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山菜と東北民謡

 


             山菜・思いつくまま(12)

              ☆山菜と東北民謡

 前回はシオデと民謡、『そんでこ節』(岩手)・『ひでこ節』(秋田)・『しょんでこ節』(山形、福島)・『しょんねこい節』(宮城)の話をしたが、他に何か山菜を唄っている東北の民謡はないだろうか。
 ふとそんなことを考えたのだが、残念ながら私にはそれほど民謡の知識がないし、資料も持ち合わせてない。私の知っているのは、前回ちょっとだけ触れた岩手県民謡の外山節がワラビのことを唄っているということだけだ。この歌については本稿第一部で紹介している(註1)が、そのときに書いたのは3番の歌詞だけで、実は次の歌詞が1番であり、そこにワラビが出てくるのである。
   「わたしゃ外山の 日陰のわらび
   誰も折らねで ホダとなる」
 それから、これも前々節でちょっと触れたが、秋田民謡『秋田おばこ』の4番の歌詞にホンナ=イヌドウナ(和名)が出てくる。
  「おばこナ どこさ行く
   後ろの小沢コさ ほんなコ折りに
   ハ オイサカサッサ オバコデハイハイ」

 これ以外に知らないので、パソコンで検索してみることにした。そうしたら何とまたも秋田に、しかもワラビを唄った民謡が二つあった。
 その一つは日本海側に面した羽後本荘で唄われている『本荘追分』の1番の歌詞である。
  「本荘名物 焼山のわらび 
   焼げば焼くほど 太くなる」(註3)
 それから田沢湖周辺で唄われている『長者の山』の2番の歌詞である。
  「山さ野火つく 沢まで焼けたナ
   なんぼかわらびコ サーサ ほけるやらナ」

 それ以外なかなか探せなかったが、ようやく青森の『津軽山唄』でウドを唄っているのを見つけた。
  「十五 十五七が 沢を登りに
   独活(うど) 独活の芽かいた
   独活のしろめを 食い 食いそめた」

 ちょっとここで脱線させてもらいたい。
 今述べた『津軽山唄』の歌詞だが、このウドを唄っている歌詞が掲載されていたのは『津軽山唄歌詞』(註2)のわずか一つだった。
 それも前後の歌詞と比較するとどうも一節抜けているように思える。また囃子言葉もない。さらに最初の「十五 十五七が」も言葉としておかしい。これでは曲に合わせて歌えそうにない。きっと歌詞の一部が抜けているに違いない。そう思っていろいろ検索したのだが、この歌詞に類似している歌詞は他にいくら検索しても探せなかった。
 しかし、この『津軽山唄歌詞』に載っている歌詞の2番目は下記のように「十五」から始まる等々、ここで採り上げた歌詞ともっとも類似している。
  「ヤーエデャー十五や 十五や七がヤエ
   十五になるから 山 山登りヤエ
   山を登るに 笛 笛吹けばヤエ
   峰の小松が 皆 皆靡くヤエ」
 そこで、この歌詞に倣って調子をととのえ、繰り返し言葉や囃子言葉を入れて最初の歌詞を補足してみると、次のようになる。
  「ヤーエデャー十五や 十五や七がヤエ
   十五になるから 沢 沢登りヤエ
   沢を登るに 独活(うど) 独活の芽かいたヤエ
   独活のしろめを 食い 食いそめたヤエ」
 もしかするとこれが正しく、掲載されていた歌詞は省略していたのではなかろうか。もちろんこれは私の推測でしかなく、間違っている可能性は十分にある。しかしこの推測も私の老化防止のための頭の体操、その成果としてここに記載させていただくが、正確な歌詞がお分かりの方があれば教えていただきたい。

 さて、話を戻そう。
 他に、『秋田音頭』と『ドンパン節』でフキが唄われている。しかし、このフキはいわゆる秋田フキ、栽培されているものなので、いわゆる山菜を唄っているわけではない。それでこれは除外することにしよう。
 また、福島の『会津磐梯山』には「笹の実」、『相馬木挽き唄』には「カヤの実」が出てくるが、これは木の実なので、これも検討の対象から除外する。

 こうやって見ると、意外に山菜を唄っている民謡が少ないことに気が付く(前にも言ったように私が知らないだけなのかもしれないが)。山菜の宝庫の東北でさえこうなのだから、全国的にはましやそうなのだろう。
 それから秋田に山菜を唄っている民謡が多いことも不思議である。
 さらにワラビを唄っている民謡が多いことにも気が付く。もちろん先にも述べたようにシオデを唄っている民謡が多いが、これは実質一つの民謡が各地に波及していくなかで変化していったものではないかとも考えられており、それを除くとワラビが最も多く歌われているということになる。それだけワラビが人々の採取のまた食の対象となって親しまれてきたことによるものかもしれない。

 ところで、さきほど取り上げた外山節は、明治中期に岩手県玉山村(現・盛岡市)につくられた外山牧場に雇われた牧夫たちが歌った草刈り唄である(註4)とのことだが、ご承知のように当時の牧野では春先に野焼き(山焼きとも言った)が行われていた。それでできる灰が肥料となり、また枯草や雑木が焼けて日当りがよくなるので、たくさんのワラビが伸び伸びと生える。しかし、人里遠い牧野、車もない時代、だれも採りにこないので、ワラビは伸びてきた草に覆われて日陰のワラビとなり、誰にも見つからず、採られもしないのでホダとなってしまうと外山節は歌っているのである(人里遠く離れた山奥の牧場で働かされている牧夫たちには女性とはもちろんだれとも付き合う機会がないので、このまま独身で齢をとって=ホダとなって終わってしまうのかとの嘆きがこの歌に隠されているのではないかとも思えるのだが、どうだろうか)。
 この野焼き、山焼きに関しては今述べた『本荘追分』と『長者の山』でも歌っている。家畜の飼料や屋根ふきなどに使う萱などを刈るための草刈り場や家畜を放牧するための自然牧野では春早くに村の人が総出で火入れをするのだが、その副産物としてワラビがよく育つのである。まさに一挙両得である。
 でも、もっとも得をするのはその山を持つ長者である。『長者の山』の1番の歌詞はそれを唄う。
   「さかるさかると 長者の山コ 盛るナ
   盛る長者の山 サーサ 末永くナ」
 長者の山は「盛(さか)る」=盛んになる、長者は栄えるのである。

 まだ山々の肌が灰色の早春のころ、遠くに見えるあちこちの山からのろしのような煙が立ち上がったものだった。それを見つけた私たち子どもはあれは山火事だ、いや炭焼きの煙だと大騒ぎをする。それが村仕事の野焼きの煙だとわかるのはかなり大きくなってからだった。
 もしかすると、その煙の立ち上ったところのワラビ、つまり野焼きという管理をへて大きく育ったワラビをその山々に住む人たちが採って売りに来る、それを私の祖母が買い、私たち家族が食べていたのかもしれない。

 いうまでもなく、野焼き、山焼きはワラビを育てるためになされるわけではない(註5)。つまりワラビの栽培のためではない。また、そのワラビは人の手によって改良などされていない野生種である。したがって、当然のことながら、このワラビは山菜であるということになる。
 それではワラビ園のワラビはどうか。ワラビ園ではワラビがよく育つように肥料を散布したり、雑草木の刈り取り等々の手入れをしたりしている。このようにワラビの生育を助けるために目的意識的に労働力や資材を投入しているのだから、しかも入園料までも採るのだから、野焼きなどよりははるかに栽培に近いことになる。しかし、前に述べた私の定義(註6)からするとそこのワラビはやはり山菜である。野生種だからだ。とすると、私は山菜としてのワラビ採りをしたことがあると言っていいことになる。

 こうしたワラビ園でのワラビ採り・山菜採りは大いに推奨すべきであろう。前に言ったことの繰り返しになるが、ファストフード漬けで山菜などあまり食べたことのない若者や子どもたちに古代以来引き継がれてきた山菜採りの伝統を伝え、またその楽しみを教えていく、かつて経験のある人たちには遭難等の危険なしにしかも容易にその楽しさを改めて味わってもらう、こうしたなかで食生活の向上を図ると同時に山村の振興を図っていくことを可能にするものだからである。

 それでも、私としては人手の一切かかっていない野生のワラビ、文字通りの山菜としてのワラビを一度はまともに採ってみたかった。それも、塩漬けにして貯蔵できるくらいにである。
 それが実現したのは網走に行ってから、60歳代半ばになってからだった。
                  (次回掲載は8月22日)
(註)
1.10年12月27日掲載・本稿第一部「☆身売り、だめ叔父、貧富格差」(5段落)参照
2.「津軽山唄歌詞」=senshoan.main.jp/minyou/tugaruyamauta-word.htmlを検索して見ていただきたい。
3.歌詞の後半が「焼げば焼くほど 太くなる」ではなくて「小首かしげて 思案する」としている歌詞もある。
4.上記(註1)の10年12月27日掲載の本稿記事の7段落を参照されたい。
5.11年1月7日掲載・本稿第一部「☆むらぐるみでの共同」(第一段落)参照
6.16年5月30日掲載・本稿第八部「☆「山菜」とは?」(4段落)参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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