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「山菜」とは?

 

                 木の芽と「山菜」(4)

                  ☆「山菜」とは?

 さて、前回まで述べてきた食用の木の芽であるが、これらは『山菜』と称されている。ところでこの山菜という言葉、何の気なしに使ってきたのだが、これはそもそも何なのだろうか。私も何でも厳密に定義したがる学者のはしくれ、ついつい考えてみたくなる。
 パソコンで検索してみたら、『山野でとれる食用植物』(「デジタル大辞泉」)、『山に自生している、食用になる植物』(「大辞林」)が山菜だと定義している。
 このことからすれば、食用になる「木の芽」はまさしく山菜である。 それはそれでいいのだが、この山菜の定義には若干の疑義がある。
 まず、この定義からすると、山に自生する栗、クルミ、コクワ等々の実も山菜であることになる。これも「山野でとれる食用植物」だからである。しかし、「木の実」は一般に山菜とは呼ばれていない。同じアケビの木から採って食用にしても、その芽は山菜と呼ばれるが、その実は山菜と呼ばれないのである。
 これは当然であろう、山菜の「菜」には「実」は含まれていないからである。「菜」は『葉・茎・根などを食用にする草の総称』・『おかず、副食』(「デジタル大辞泉」)であり、主食ともなり得る実は含まれないのである。したがって木の実は山菜ではないことになる。
 その点でこの「菜」の定義は間違っていないと思われるのだが、『食用にする「草」の総称』というところにはひっかかる。タラの芽などの『木』の「芽」は『草』ではないので、この定義では、山菜ではないということになってしまうからである。しかし、現実には木の芽は山菜として社会的に認められている。となるとこの定義はおかしいということになる。
 さらに、一般に言われる草にはキノコ類は含まれないが、キノコは山菜とも呼ばれており、こうした点からも山菜は草だけとするとおかしなことになる。したがってこの「菜」の定義のなかにある「草」という言葉は『植物』と改めるべきだということになろう。
 それから『葉・茎・根など』という言葉だが、このなかに食べられる花は入るのか入らないのかも問題となる。いうまでもなく山野に自生するフキノトウ、ワサビの花や花芽などは山菜と呼ばれており、そうなれば葉・茎・根と並んで花も入れなければならないことになる。『など』という言葉があるからいいではないかと言われるかもしれないが、やはり『花』も入れようではないか。
 そういうことでいえば『芽』も入れるべきなのかもしれない。しかし、芽は未成熟の葉・茎・花のことをいうもの、したがって葉・茎・花のなかに含まれると理解して入れないことにしてもよかろう。

 そうすると、「山菜」は次のように定義できることになる。
 『山野に自生していて、その葉、花、茎、根等のすべてあるいはそのいずれかを人間が採集して食用にする植物の総称』
 なお、キノコも山野の自生・食用植物であるが、その生態、形態、食べ方が特殊であり、種類も豊富であるということから、これを山菜から除くという考え方がある。しかしここでは広く解釈することとし、山菜に含めることにする。
 それから、余分なことかもしれないが、この定義のなかの『山野に自生』しているということについて若干付言させてもらいたい。

 まず『山野に』という言葉であるが、これは本来は「山に」であるべきではないかという疑問が提起されるかもしれない。山菜である限り山で採れる菜であるべきであり、野原や砂浜で採れる菜は除かれてしかるべきだからである。
 実際にその昔は山で採れる「菜」が「山菜」と呼ばれ、野原に自生していて食べられる草は「野菜」と呼ばれていたとのことである。やがて「野菜」と「山菜」のうちのいくつかが耕地で栽培されるようになり、さらに選抜、改良されて徐々に栽培植物化していったが、それらは『蔬菜』と総称されるようになった。
 したがって、本来からいうと蔬菜化したもの以外の菜が「山菜」・「野菜」もしくは「山野菜」と呼ばれるべきものということになる。
 しかしわが国では、「蔬菜」は以前と同じ「野菜」と一般に呼ばれてきた。そして、野原に自生していて食用にする野草を「野菜」と呼ぶことはなかった。
 もちろん、公用語としては蔬菜という名が使われてきたし、農学などでもその分野の研究教育は蔬菜園芸学と呼ばれてきたのだが、日常的には「蔬菜」=「野菜」であり、野菜の方が日常語化してしまった。
 こうしたなかで蔬菜という言葉は公用語としても使われなくなり、それは野菜に置き換えられるようになった。他方で、栽培植物化していなくて食用にする野草=野原に生える草は、採取されるという点では同様の、「山菜」と呼ばれるようになったようである。
 したがってわが国で言う山菜は山と野原や砂浜などを含む「山野に」自生する食用植物と理解していいということになる。そこでここでは「山に」ではなく、「山野に」という言葉を使わせてもらう。
 したがって本稿では、私たちが野草と呼んでいて食用にするものも山菜と呼ことにする。

 それから『自生』であるが、これには「ある地域に昔から生え育ち続けていること」、「自然に生え育つこと」という意味がある。
 この前者の意味から言うと、たとえば孟宗竹のタケノコは、栽培が放棄されて野生化し、自生しているものであっても、山菜ではないということになる。孟宗竹は日本原産ではなく、外来種だからである。山菜は原則として日本原産の植物なのである。
 ただし、千年以上も前に日本に渡ってきて長期間山野に自生するようになり、その存在が日本原産の植物に悪影響を与えたりしておらず、地域の生態系をなす一つとして定着していて、もう日本原産といっておかしくないようになっている種については山菜として認めてもいいであろう。
 それから後者の「自然に生え育つ」という意味からすると、栽培されたつまり人の手で育てられた植物は山菜ではないことになる。
 それではたとえば山野に自生している根を掘ってきて畑に植え、肥培管理をして育てたワラビなどはどうか。厳密にいえば栽培しているので山菜とは言えないかもしれない。しかし、自生するワラビの遺伝的形質は人為的に変えられていない、つまり種の改良はなされていない。野生のワラビと同じものである。とすると、これは山菜と言っていい。つまり「育ちより氏」なのである。
 そういう点では、近年春先になると店頭に並ぶタラの芽も同じだ。前年の秋に伐採した野生のタラの木の枝を鋸屑を敷いたり水を張ったりしたところに並べて芽吹かせたものなので、その遺伝的形質は変わっていない。野生の味、自然の味は残っている。とすると、これも山菜と言っていいということになる。
 とは言ってもやはり純粋に野生のものとは若干異なる。たとえば栽培したタラの芽は、厳しい自然にさらされないためだろう、味や香りが弱く、苦みとかえぐみが少なくて抵抗感がなくて食べやすい。しかし物足りない。この点ではやはり「氏より育ち」なのだろう。
 それでもみんなは山菜と言いたいのではなかろうか。たとえ栽培されたとわかっていても、春に店頭に並ぶと春を感じ、故郷の山野を子どものころを思い出す人々にとって、季節感のなくなった都会で季節を味わいたい、思い起こしたい人々にとってはやはり山菜と呼びたいだろうし、呼ばせてあげるべきだろうと私は思う。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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