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アケビの若葉・新芽




                木の芽と「山菜」(1)

                ☆アケビの若葉・新芽

 私の子どものころ、私の生家から東に200㍍くらいのところに山形県立農事試験場があった(註1)。敷地は4㌶くらいあったのではなかろうか、その敷地の西北には木造の事務棟、研究棟があり、中央部に畑、南側には水田、東側にはサクランボなどの果樹の試験圃場があった。
 一般の住宅は試験場の西と北にあるだけ、南には一般農家の水田が、東には普通畑や桑畑が広がり、そのまた東には奥羽山脈の切り立った山々がそびえていた。また試験場の敷地の東南に当時としては近代的な市営の火葬場があった。このことからもわかるように、試験場は旧山形市(昭和の合併前)の市街地の東南のはずれに設置されていた(註2)
 この試験場の敷地は南側以外カラタチの垣根で囲まれていた。それはそれは見事だった。ところが、果樹試験地の東側だけアケビの木の垣根だった。なぜアケビにしたのかはわからない(註3)。
 このアケビの垣根に沿った細い道路のわきに、生家の畑があった。10アールくらいではなかったろうか。その畑を私たちは「火葬場のところの畑」と呼んでいた。畑は生家からは小学校、試験場の敷地を挟んで約300㍍くらいの距離にあり、麦や菜種、ジャガイモなどを植えていたのを記憶している。

 4月の半ば過ぎころではなかったろうか、父母が火葬場のところの畑に働きに行くとなると、祖母から小さな竹のざるを渡され、いっしょに行って「木の芽」を採って来いと命じられる。「木の芽」とはアケビの芽のことである。喜んで出かける準備だ。幼い弟妹たちがいっしょに行く時もある。父母がいるから安心である。
 鍬やはけごをかついだ父母の後について歩いていく。当時のことだから車など通るわけはないし、人もあまり通らないので、走ったり歩いたり、しゃべったり、後になったり先になったりしながらついていく。
 いよいよ到着、父母たちは畑で仕事にとりかかる。
 私たちは道端のアケビの生垣の前に立つ。アケビの緑の葉はまだ小さく、試験場の圃場が、サクランボの木が生垣からすけて見える。アケビの蔓のところどころに淡い紫色の小さな花が房状に咲いている。この色がきれいなのだが、形もいい。他の花に見られないめずらしい形をしており、雌花の柱頭(先端部)にネバネバした液体が付いているのもおもしろい。
 さていよいよ木の芽=アケビの芽摘みだ。5枚(だったと思う)の小さな葉を手の指のようにつけた葉が花といっしょにアケビの蔓から何㌢か間隔をおいて出ている。その小さな新芽を一つ一つ指で摘み、それを小ざるに入れる。トゲなどないから安心だし、柔らかいから摘みやすいのだが、葉っぱがちぎれて落ちてしまったりしないように気をつけながら摘んでいく。
 ぽかぽか背中に当たる春の陽の温かさを感じながら、紫の花の美しさを楽しみながら、雌花の柱頭のネバネバをいたずらしたりしながら、小さい緑の新芽を摘む。ああ本当に春が来たのだとうれしく感じたものだった。
 また、自分も仕事をしている、大人が喜んで食べるものを採って役に立つことをやっている、これがまたうれしい。
 少しずつざるにたまってくる。しかし、時間がたつと芽がしおれ、量が減ってしまい、なかなかいっぱいにならない。背丈のせいで上の芽がとれないのも口惜しい。
 そのうちあきてくる。すると、ざるをおいて遊びだ。親は何も言わない。もう終わっているころなのだがツクシが残っていないか探してみたり、まだちょっと早いノビルを道端の草むらの中からさがそうとしたり、隣の桑畑で走り回ったり、遊ぶことはいくらでもある。
 思い出してまた木の芽採りをはじめる。
 そのうち喉がかわいてくる。すると火葬場の事務所まで走って行って水道の水を飲ませてもらう。
 こんなことをやっているうちもうお昼、ざるにいっぱいになった木の芽をもって父母といっしょに家に帰り、祖母に渡す。
 夕方、祖母は木の芽をゆで、お浸しにしてあるいはゴマ和えにして夕食のおかずに出す。でも子どもは食べない。すさまじく苦いからだ。でも、大人はうまいうまいと言いながら食べる。自分は食べなくともそれがうれしい、誇らしい。
 これが春の恒例の行事だった。

 ところで、このアケビ、秋になったら実が生るはずである。でも採ったことがない。採りに行ったこともない。なぜなのか、今になって疑問になった。アケビが生らなかったからなのか、町場から大人が来て採ってしまうからなのか、わからない。考えてみたら、その春の時季以外ここのアケビのことなどすっかり忘れて思い出すこともなかった。

 60年代に入ったころだったと思う、父が生家の塀のところにアケビを1本植えた。1~2年でどんどん大きくなって生垣のようになった。それで五月の連休に帰ると、その芽を摘んで食べるようになった。といってもそれはさきほど言った葉芽ではない。蔓の新芽である。柔らかく伸びた蔓、その途中のところどころに小さな葉がいくつかついているが、それを10~20㌢のところで折る。これは葉芽の場合と違って摘みやすい。当然量もとれる。だからきわめて楽なのだが、さきほどの葉芽よりは苦い。それでも大人であれば十分に食べられる。葉芽の場合と同じように、ゆでてお浸しにして醤油と鰹節で食べる。少し紫がかった濃緑色がきれいであり、酒のつまみにもいい。胡麻和えにもするが、これは食べやすい。

 このように山形内陸ではアケビの芽を食べるのだが、それを「木の芽」と呼ぶくらいになじみの深いものである。他の地域でも食べるところがあるようだが、地域は山間部などに限られているようである(註4)。
 それにしても山形内陸人はアケビの実ばかりでなく、先に述べたようにその皮まで食べ(註5)、さらには葉や蔓の新芽まで食べてしまう、不思議な人種である。

 皮をとって販売するためのアケビの栽培が山形内陸で始まったことを前に述べたが、その園地で採れる「木の芽」つまり葉や蔓の新芽も採って売り始め、県内の店頭で見られるようになったとのことだが、私のいつも行く仙台の生協ストアでは見たことがない。もしも見つけたら買おうと思っている、といっても仙台では食べる風習がないので売れないだろうから、それは無理だろう。他の地域でも同じだろう。

 そこで考えるのは、自分の家の庭にアケビを植えることだ。
 前回登場してもらった私の高校大学時代からの友人AH君、アケビを店で買って食べた後種を乾燥させて仙台の自宅の庭に植えたという。彼もやはり山形内陸人(奥さんもだが)である。うまく根付き、大きくなった。しかし、その新芽は硬くて食べられなかったとのことである。土のせいか気象のせいか、どっちなのだろうか。
 網走に住んでいたころの話である。あるお宅の生垣にアケビがあったと家内が驚いて帰ってきた。聞いてみたらそこは山形の干布村(現・天童市)出身の女性のお宅とのことである。やはりアケビの実の皮や木の芽を食べたくなるのだろう、それで山形から苗を持ってきて植えたのではないかと納得したものだった。

 ちょっとここで脱線させてもらう。今述べた山形出身の女性であるが、この方は「中川のバッちゃ」と呼ばれて網走市民に親しまれた中川イセさんという方で、極貧の家に生まれて苦界にまで身を落とさざるを得なくさせられるなどNHKテレビの「おしん」以上の苦労をした方だという。しかし、そこからはいあがり、戦後は網走の市会議員、市会議長にまでなり、上水道敷設、人権擁護、女性の地位向上、福祉事業などでの活動で地域発展に貢献し、「網走開拓の母」と呼ばれ、網走の名誉市民になったとのことだった。
 ところで、イセさんの生まれた旧干布村は私の母の実家のある旧山寺村の隣村であり、私のよく知っているところである。そこで山形に帰郷した時母に知っているかどうか聞いてみた。そしたら何と、子どものころ実家のすぐ近くの家の子守に雇われていたという。エシェッコ(イセっこ)と呼ばれ、小学校低学年の女の子(といっても子守なので学校にもろくにやられなかったようだが)なのにきかん坊、ガキ大将で周辺でも有名だった、赤ん坊をおんぶしながら、子どもの遊び場となっている母の実家の屋敷わきにある観音様の境内の上から、近所の子どもすべてに指揮命令しながら遊んでいた、そのうちどこかに連れていかれていなくなったと言うのである。なお、イセさんのいたころは私の母はまだ生まれておらず、直接は知らないのだが、そうした話が伝わるほど集落では有名人だったので母も覚えていたようである。
 驚いた。できればイセさんにお会いしてそんなことも含めていろいろお話をうかがいたいと思っていたのだが、病気のために山形県人会にも出てこられないとのこと、そのうち私が網走から去ることになり、結局お会いすることができなかった。その翌年07年に105歳で亡くなられたとのこと、ちょっと残念である(註6)。

 さて、話を戻すが、イセさんやAH君と同じ山形内陸人であるにもかかわらず、私はアケビを植えていない。その代わりと言っては何だが、やはり山形内陸人の大好物のウコギ、アケビと同じくその芽が「木の芽」と呼ばれるサンショウ、この木は裏庭に植えている。

  「オドロキ モモノキ サンショノキ」の語呂合わせ、「山椒は小粒でもピリリと辛い」のことわざなどで子どものころからサンショウは知っていたが、この匂いはあまり好きではなかった。だからサンショウ入りの味噌をつけた田楽はきらい、七味唐辛子よりも一味が好き、うなぎに粉山椒はかけないで通してきた。
 ところが、十数年前、なぜか裏庭にサンショノキが生えてきた。小鳥が実を運んできたのだろうか。家内が料理に使うというのでそのままにしておいたら大きくなり、今は春になると一斉にきれいな若葉が伸び、同時に匂いがまわりにひろがる。
 野性味がまだ残っているのだろう、すぐに大きく伸びる。塀を乗り越えて隣の庭にまで侵入する。やむを得ない、トゲに気をつけながら剪定する。またすごく匂う。
 こうやっているうちに慣れてきたのだろう、いやな匂いとは思わなくなってきた。それでもまだ食べる気はしない。家内がときどき付け合わせに出すのだが。

 でも、私にとって「木の芽」はやはり「アケビの芽」である。そしてウコギの若葉であり、タラの芽なのである。

(註)
1.1908(明41)年に設置。この敷地のなかに生家の畑もあり、県に貸すことになったとのことである。なお、農事試験場と言う名前は戦後「農業試験場」と改められている。
2.試験場は、戦後周辺の宅地化が進んだこと、手狭になったこと等から、1982(昭57)年、市の西部の丘陵地帯に移転した。移転した跡地には高校や県の支庁舎ができ、周囲には商店街、住宅地が密集するなど今は市街地のまっただなかとなり、かつてここに田畑があったなどとは想像がつかないような状況になっている。

3.当時アケビの試験研究がなされていたとは思えないし、試験研究対象なら生け垣などにしないはずである。
4.前に本稿に登場いただいた岩手県葛巻町の古老NNさんによると、葛巻 でもアケビの新芽を食べていたとのことである。
5.16年3月21日掲載・本稿第八部「☆アケビ、山ぶどう、バライチゴ」(2~3段落)参照
6.この中川さんの縁で天童市と網走市は交流協定を結んでいる。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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