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山形内陸のヒョウ、スズギ




                山菜・思いつくまま(2)

              ☆山形内陸のヒョウ、スズギ

 繁殖力旺盛な雑草といえば、私たち山形内陸人がヒョウと呼んで真夏に採って食用にするスベリヒユ(註1)がある。
 スベリヒユ(以下、ヒョウと呼ばせてもらう)はあちこちに生えるが、とくに畑によく生える。春物の野菜の収穫が終わって秋物の野菜の播種の前に放置してある畑(要するに更地になっていて日当たりのよい畑)などには一面びっしりと生える。抜いても抜いても次々に生えてくる畑の雑草の代表である。背丈はまったく伸びず、横に這って四方八方に伸びて大きくなる草なので、他の雑草などじゃまするものが少なくて横に伸びられる更地の畑がとくに好きなのだろう。放っておけばヒョウ畑と言っていいくらいになってしまう。当然これは農家に嫌われる、はずなのだが、山形内陸ではそれほど嫌われない。根っこは浅くしかも畑の土は柔らかいので簡単に抜けるからでもあるが、もっと大きな理由はそれが食用になるからである。抜いたヒョウのなかから、大きくて柔らかそうなもの、黄色い花がまだ咲いていないものを選んで家に持って帰る。昼に畑作業から食事に帰ってくる両親や祖父がはけごいっぱいに採ってくると、祖母がその根っこを切り捨てて茎葉を熱湯でさっとゆで、それを平らな竹のざるに広げて夏の暑い太陽の光に当て、乾燥させる。2~3時間もするとあの厚ぼったい葉や多肉質の茎がからからに干からび、まさに乾物となる。こうしたヒョウ採り、乾物づくりを一夏に何回かやる。それを保存しておき、正月などにもどして煮つけにして食べる。
 ときどき祖母が家の前の畑に出てヒョウを採って来ることがある。たまには私たち子どもが採ってくるように命じられることもある。それは昼ご飯のおかずのお浸しにする。前と同じように根切りや水洗いをした後、さっとゆがいて冷たい井戸水で冷やし、どんぶりに山盛りにしてその上に辛子醤油を振りかけ、それを昼の食卓に出すのである。冷たくてちょっと酸っぱくて、醤油の塩っ辛さと辛味がそれにぴったりあって、暑さにうだって疲れて帰ってきた両親や祖父のご飯も進む。そのご飯の片付けが終わってからゆっくり家族みんなで昼寝である。

 このようにヒョウは私にはなじみの雑草、食べられる野草なのだが、仙台ではお目にかかったことがない。畑にも生えていない。土壌のせいなのか気象のせいなのかわからない。日本全国どこにでも生えているはずなのだから、たとえば岩手の遠野の畑などでは見ている(ただし食べてはいなかった、私の故郷では食べると言ったら農家の方に驚かれた)のだから、私の見落としなのかもしれないが。それで生家に帰ったときにしか食べられなかった。
 20年くらい前ではなかったろうか、たまたま生家の前の畑にある植木をもらって来て庭に植えたら、根についた土の中に種子が入っていたのだろう、翌年から仙台の住まいの庭にヒョウが生えるようになった。繁殖力が強いからあちこちに生える。しかし土があまりよくないのだろう、固すぎるのかもしれないが、あまり生育はよくない。それでも家内は大きくて柔らかく、おいしそうなのを4、5本抜いてお浸しにし、辛子醤油を振りかけて食卓に出してくれる。本当に一口なのだが、暑い夏を改めてそれで実感する。もちろん乾物にするほど採れないので、正月に食べるのは無理だが。もし食べようと思うなら、山形内陸で買うより他ない。農協の直売所などでヒョウ=スベリヒユの乾物を売っているからである。

 先日、山陰地方出身で現在山形の鶴岡に住む後輩研究者のST君からこんなメールがあった。
 山形内陸のある農協の組合長と話していたらヒョウの話が出てきた、食べたことがないと言ったら山形在住者なのに何事かという顔をされたので、一度食べてみたいものだと。
 それにこう返事をした。車で鶴岡から仙台に来る途中にある寒河江のチェリーランドでヒョウの乾物を売っているはずである、それを買ってまずわが家に郵送しろ、そしていつか日を決めてわが家に来い、そしたらその煮付けをごちそうしてやると。
 買ってすぐ持って来てもらっても困るのである、乾燥したヒョウをお湯でもどすのに時間がかかるからである。もどして油揚げもしくはさつま揚げを入れ、油で軽く炒めて醤油で煮つけるのである(平らにつぶした青大豆がそれに入るともっと山形らしくなるのだが)。
 そうメールしたら次のような返事が来た、今度寒河江に行ったときに買って送る、そして日を決めて「山形『貧乏食』の勉強にお伺いしたい」と。
 「貧乏食」は否定しない、しかし「悪食」ではない、わが家に来たときこれだけは彼にきちんと納得させたいと思っている。
 なお、私はもどしたヒョウの水分を軽くしぼり、それをそのまま醤油につけて食べる、つまりお浸しにして食べる。言葉ではうまく言い表せない、何とも言えない味で、私は大好きである。

 ところで、ヒョウ=スベリヒユは山形でしか食べないのかと思っていたら、沖縄の那覇で泊まった旅館の薬膳料理に出てきた。聞いたら沖縄では食べるのだそうである(註2)。
 それ以外の地域ではどうなのかと思ってスベリヒユをネット検索してみたら、国内では山形と沖縄だけだが、トルコやギリシャなどヨーロッパでは生であるいは炒めてサラダにするなどして食べているとのことである。なお、ギリシャでは野菜として栽培もしているそうだが、他の国ではやはり雑草なのだそうである。
 何とスベリヒユは地域食・貧乏食かと思ったら世界食だった。山形内陸の農協はもっと自信を持って夏の山菜として、冬の乾物としてレシピをつけて売り込み、全国の消費地にその食を普及していったらどうだろうか。海岸の砂地の雑草オカヒジキ(かつて山形では「スズギ」と呼んでいた)を、海のない内陸であるにもかかわらず栽培植物化し、商品化して普及していった経験もあるではないか。

 前に詳しく述べたが私の生家では昔からスズギ=オカヒジキを栽培し、自分の家で食べるだけでなく販売もしていた(註3)。今から50年くらい前のことになるが、家内が生家の畑で採ったオカヒジキを仙台に持って帰り、仲のいい友人の近所の奥さんにお土産として分けてあげ、その調理のしかた、食べ方を教えてあげた。その奥さんは家内の言う通りにゆで、刻んで辛子醤油をつけて夕食のおかずとして出したが、娘さん二人そして本人も誰も手を付けようとしない。ちょうどそこにご主人が帰ってきた。食卓を見たとたん、「何で高級料亭でしか食べられない高価な山菜(当時はそう考えられていた)がわが家にあるの」と驚く。それを聞いたとたん、3人の箸はオカヒジキに向かい、争って食べ始めた。後で奥さんは笑いながら家内に言った、「何とまあわが家の家族の品の悪いこと」と。
 その山形のスズギ=オカヒジキが今は仙台の店頭で売られており、日常的に食べられるようになっている。ヒョウもそのように商品化したらどうだろうか。そうするとわが家でもいつでも買ってきて食べられるようになるのだが。

 海岸の砂地に生える野草で食用になるものとしてはこのオカヒジキ以外にハマボウフウがある。この野生のハマブウフウは、私の二度目の勤務地の網走の砂浜で、野生のオカヒジキと同様に、初めて見た(註3)。わずかしかなかったので採らなかった。同僚に連れられて行った料理屋でハマボウフウのお浸しを初めてで食べたが、さっぱりしておいしかった。ただ、乱穫で激減しているとのことだった。最近は栽培されるようになっているらしいが、まだ仙台の店頭ではみかけない。
 このオカヒジキ、ハマボウフウともにさっぱりした味で、山菜特有の苦み、えぐみなどがない。しかも自生しているところは山ではなく、山と対照される海のほとりの砂地である。にもかかわらず、オカヒジキ、ハマボウフウともに山菜と呼ばれている。これはどうしてもイメージとはあわない。

 でも、前々回定義した山菜=『山野に自生する食用植物』(註4)のなかの『山野』のなかには砂地もある。山野をそう考えれば、海岸の砂地に生える食用植物であるハマボウフウもオカヒジキも山菜と呼ぶことができる。こう一般に解釈されてきたのではなかろうか。そこで本稿でも山菜の一員としてそれらを取り扱うことにしたものである。

(註)
1.ヒョウ=スベリヒユについては前にも下記の記事で触れているので、ちょっと重複する部分もあるかもしれないが、見ていただきたい。
  11年9月26日掲載・本稿第三部「☆食の地域性―山形内陸部の雑食性―」(2段落)
2.沖縄県では「ニンブトゥカー(念仏鉦)」と呼ばれ、葉物野菜の不足する夏に食べるのだそうである。
3.スズギ=オカヒジキについては上記(註)1の本稿掲載記事の4段落に詳しく書いているので参照していただきたい。
4.16年5月30日掲載・本稿第八部「☆「山菜」とは?」(3段落)参照

(追記)
 後日、「山形『貧乏食』=ヒョウを食べる会」を拙宅で開催したが、その結果については本稿第八部の末尾に掲載した下記の記事に記載しているので参照されたい。
 2017年2月13日掲載・本稿第八部「補記 ★『山形「貧乏食」=ヒョウを食べる会』の報告」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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