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ワラビ・ユリの根、救荒山菜



               山菜・思いつくまま(17)

             ☆ワラビ・ユリの根、救荒山菜

 前回の記事で触れた葛粉でつくった葛餅だが、この名前が出ると連鎖反応的に頭に浮かぶのがワラビ餅である。といっても、葛・ワラビともに山の生産物、葛餅・ワラビ餅はおやつとして本当にたまに与えられて食べたもの、だからだろう、特別な記憶はない。しかも私は長いことこの二種類の餅は同じものだと思って過ごしてきた。透明でプルンプルンしているけれども、寒天とは違ってモチモチしており、ともにその上に黄な粉がかけられているということでは同じだったからである。たまにその上に黒い糖蜜がかけられているときがあるが、それがかけられているかどうかで両者の区別がつくというものでもない。本当にそっくりである。両者を並べて比較したらその違いがわかるかもしれないが、そんな贅沢な経験をしたことはないし、家で本当にたまにあるいはどこかでご馳走になるときしか、それも別々にしか食べられないものだったので、比較などできるわけもない。また同じものと思っていたから、比較をしようなどと考えもしなかった。そんなことで、葛粉でつくった葛餅が地域によってワラビ餅と呼ばれるのだろうと私は一人で納得していた。
 やがてワラビ餅はそもそもはワラビの根からつくった粉でつくられたものであることを知るのだが、それがいつごろだったのか記憶にない。
 それからまたかなり過ぎてだったと思う、実際にはかなり昔からワラビ餅は葛粉や小麦粉などでつくられるようになっていたこと、今は葛餅・ワラビ餅ともに葛粉もしくは澱粉と水、砂糖から作られていることも知った。両者の差異がわからないのは当然のことだったのではないかと今は思っているが、どうなのだろうか。

 ところで、なぜワラビ餅の原料が葛粉や澱粉に変わっていったのかだが、これはワラビ粉をつくるのに葛粉などに比べてかなりの手間暇がかかり、効率が悪かったかららしい。寒い冬に山に分け入り、畑などと違って固い土を掘り、あちこちに伸びている根=地下茎を引っ張りあげて採り、よく水で洗って、切って、臼や水車、バッタリ(註1)などで搗いて叩きまた砕いて粉々にし、それを容器に入れて水に浸け、その水を布袋で漉して中に残ったもの、あるいは容器の底に沈殿したものを乾燥させ、粉(澱粉)にするのだそうで、労働が大変な上に採れる量はきわめてわずかでしかないのだそうである。それでワラビ粉は葛粉や澱粉に代わり、ワラビ粉をワラビの根からとるなどということはしなくなったようである。
 前節でもご登場いただいた岩手県北上山地の葛巻町の古老NNさんは、一度だけワラビの根でつくったワラビ餅を食べた記憶があるという。根をすりおろして水に浸けると水分が出てくる、それを絞って火にかけると片栗粉のようになる、それをこねて餅にして黄な粉をつけて食べたが、普段は食べたことがないとのことである。やはり手間がかかるからなのだろう。

 しかし、凶作で農作物が穫れなくなり、しかも年貢等で少ない生産物を収奪され、食べるものがなくなるとなれば、手間暇がかかるなどとは言っていられない。山野に自生する山菜をこれまで以上に採取するばかりでなく、日常的には食べない山野草や木の実などもいかにまずくまた手間暇がかかっても採取・調理して飢えをしのぐしかない。その対象の典型的な一つがワラビの根だった。
 しかも粉をとって食べるばかりでなく、粉を取った後の根の残り粕、これも食べたとのことだ。どのようにして食べたかわからないが、粕の中にわずかでも残っているかもしれない養分をとろう、お腹がくちくなるようにしようとしたのだろう。
 繰り返し繰り返し襲った凶作と飢饉、そのたびにワラビの根は農山村の庶民の胃袋を満たした。そんなことから「ワラビの根」は「どんぐりの実」と並んで救荒食の代表的なものといわれるようになったのであろう。

 ワラビの根ばかりではなかった。根物の山菜は凶作時にとくに重要視された。葉物とちがって気象変動の影響をあまりうけないからである。
 前回述べたヤマイモ、ホドイモ、葛の根など、平常年以上に探して採って食べたのではなかろうか。なお、ヤマイモの仲間にトコロという植物があり、その根は通常は食べないのだそうだが、飢饉のときにはこれも灰汁抜きをして食べたとのことである。
 もちろんカタクリの根も掘って食べたであろう。
 それからユリの根(鱗茎)がある。わが国の山野にはヤマユリ、コオニユリという日本原産のユリが自生しており、また中国から導入したとされるオニユリが自生するようになっており、これらの根は昔から食べられてきた。さらにコオニユリの系統の品種が栽培もされ、日本人にはなじみ深い食べ物となっているのであるが、これらもいつも以上に山野から掘り取って飢えをしのごうとしたのではなかろうか。

 ところで、ユリ根はなじみ深い食べ物と今言ったが、私には必ずしもそうではなかった。子どものころの私にとってユリは花を観賞するためのもの、といっても花の匂いがかなりきついので室内などには飾れないものという認識しかなかった。その認識から脱却したのは中学のころではなかったろうか、どこかからもらったらしいユリの根を祖母がそのままゆでたのを食べたときだった。ホクホクしてうまかったが、ユリの根が食べられるのを知ってびっくりしたものだった。
 ところが、宮城県南の小さな町に生まれた家内の場合はユリの根は食べるものというのが常識だったという。子どものころ妹や友だちと裏山に遊びに行ったとき、ユリを見つけては掘り取って根を家に持ち帰ったものだとのことである。掘るのがかなり大変だったことは覚えているが、それをどのようにして食べたのかは忘れてしまったとのことである。
 それでも家内はその食べ方を覚えており、店でユリの根を売っていたりすると買ってきて茶碗蒸しをつくってくれた。ギンナン入りの茶碗蒸しはよく食べたが、ユリ根入りのは初めて、けっこううまいものだった。
 なお、店で売っているユリの根は北海道がその大半を生産しているのだそうだが、産地は道南とのこと、道理で網走でその栽培している畑を見たことはなかった。と思っていたのだが、網走の隣町の小清水では球根を栽培しているとのこと、見たことがないだけだった。ただし、この小清水にあるリリーパークには何度か行き、見事に咲き誇っている広大なユリ園を楽しませてもらった。町内の球根栽培農家のご婦人の熱意が実ってつくられたものとのこと、ぜひ見てもらいたいものである。

 また話は戻るが、同じユリ科で今述べたユリとは属の違うウバユリ(これを初めて見たのは網走でだったが、その後東北の山中でも見た)やアマドコロ(薬用として用いるものと聞いていた名前だが、まだ見たことがない)の根も飢饉のときには食べたという。
 なお、岩手県南の胆江地域では、カラスウリやバラの根も食べたという(註2)。カラスウリといえば私は漢方薬を思い出すのだが、その根が食用になるなどとは知らなかった。バラの根(日本原産の野イバラだろうか)、どのようにして食べたのだろう、想像がつかない。

 もちろん、飢饉のときに食べたのは根ばかりではなかった。一般に山菜といわれるものはもちろん日常は食べない山野の草木の茎、葉、花などを食べて飢えをしのごうとした。さきほどの岩手県胆江地域の資料ではスギナ・キキョウ・サイカチ・タンポポ・ヤマブキ・キツネアザミの茎葉、クルミ・ツツジ・アケビの花も食べたという。
 このなかには私の想像を絶するもの、なるほどと思うものがあるが、戦後の食糧不足の時に私の生家の近くの人たちが食べたというハコベ、ハハコグサ、アカザ、タンポポ、アザミ、ギシギシ、イタドリなどの芽や茎葉もきっと食べたのではなかろうか。どんなに手間暇がかかろうとも、どんなにまずかろうとも手に入れて、食えるように調理して、腹に入れて飢えをしのぐほかなかっただろうからである。長いこと引き継がれてきた先祖の知恵がこういうときに復活したのだろう。
 こうした山野の草木の茎、葉、花、根等々は救荒山菜と呼ぶことができよう。そしてこの救荒山菜や木の実が、そしてそれを育てた山野が日本人を飢饉から救ってきたのだろう。最近は山野を単なる未開発地として軽視もしくは無視する風潮があるが、食の宝庫として改めて見直してみること、感謝の念をもって大事にしていくことが必要となっているのではなかろうか。もちろん、飢饉などは二度と体験したくはないのだが。

(註)
1.12年12月13日掲載・本稿第五部「☆鹿威し、ばったり、水車、踏み車」(3段落)参照
2.「【特集】胆江地区の飢饉の歴史 www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_19/vol19_2b.htm」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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