。それで高度成長期に生まれたNK君は知らないのかもしれない。もしもそうであるならばかつての住居がどうであったか、改めて調査しておく必要があるのではなかろうか。
 さて、かなり脱線してしまったが、話をもとの木の実に戻そう。

(註)
1.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(1段落)参照
2.13年9月9日掲載・本稿第六部「☆縄文農耕と東北侵略」(4段落)参照
3.   同   上    「    同    上      」(1、2段落)参照
4.現在復元されている登呂遺跡や三内丸山遺跡の竪穴式住居はかなり立派であるが、あのころの想像図はそうではなかったと記憶している。

5.11年2月24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村」(5段落)参照
6.ぺんぺん草論には下記のような説もある。
  12年3月12日掲載・本稿第三部「☆仙台衆・仙台商人(2段落)
7.11年2月.24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村(2、3段落)、
  13年3月8日掲載・本稿第五部「☆地頭・雇い・名子」(2~5段落)
8.http://park2.wakwak.com/~do2000/met4.html参照
9.11年2月24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村」(4段落)参照
10.稲わらは隣村の九戸村から物々交換で手に入れたものと思われる
  13年3月11日掲載・本稿第五部「☆雑穀作から酪農へ、そして今は」(6段落)参照

11.かつての病院のベッドパッドの詰め物(充填材)が稲わらであったことを考えれば、わら布団が遅れているなどといえず、かなりの合理性があったといえよう。もちろん綿入れの布団の方がいいことはいうまでもないが。
12.13年3月11日掲載・本稿第五部「☆雑穀作から酪農へ、そして今は」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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