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私にとっての山菜、ワラビ・ゼンマイ



               山菜・思いつくまま(8)

          ☆私にとっての山菜―ワラビ、ゼンマイ―

 子どものころの私は、「山菜」とは自分の家や近くで栽培したり採ったりすることができず、遠くに見える山々に自生していてそこでしか採れない食用植物だと思っていた。これまで述べてきたように、一般に山菜と言われているらしいものでも、家で栽培しているものはもちろん近く(平坦地)で自生していて採れる食用植物は山菜と認識していなかったからである。そして山菜は山に住む人たちが背負って売りに来るのを買ってあるいは隣近所や親戚・知人などからもらって食べるものだった。だからそうした山菜についての知識はほとんどなかった。
 その理由については前にも述べたが、生家が裏山とか里山とかのない平坦地にあったこと、平地林がなかったこと(註1)、山菜採りの時期は生家=野菜作中心農家のもっとも忙しい時期で働き手の大人が採りに行く時間的余裕などまったくなかったこと、子どもも、農家の子であれば、田畑の仕事を手伝わされるので山菜採りに行きたいと思ってもでかけられなかったこと、たとえ子どもだけで山に山菜採りに行こうとしても距離的にも(徒歩の時代だった)知識面でも(山がないからみんな何もわからなかった)無理ということからだった。前にも述べたが、休みの日に近隣のサラリーマン家庭の子どもが親といっしょに山菜採りに行くのを畑で手伝わされている私たちはうらやましく見ていたものだった(註2)。
 だから、山菜と言えば本当にたまに家で買ってあるいはもらって食べるワラビ、ゼンマイ、キノコのようなものを言うものだと思っており、本当に知識は少なかった。

 今考えてみると5月末から6月にかけてのころではなかろうが、学校から帰ってくると祖母が背丈のきれいにそろったたくさんの太いワラビを大きな鍋に並べ、その上に灰をたくさんふりかけ、さらに熱湯をかけているのを、つまりいわゆる灰汁(あく)抜きをしているのをたまに見ることがあった。
 その翌日は間違いなくワラビの味噌汁である。さらにお浸しにもされる。特別うまいというわけでもなく、ときどき筋が入っていて固いのがあったりもするが、めったに食べられないものだったし、季節のめぐりを教えるものでもあったので、喜んで食べたものだった。
 たまにワラビの塩漬けを手に入れることがある。それは水に浸けて塩抜きをし、味噌汁やお浸しにしてはもちろん煮つけに入れても食べるのだが、ちょっとだけ塩味の残っているワラビをそのまま食べるのが私は好きだった。

 ゼンマイにお目にかかるのはまず正月である。お雑煮に必ず入るからだ。とくに味があるわけでもないが、その柔らかくしかも弾力のある歯触り、舌触りが大好きだった。ゼンマイのないお雑煮などは私には考えられない。
 普通の時は味噌汁の実である。ゼンマイだけしか入っていない味噌汁、これはとくに好きだった。ゼンマイの食感を他の具に邪魔されることなく味わうことができ、味噌汁の塩味とゼンマイのさっぱりした味が私にはたまらなかったのである。煮付けに入っているゼンマイも悪くはない。ゼンマイだけを選んで食べて怒られたこともあった。
 たまにゼンマイの白和えが出る。祭りとか特別の行事のときだが、これもたまらない。
 こんなに好きなのに、山から採ってきたばかりのゼンマイを見たことがなかった。ワラビは見ているのにである。そしてゼンマイはワラビなどのように春に食べるものでもなく、保存食だった。乾燥させてやせ細った黒い細紐のようにして保存されており、それを水で戻して食べるものだったのである。
 それでも、私たちの食べるゼンマイはワラビと同じように新芽であり、そのてっぺんはワラビと違ってらせん状、渦巻き状をしているということは本などに載っている絵や写真で知っていた。
 そして日常使う時計のゼンマイや私たちのあこがれだったゼンマイ仕掛けのおもちゃのブリキの自動車のゼンマイは山菜のゼンマイの芽の形から来た言葉であることも何とはなしに理解していた。
 またワラビもゼンマイも大きくなるとシダのような葉を出すということも誰から教わるともなしに知っていた。
 でもそれは知識だけ、採ったことなどもちろんなく、生えているのを見たことすらなかった。だから自分の手で採って食べてみたかった。ワラビを塩漬けにして保存できるくらいたくさん採ってみたかった。大好きなゼンマイを採りたかった。あこがれだった

 その私が生まれて初めて自生しているワラビを見たのは20歳代後半、職員組合主催の春のピクニックで仙台の西北にそびえる泉ヶ岳の麓に行った時だった。何人かが採っていたので私も探してみたら草むらの中にあった。しかし採って食べるほどの量は採れそうもないので結局は採らなかった。
 それから3~4年経った頃現在住んでいる家に引っ越したが、当時はその西側に山林がひろがっており、季節になると山菜採りに行き来する人が家の前を通るのをよく見かけたが、経験も何もない私たちはそれを見ているだけ、採りになど行けなかった。

 69年の夏、山村振興の予備調査で秋田県西木村に行ったときのこと(註3)である。
 田沢湖の近くの林野の利用状況を見るために県や町の職員の案内でかなり深い山に入った。細い林道を車でかなり走り、視察予定地の少し開けた日当りのよい植林地に着いた。草木が腰の高さ以上に伸び、植えた杉の苗木がかくれて見えなくなるほどに繁っていた。そこに数人の人がいて、木陰で一休みしていた。そこの草木を刈り取る(下草刈りをする)ために営林署に雇われている人たちである。そこで車を止め、その人たちといろいろ話しているうち、そこにたくさんのわらびがおいてあるのにふと気が付いた。下刈りしているときにわらびもいっしょに刈り取られ、もったいないのでそれを集めて夜のおかずにでもしようということでとっておいたとのことである。草木の中に伸び伸びと育った柔らかいまさに日陰のワラビ、人間様には見つけられないので放っておけばホダになってしまうもの、たしかにもったいない、採っておこうとするのは当然だろう。それは本当においしそうだった。うらやましかった、食べたかった。県の職員の方も同じではなかったのだろうか、その半分くらい(といってもけっこうな量だったが)譲ってもらっていた。それから私たちは山の下に降りたが、途中にある私たちの今晩の宿に立ち寄ったとき、職員の方はそのワラビをおいてきた。あく抜きを頼んだようである。でも夕食には間に合わないだろうとそのことは完全に失念して、それからまた一仕事をして夕方宿に帰った。
 そしたら何とあのワラビのお浸しが夕食の膳に出てきたではないか。緑色がきれいだった、柔らかかった、みずみずしかった、冷たかった、醤油と生姜の味がぴったり合った。生まれて初めて心の底からワラビがうまいと思った瞬間だった。こういうワラビを自分で採って食べてみたい、しみじみそう思ったものだった。

 ちょっとここで宮城県南の小さな町に生まれた家内の話をさせてもらうが、近くに低い山々が連なっているので、そこでのワラビ採りが中学の時の学校行事としてあったとのことである。イナゴ取りと同じで、みんなで採ったワラビを売って学校の備品を買うためである。ところが家内はそれまで一度もワラビ採りをしたことがなく、半日かけて一本しか採れず、先生に怒られたとのことだった。
 その家内は、現在住んでいる家に引っ越してから私よりも山菜に詳しくなった。裏山の奥の方に住む友人の家に遊びに行ったときに採り方を教わったり、近所の山菜採りを趣味にしている人に連れて行ってもらったり、採ったのをもらったりしていたからである。しかし私は相も変わらずまともなワラビ採りもせずに年齢を重ねていった。
 その私がワラビ採りを生まれて初めてまともに体験したのは五十路を過ぎてから、山形県の小国町でだった。

(註)
1.その理由については、また平地林に関しては、下記の本稿掲載記事で述べているので参照されたい。
  12年11月12日掲載・本稿第五部「☆平地林と風雪、田畑」
2.10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承」(5段落)参照
3.この調査に関しては下記の本稿掲載記事でも述べている。
  12年5月7日掲載・本稿第四部「☆東北における国鉄路線の新設」(2、3、6段落)、
  16年1月18日掲載・本稿第八部「☆身近な食べ物だった栗」(4段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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