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梅花皮沢、初めてのワラビ採り




                 山菜・思いつくまま(9)

              ☆梅花皮沢、初めてのワラビ採り

 小国町は山形県の南西部、新潟・福島との県境に位置する山村である。山村振興で多くの成果をあげているのでご存知の方もあると思うが、山好きの人には北に朝日連峰、南に飯豊山を擁する町として知られている。中でも飯豊の雄大な梅花皮(かいらぎ)沢の石転び雪渓は有名であり、私も一度は登ってみたかった。しかし登る機会にもそれどころか調査に行く機会にも恵まれなかった。
 ただ、中学1年(1948年)の修学旅行(註1)で新潟に行ったときに米坂線の列車に乗って小国駅を通ったことはある。小国近くになると山また山の上り坂、急傾斜の坂に来ると列車のスピードが急にのろのろとなり、先頭の車両で飛び降りて立小便をしても最後の車両に飛び乗ることができるのではないかとみんなで笑いあうほどの急な線路だったこと、トンネルに入ったとき蒸気機関車の煙で車内が真っ暗になり、窒息しそうになったことなどで記憶に鮮明に残っている。やがてディーゼル車の仙台―新潟間の直通の準急ができ(註2)、何度となく乗って米坂線沿線のきれいな景色を見るようになった。そのたびにいつか小国駅に降りてみたいと思ったものだった。でも、その機会はなかった。

 それでもようやく88年の冬に「新しい山村づくり」の調査で行く機会を得た。このとき調査対象の小玉川集落で生まれて初めてクマの肉をごちそうになったのだが(註2)、それはそれとしてその調査のさいの宿泊場所が二回とも調査地区にある飯豊温泉の国民宿舎「梅花皮(かいらぎ)荘」だった。
 温泉のお湯はもちろんよかったが、梅花皮荘の岩魚とワラビをはじめとする各種山菜の料理は絶品だった。しかもそこは私が若いころ登りたかった飯豊山への登山口、それどころかあこがれの梅花皮沢の大雪渓・石転び雪渓への入口でもあった。
 もう一度ここの料理を食べてみたい、もう頂上まで登れる年齢ではないが雪渓には行ってみたい、そう決心してその年の夏休み、山登りの準備もして家内といっしょに小国に行くことにした。そして梅花皮荘に泊まり、おいしい料理を堪能すると同時に梅花皮沢の雪渓まで行き、途中までではあるが雄大な雪渓歩きを堪能した。

 仙台に帰ってから、研究室のメンバーなど身の回りの何人かに聞いてみた、「梅花皮」と書いて何と読むかと。さまざまな回答があったが、誰一人正解はなかった。これは「カイラギ」と読むのだと教えると、そんなの読めるわけはないといわれる。それが当たり前なので悪口は言わない。そしてまた質問を続ける。
 それではなぜ「梅花皮」が「カイラギ」なのか、そもそもカイラギとは何なのか、梅花皮の漢字と雪渓に関連付けて考えてみろと。
 もちろんみんなわからない。それも当然、そこで私は、地元や県職員の方から聞いた話と私の推測とにもとづいて得々とこう説明する。

 雪渓は遠くから見ると本当にきれいである。しかし、目の前で見ると決してそうではない。まず表面は平らではなく波を打っている。大小さまざまの丸くて浅い穴が波をうつようにびっしりと開いているのである。しかもその穴には土がたまってうす汚れている。だから真っ白ではない。
 それで、ちょっと離れてその雪渓をみると、梅の花びらが延々とびっしりと敷き詰めてあるように見える。しかし、魚のうろこが延々と連なっているようにも見える。それどころか、灰色・白色のうろこのびっしりついている蛇が谷間(たにあい)を這っているようにも見える。
 そうなのである、うねうねと曲がりくねって続く大雪渓の姿はちょっと離れて見ると蛇の皮のようなのである。一方、この地域では蛇の抜け殻(脱皮した後に残る皮)のことをカイラギと呼ぶ。
 そこでこの大雪渓とその沢をカイラギ沢と呼ぶようになった。
 さらに、たまたま魚のエイの皮が漢字で梅花皮(かいらぎ)と呼ばれていること、夏の雪渓が梅の花びらを敷き詰めているようにも見えることから、それを漢字として利用し、現在にいたっているのだ。

 こう説明するとみんななるほどと納得してくれるのだが、この私の解釈が正しいかどうか実はわからない。それでも当たらずとも遠からずだと思っている。
 まあそれはそれとして、この梅花皮荘のある小玉川集落で地域おこしの一環としてワラビ園をそのころ開設した。その話だけは聞いていたのだが、偶然そこに行く機会に恵まれ、生まれて初めてのまともなワラビ採りをすることになった。
 なぜそうなったかについてちょっとだけ説明しておきたい。

 小国の調査のあった翌年(89年)のことである。山形県庁から次のような依頼があった。県内各普及所から推薦された優秀な農業青年が地区毎作目毎に分かれて2ヶ月に一度集まり、勉強しあう塾を3年間にわたって開催したい、ついてはその助言者を引き受けてくれというのである。私も彼らと一緒に勉強したい、そんなことから私を含む4人の研究者が分担して引き受けることにし、私は1年目庄内・稲作、2年目最上・稲作、3年目置賜・花きの青年、各年次10人余といっしょに勉強会を開くことになった。これは非常におもしろく、私たちにも勉強になり、また青年たちもお互い友だちとなってその後も交流を深め、地域のリーダーとして育っていったのだが、その3年が終わった翌年の91年、その同窓会を開いてまた勉強しながら懇親を深めることになった。私の塾の場合、約半数の20人近くが集まってくれたが、その会場がさきほど言った小国の梅花皮荘だった。OHさん、IKさんという二人の女性の塾同窓生が小国出身だったこと、二日目は地域起こしでつくられた観光ワラビ園を見学し、レクリェーションとして実際にワラビ採りをしようということからだったようである。
 第一日目の研修会では家族経営か企業経営か等々さまざまな課題で激論が交わされ、夜は楽しく会食で有意義なひと時を過ごしたのだが、その内容は省略する。
 第二日目のワラビ採り、私はうれしかったが、最上地区の山村に住む青年諸君には不満だったようである。ワラビなどはわが家の田んぼのあぜ道にも生えている、そんなのをなぜ遠い置賜の小国まできて採らなければならないのかというのである。そして彼らは山に入らずに管理事務所のテントの下で二日酔いを覚ますと言って寝ていた。
 でも庄内など平坦地帯の青年たちは私と同じく初めての人も多く、非常に喜んでいた。
 ワラビ園は広かった。管理しているだけあって、たくさんワラビが出ていた。生まれて初めてのまともな山菜採り、勇んで山に入って行った。約1時間夢中になってたくさん採った。しかし、集合場所に戻ってみたら私の採ったのはみんなの半分以下、さらに前にクマ撃ちとクマ肉のことで紹介させていただいた最上の青年のOKさん(註3)が私の収穫物を見て笑う、「先生、こんなのはワラビとは言わないよ」と。そして小さくてやせ細ったワラビはみんな捨てる。それで半分以下になってしまった。がっかりしていたら彼はちょっと待ってろと外に出かけ、10分くらいして戻ってきた。手には見事なワラビがたくさんある。私が1時間半かけて採ったのと同じくらいである。さすがプロである。そして持って行けと私にくれる。さらに小国の女性OHさん、IKさん二人も自分の採ってきた見事な大量のワラビを全部私にくれた。いつも私たちは採って食べている、だからお土産にやるというのである。そして包んでくれた大きな風呂敷を背負って私は仙台に帰り、家内に驚かれた。これが私の忘れられないワラビ採りの初体験だった。
 実はこの小玉川のワラビ園にその4年後また訪れることになる。

 今述べた小国町のOHさん、IKさんとはその後も個人的にもお付き合いするようになった。そのきっかけの一つが農水省の外郭研究機関からの依頼によるOHさんの経営の調査だった。OHさんの家では当時としては珍しい10㌶の稲作経営をいとなんでおり、なぜ厳しい山村でそうした大規模経営を成立させたのか、これからの発展にとって何が必要なのか等々についてOHさんのお宅にお邪魔し、ご主人にさまざまな話を聞いたのである。また、OHさん、IKさんともう一人のご婦人がご主人を動かして小国町で初めての花き栽培を始め、花きの産地を新たに形成したということで注目もしていた(註4)。そんななかで両ご夫婦と個人的なお付き合いが始まり、仙台のわが家に来てもらったりするなどしていたなかで(註5)、小国を訪ねてワラビ採りをするようにとのお誘いが私たち夫婦にあった。家内にとってはワラビ園は初めて、しかも小国は梅花皮沢登りで思い出のあるところ、喜んで行くことになったのだが、梅花皮荘は残念ながら満員、そこですぐ近くの泡の湯温泉に泊まることになった。到着して周辺をご案内いただき、改めて飯豊の雄大な山容を見せてもらい、夜は温泉で両ご夫婦といっしよに楽しく飲み、おいしく食べ、翌日はOHさん、IKさんの案内(ご主人たちは所用があるということで帰った)でワラビ採りとなった。
 ワラビ園の前にはたくさんの人が開園を待っていた。いよいよ開園、もう目の前にたくさんワラビが生えている。早速みんな採り始めた。家内ももちろんである。そうしたらIKさんは言う、そんなの採らないでともかく上に行きましょうとさっさと歩き始める。何でこんなにあるのに採らないのかと聞いたらこのへんのものはさっき見たようにみんなが採るので小さくて痩せたものしか採れない、そのうち時間がきて奥のたくさん生えているところまで行かないうちに帰らなければならなくなる、だから奥にはみんなが来ない、それでいいワラビがたくさん生えている、そこから採り始めて下にくだるのだ、そうするとたくさんいいのが採れるというのである。なるほどと納得し、お二人の後をついて歩いた。かなり行ってもう誰もいなくなった。だからだろう、藪も多くなる。そのなかに大きく太く伸びたワラビがのぞく。その辺が奥らしい。お二人はそこで止まり、これまで歩いてきた方向に向かってワラビ採りをはじめた。私たちも採り方を教わりながらたくさんのワラビを採り、入口の方向に向かって歩きはじめた。そのときに生まれてはじめてのシオデ採りを教わることになるのだが、それは次回述べることにする。こうして山菜採りのプロ並みにたくさん採り、さらにお二人が採ったワラビやシオデまでもらい、リュックいっぱいに詰め込んで仙台に帰り、たまたま里帰りしてきた娘に驚かれた。
 そんなことでワラビ採りを満喫し、ワラビ園に詳しくなったのだが、結局はそのときだけ、山野に自生する本来のワラビ採り、山菜採りは網走に行ってから体験することになる。それは後で述べることにしよう。

 山村が観光ワラビ園をつくる、こんなことはかつて考えられなかった。草刈り場の山焼き(野焼き)をすればそこが自然のワラビ園となり、みんなそこに採りに行ったものだった。それが何でこんなことをしなければならないのか、疑問になることもある。しかし、もう山焼きなどなくなった。他方で車社会になってみんなかなり遠方まで行けるようになっている。こうした時代の変化に対応して、山に、山菜にまともに触れる機会のない人たち、日本の食材、料理のすばらしさを忘れさせられつつある人たち、とくに若者たちに改めて考えなおしてもらうためにもこうしたワラビ園の造成なども考える必要があろう。そしてそれが山村振興に役に立てばこんないいことはない。
 旅行業者も、外国旅行や既存の観光地巡りを企画するだけでなく、もっと積極的にワラビ採りなどを含む山菜旅行を企画したらどうなのだろうか。
 仙台から西日本に向かう航空機のなかに日本海を通る便があるが、そのときには必ず小国の上空を通る。雄大の山々の間にぽっかりと見える小国盆地の見事な景観を見るたびにそんなことを考え、また私ももう一度行こうと思ったものだったが、もう寄る年波、難しくなっているのが寂しい。

(註)
1.瀬波温泉泊・新潟泊の2泊3日だったが、中学3年のときには東京への3泊2日(車中2泊、江の島1泊)の修学旅行があったので、中学時代に2回修学旅行があったことになる。その後は中3の一度だけとなったが、私たちの学年のときにだけなぜ二度あったのが、後でなぜ中止されたのか、理由がよくわからない。修学旅行についてはまた後で述べたいと思っている。

2.仙山線・奥羽本線・米坂線・羽越本線経由の新潟―仙台間準急(後に急行)「あさひ」が60年代後半から走るようになった。このことに関しては本稿の下記掲載記事でも触れている。
  11年7月25日掲載・本稿第二部「☆輸送時間の短縮と大都市向け野菜の導入」(1段落)
3.13年5月1日掲載・本稿第五部「☆森に棲む野生哺乳動物と人間」(3段落)参照
4.このことについては本稿の下記掲載記事で輝き始めた農村女性の一例として簡単にだが紹介している。
  12年1月27日掲載・本稿第三部「☆輝き始めた農村女性」
5.本稿の下記掲載記事で紹介した「嫁の見置きと山の見置きはするな」の言い伝え・格言を教えてくれたのはOHさんのご主人だった。
  11年9月21日掲載・本稿第二部「☆自信をもって女性を口説こう」(3段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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