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根物の山菜     



                山菜・思いつくまま(16)

            ☆根物の山菜―ヤマイモ、ホドイモ、葛、カタクリ―

 前々回述べた山ワサビ=セイヨウワサビはその「根」をすりおろして薬味として用いる。これに対して本ワサビは、根ではなく「地下茎」(厳密にいうと地下茎の肥大化した「根茎」)をすり下ろして食用にするものなのだそうである。このように食用にする部分は厳密にいえば異なるが、土のなかにあるという点では同じである。
 このように、「土壌中にある部分(根、地下茎、担根体、地下鱗茎)を食用にする植物」を「根物」と言うのだそうである。そうなると、この根物のうちの栽培されている植物つまり野菜が『根菜』ということになる。これに対して、栽培されておらず、自生している根物の食用植物は『根物の山菜』ということになろう

 根物の山菜というとまず頭に浮かぶのはヤマイモいわゆる自然薯(じねんじよ)であろう。
 このヤマイモ(和名はヤマノイモ)については本稿で前に述べている(註1)のでそれを参照していただきたいのだが、日本人は自生しているこの芋を掘り出して大昔から食べていたとのことであり、平安時代の『今昔物語』をもとにして芥川龍之介が書いた小説『芋粥』の芋はヤマイモのことだそうである。それでは粥は何か。私は米のお粥だろうと考えてきた。つまり芋粥とはヤマイモを米と一緒に粥にしたものだろうと私は思っていたのである。でも、もしかして間違いかもしれない、と思って改めて読み直してみたら、「山の芋を中に切込んで、それを甘葛(あまづら)の汁で煮た、粥」とのことで、汁粉のようなものだったようである。それでは甘葛(あまづら)とは何かだが、世界大百科事典によると蔦(つた)のことらしく(註2)、その切り口から出る汁を煮詰めてつくった甘味料なのだそうである。古代から用いられてきたのだが、砂糖の輸入と国内産の増加によって中世に消滅したのだという。前に述べたイタヤカエデなどに加えてツタという甘味料を日本の山林が産出していたことをこの齢になって初めて学んだ。
 それはそれとして、私の考えていたヤマイモを米といっしょに粥にした芋粥、これは食べたことがない。そもそも食べる地域があるのだろうか。戦中戦後の食糧難の時にサツマイモやジャガイモで増量したお粥を食べたという話は聞いたことがあるが。ヤマイモの場合は、山で探し、また掘り取るのにかなりの手間がかかるし、めったに手に入らないので増量材とするのはもったいない、それで米のお粥にヤマイモを入れるなどということはしなかったのではないだろうか。
 私の生家では貰い物としてしか手に入らなかったので本当にたまにしか食べなかったが、すりおろしたヤマイモの入ったすり鉢に味噌汁を入れて掻き回し、粘りを弱めて、トロロイモ(=ナガイモ)と同じようにご飯にかけて食べていた。それでも粘りが強すぎて食べにくく、私はあまり好きではなかった。しかし、家内のつくったのは食べられる。だしを利かせた味噌汁をたっぷりかけて粘りを弱めているからではなかろうか。家内は子どものころナガイモを食べた記憶はなく、近くの山から両親などが掘り取ってきたヤマイモ(ジネンジョと呼んでいたとのことである)を食べていたというから、調理の仕方がうまいのかもしれない。
 今は栽培もされている(註3)ので手に入りやすくなり、たまにいただいたりもするのでおいしくごちそうになっている。しかし、山村の過疎化で山から掘り取る人が少なくなっているという話を聞く。放置されている山菜としてのヤマイモ、今はどうなっているだろうか。人から採られなくなって増えているのだろうか、野生動物の餌となってその繁殖を助けているのか、人手が入らなくなったために減ったりしていないか、ちょっと心配である。
 ニホンホドイモ、それも同じ運命になっているかもしれない。

 ホドイモ(塊芋)は北上山地から青森南部にかけて食べられていたと前に述べた(註4)が、岩手県葛巻町の古老NNさんは子どものころ掘って「ほど」(「いろりやこたつの中央にある火の下の熱くなった灰」のこと)に入れて焼き、おやつとして食べたものだという。ホドイモという名前はこのことからついたものと思われる。
 ところで、この「ほど」という言葉は、遠野市の古老のOさん(註5)も同じ意味で用いていた。このことからして「ほど」は北上山地の地域では共通して同じ意味で使われていたと思われる。
 他の地域ではどうかと思ってネット検索してみたら、goo国語辞書に「ほど【火床】」=「いろりの中央にある火をたくくぼんだ所」と書かれていた。ということは、「ほど」が北上山地用語と基本的に同じ意味で全国的に用いられていたということができよう。そしてこの「ほど」から全国共通の名称として「ホドイモ」がつけられたものとも考えられる。
 なお、葛巻町ではこのホドイモをバクロウイモとも呼んでいたという。イモの付き方が馬喰(ばくろう)(「博労」とも書くが、牛馬の売買やその仲介を職業にする人をかつてはこう呼んでいた)が馬数頭を繋いで引っ張って歩いている姿に似ているのでこの名がついたのだとNNさんは言っておられるが、まさにイモの付き方はその通り、うまいことつけたものである。でも一般的にはホドイモと呼ばれているとのこと、和名もそうなっている。
 ホドイモは日本列島全域が原産地で自生しているとのことだが、食用にしているのは東北北部でしか聞いたことがない。その名称からして全国各地で食べられていたのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。
 できればニホンホドイモを見直し、アピオス=アメリカホドイモのように栽培植物化されてみんなに食べてもらえるようになれば、それにこしたことはないと私は思うのだが。

 さて、これまで何度となく登場してもらった葛巻町だが、この葛巻という名は中世以来のもので、そもそもは「葛牧(くずまき)」つまり葛の生えた牧(まき)から来たのではないかと言われているようである。それは実際に町に行ってみれば納得できる。葛巻は昔から有名な馬産地であり、その馬を育てる牧(まき)=牧野(自然の放牧場や草刈り場)がかつて大きくひろがり、その牧野には家畜の飼育に適する葛がたくさん生えていたのだろう、それで「葛牧」と呼ばれ、それが何かの折に葛巻に変わったのだろうとおそらく誰しも推測できるだろうからである。
 この葛は、きわめて栄養価の高い飼料であると同時に、そのつるは薪の結束に用いられるなど作業用の材料として用いられ、さらに茎の繊維からは葛布が織られ、さらにその根は食料にもなる等、とりわけ山間地では非常に重要な植物だったが、きわめて高い繁殖力があるために山野に行けばよくみられる植物として平場の人たちにも親しまれていた。そればかりでなく、『葛の葉』というキツネの恩返しの昔話や葛湯、葛餅、葛切りで、また秋の七草の一つとして、葛は子どもたちにもなじみの深いものだった。

 冬、風邪をひくなどして熱を出して寝込み、食欲もまったくないときなどに、よく祖母が葛湯をつくってくれた。
 茶の間の火鉢でいつもチンチン音をさせて湯気を出している鉄瓶から湯呑茶碗にお湯を注ぎ、それに砂糖を入れてかきまぜる。この砂糖湯に真っ白い葛粉を入れ、よくかきまぜる。すると砂糖湯がとろみを帯びて透明になってくる。何ともそれが不思議なのだが、それを小匙ですくい、「風邪に効くから」と私の口の中に流し込んでくれる。甘い、柔らかい。とろみが口のなかでひとりでに溶け、喉の奥にスーッと入っていく。うまい。喉が痛くとも、他の食べ物は入らなくとも、これは入る。ましてや甘いもののない時代のことだ、病気の治りかけのころに葛湯が出されると、病気して得したとさえ思う。
 ともかくうまかった。病気に効いたような気にもなった。実際に葛粉には身体を温め、血行をよくするなど風邪に効き目があるのだそうである。
 こんなことを何回繰り返したことか、何回葛粉にお世話になったことか(何回祖父母や両親を心配させたことか、迷惑をかけたかということにもなるのだろうが)。
 この葛粉が、山野に自生している葛の根を掘り起こして砕き、水にさらして取ったものだということを知ったのはいつ頃だったのだろうか。
 また、私の小さいころ飲んだ葛湯がすべて本当に葛の根から取ったものだったのか、疑問に思うようになったのはいつ頃だったのだろうか。

 揚げ物や餡かけのとき、祖母が台所の米櫃のわきのところから「片栗粉」と変わった書体と色で大きく印刷してある細長い円筒形の紙袋を取り出す。袋の開封してあるところは白くて太い糸で結んであり、使い終わると袋から空気を抜き、開け口をまた糸でぐるぐる縛り、きっちり閉めてもとの場所に戻す。なぜこんなことを覚えているのだろうか。その粉が真っ白でサラサラすべすべして手触りが非常によかったからではなかったろうか。
 いつの冬だったか、母だったのか祖母だったのかはっきり思い出せないのだが、あるとき片栗粉を出してきて葛湯をつくってくれた。葛粉ではなかったが、できあがったのは葛湯だった。ちょっと不思議だったが、いつも飲んでいたのよりはちょっと透明で、粘りが弱いような気がしただけで、味もうまさも同じだった。それでそれからはどちらの粉を使ったのかなどとくに気にせず、疑問も持たず、そのまま年が経って行った。
 でも今考えてみたら、葛湯を本当の葛粉でつくったのはあまりなかったのではなかろうか。私の子どものころの戦中戦後などは葛粉が手に入らなかっただろうからである。もちろん片栗粉も物資不足で高価だったが、葛粉よりも手に入りやすいことは私も知っていたようである。といっても、なぜ片栗粉が安いのか、その原料は何で、どうして葛粉より安いのかなどは知らなかった。

 カタクリの花、何かの本で名前を知ったような気がする。見たことはなかった。30歳を過ぎて生まれて初めてまともに見た。ある年の春休み、家族で近くの山に遊びで登ったとき、まばらに生えた木の下の野原一面にカタクリの小さい可愛い紅紫色の花が春の日差しを浴びて咲いているのを見て(家内はとっくに知っていた)、その見事さと可愛さに驚いたのを今でも鮮明に覚えている。
 そのころは、そもそも片栗粉はカタクリの根茎から製造したものであり、明治以降ジャガイモの澱粉からつくられるようになったものだということは知っていたが、改めてカタクリがきわめて重要な山菜であったこと、あの小さいカタクリの根から粉を採るのはかなり大変だったろうことを再認識したものだった。

 いうまでもなく、片栗粉には葛粉と違って風邪などへの薬効成分はない。それでも食欲のない病人の栄養分にはなったし、私もその恩恵を受けた。なお、この葛湯に生姜をすって入れて飲まされたことも覚えている(辛くて飲むのが大変だった、我慢して飲むと腹の底から身体が熱くなったような気がした)が、本来の葛粉のような薬効成分のなさを補うという意味があったのかもしれない。
 いずれにせよ、葛湯には、そしてそれをつくって飲ませてくれた祖母や母には、本当にお世話になった。

 今の子どもたちは葛湯を飲んだことがあるだろうか。葛切り、葛餅を食べたことがあるだろうか。ドーナツやケーキなどの洋菓子は日常的に食べていても、生まれてから一度も葛湯を飲んだことがない、葛餅を食べたことがないという子どもが多くなっているのではないだろうか。何とも寂しい。葛粉でなくていい、ジャガイモ澱粉でもちろんいい、葛湯とはこういうもの、こうやってつくるものだと家庭で伝えていく、葛餅を買って与える、そして日本の食文化を伝えていく、こういうことを考えてもらいたいものだ。

 網走の北浜駅(観光地として有名)から西に1㌔くらい行った畑の真ん中に巨大な塔が建っている。観光客は何だろうと不思議がるが、これは周辺の農家の生産するジャガイモを原料に澱粉を製造する工場の建物である。ここばかりでなく、畑作地帯の各地に建っている。かつてはこんな近代的な工場ではもちろんなく、臭気等々さまざまな問題を引き起こしていたとのことだが、その高い高い塔を見上げながら、改めてカタクリ粉と葛湯のことを思い出したものだった。
 その北海道のジャガイモがまた片栗粉が、TPP問題ではたしてどうなるのか、本当に心配である(註6)。

 片栗粉ばかりでなく、葛粉も、ジャガイモ・サツマイモの澱粉かコーンスターチ(輸入トウモロコシの澱粉)を混入したものが多くなっているとのことである。また、中国産の葛粉の輸入が増えているともいう。
 こうした状況と山村の過疎化・高齢化、かつての日本的な家畜飼料の外来飼料作物への置き換え等々で葛は利用されなくなり、葛刈りなどはされずに放置されるようになってきた。そうなると、日本の風土に適していて繁殖力が強く、成長が早くてどこまでも伸びる葛のこと、日陰をつくってあるいは幹に巻き付いて木を枯らしたり、畑に繁殖したりし、さらには道路をふさぐ等々、現在では厄介者になりつつある。そしてそれがまた過疎化に拍車をかける。こうした諸問題はTPPでさらに激化させられることになろう。
 古代以来日本人の暮らしと密着してきた葛、これが忘れ去られ、それどころか邪魔者にされる、何かさびしい感じがするのだが、これも単なる年寄りの感傷なのだろうか。

(註)
1.13年2月7日掲載・本稿第五部「☆サトイモと芋煮」(1段落)、
  13年2月14日掲載・本稿第五部「☆トロロイモ・ヤマイモ・ナガイモ」(1、4、5段落)参照
2.デジタル大辞泉ではアマチャヅルであるとしており、どちらが本当か私にはわからないが、ここでは蔦説を採ることにする。
3.13年2月14日掲載・本稿第五部「☆トロロイモ・ヤマイモ・ナガイモ」(4、5段落)参照
4.13年2月7日掲載・本稿第五部「☆女の伝えたイモ・ホドイモ」(8、9段落)参照、
  なお、この(1~7段落)ではアメリカホドイモ=アピオスについて述べている。
5.とくに下記掲載記事を参照されたい
  15年11月9、16日掲載・本稿第七部「☆その昔の農家の味噌醤油づくり」
6.13年1月17日掲載・本稿第五部「☆イモ掘り、イモ拾い、ダンプカー」(4段落)参照
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コメント

[C72]

鈴木晋一さんの「たべもの噺」によると
芋粥とはヤマイモを甘葛の汁で煮たもので
米を入れた粥ではなく
現在のぜんざいや汁粉に近いモノだったとのことです
温かいデザートのような感覚ではなかったのでしょうか

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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