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戦争とむらの子どもたち(8)

  

           ☆愛国心と報道―真実と事実―

 このような悲惨なしかも他国民にも大きな被害を与えた戦争に、国民が、また農民がなぜ進んで協力し、あれほど熱狂的になったのだろうか。
 それを考えるときにいつも二つのことを思い出したものだった。

 一つは、宮城県の農民運動史を研究していたときときにわかったことである。
 日本が中国侵略を始めた一九三〇年代初め、小作争議を展開していた農民組合は「帝国主義戦争反対」をスローガンとしてかかげていた。しかし、自分の子弟や親戚、友人を出征兵士として送り出さざるを得なかった農民は彼らを満州事変等で死なせたくはない。どうしても日本軍を応援してしまう。やはり負けるよりは勝ってもらった方がいい。こうして戦争は帝国主義戦争ではなく親族縁者の戦争となる。そこに、中国はいかに日本人に対してひどいことをしているか、この日本をまもるためにいかに満州が大事かなど、一面的な報道がなされる。そうすると、小さい頃から教えられ、たたきこまれてきた忠君愛国の精神が目覚め、「愛国」主義者に徐々に変わっていく。そして、生活を直接的に苦しめている地主制・財閥と軍国主義的な天皇制は密接不可分なのであるが、両者は別のものである、悪いのは地主と財閥で、天皇制や軍隊はいいものだと切り離して考えるようになってくる。
 一方、昭和恐慌や凶作等でさらに苦しい生活を送らなければならなくなっていた農民に、農村の貧困は土地飢饉にある、つまり土地に比して人口が過剰である、その過剰人口を満蒙開拓で解決しよう、それは中国人にも恩恵を与えるものだという宣伝がなされる。前にも述べたが、食うや食わずで苦しんでいた農民はそれに一縷の希望を見いだした。そして我も我もと開拓に行く。宮城県南郷村(現・美里町)などでは総農家数の一割をこす農家が開拓移民となって満州に行った。こうして侵略政策に協力させられたのであるが、この親戚縁者が満州で無事でいてもらいたい、そのためには日本に抵抗する「匪賊」などの中国人、それを支援する中国を武力で鎮圧してもかまわないということになる。そこに政府の排外主義、愛国主義の思想が入り込み、農民はそのとりこになる。
 一九三七(昭和十二)年日中戦争が開始されると、その勝利を願う気持ちは止めようがなくなり、積極的に協力しようということになる。そこに警察権力の厳しい弾圧がある。それで組合は「帝国主義戦争反対」のスローガンをおろすようになり、それどころか戦争に積極的に協力するようになった。そして銃後をまもるために、戦争遂行のために小作料を下げろなどと要求するようになる。
 こうして農民はずるずると戦争に協力するようになり、最後には熱狂的になったのである。その結果、開拓農民がどんなひどい思いをすることになったか、これについてはいうまでもないであろう。農民は自らの誤りで自らを苦しめてしまったのである。

 もう一つ思い起こすのは、一九七八(昭和五十三)年、第二次減反で農村が揺れていた頃のことである。
 NHK仙台が「米と東北」という特別番組を制作することになり、私どもの研究室が調査協力した。私たちが農村の現地に行って農家の意向を調査してその結果をまとめ、NHKはその調査に同行して取材し、調査結果とともに放映するというものである。
 その調査結果と放映の内容について仙台放送局に打ち合わせに行ったとき、ディレクターの方たちが私たちの現地調査を取材したときのビデオテープを編集していた。ちょうど減反に協力するかというわれわれの質問に農家が答えている場面であった。
 農家はゆっくり考えながら答える。まず大きな断固とした声で「減反には絶対反対だ」という。そのままマイクを向けていると「だけど、どうするかなあ」と迷いの言葉をはく。そのうち「やはり減反するしかないだろうなあ」。
 考え考え話すものだから一分くらいになる。それをディレクターは短くしなければならない。
 ところが農家は、三通りともいえる答えをしている。そのうちのどれをカットするのか。どれを放映するのか。それによって視聴者の受け取り方は大きく変わってくる。「反対」の声を出せば、農家は反対しているのだと視聴者は考えるだろうし、最後に言った「減反する」という言葉を放映すれば、農家は賛成しているとみる。
 この編集場面を見ていたとき、急にこわくなつた。マスコミは世論を誘導しようと思えばいくらでもできると。
 「減反する」という部分だけを報道したとする。それでマスコミは事実を報道したというかもしれない。たしかに事実である。しかしそれだけを取り上げればそれは真実ではなくなる。真実は三つの意見すべてである。つまり「事実は真実にあらず」なのである。
 戦前、マスコミは一定の事実を報道した。しかしそれは一部でしかなかった。しかもその事実は政府に都合の悪いものをカットさせられた残りの一部であった。もちろんそれは権力による言論弾圧によってなされたものであるが、報道関係者も自主規制して戦争をあおるような一部の事実のみを報道した。それは読者や視聴者を愛国主義、排外主義にかりたてるのに大きな役割を果たした。さらに販売部数を伸ばすためにその愛国主義に迎合して事実をねじまげて報道するようになった。その結果があの戦争だったのである。そして最終的には一部の事実すらも報道できなくなった。すべて大本営、軍部のいうままの報道をしなければならなくなったのである。

 生まれたときから新聞、ラジオ、映画、本等で日本の戦争はいかに正しいかを教えられ、学校では天皇崇拝を柱とする愛国主義、排外主義教育を受けた私たち子どもは、鬼畜米英撃滅で凝り固まり、天皇陛下の御為に死ぬのは当たり前と考えていた。
 戦争まっただなかの頃、学校が私たち生徒を引き連れて映画を見せに連れて行った。今でいうアニメ映画で桃太郎が出てくる。名前は忘れてしまったが、調べてみると『桃太郎 海の荒鷲』『桃太郎 海の神兵』の二つあったようで、そのどちらを見たのかがわからない。あるいは二つ見せられたのかもしれない。ともかくそのなかに次のような潜水艦の歌があった。
   「海の底から うまそなにおいがするわい
    大根ごぼう きざんでゆでて
    まないたたたいて 歌うたう
    潜水艦の 台所の歌は
    とーんとんとん とーんとん
    とーんとんとん とーん」
 それから桃太郎が植民地の子どもに日本語を教える「アイウエオの歌」もあった。これもよく覚えている。
 漫画が動くのを生まれて初めて見、そのおもしろさには感激した。歌までいまだに覚えているくらいである。そして日本の戦いの正しさ、強さ、アジア諸国民の解放等に確信をもった。
 朝鮮や中国をはじめとするアジアの人々にこの戦争がどのような苦しみを与えているか、日本の兵士がどれだけ苦しんでいたかなど、一切考えなかった。もちろん侵略戦争だなどとは考えもしなかった。
 少年航空兵になろう、そのために身体を鍛えようと冬は足袋をはかないで学校に通ったり、授業が終わってから毎日一人で不得意な鉄棒に必死になってぶらさがったりもした。人を殺すための銃剣術のまねごともした。まさに私どもは軍国少年だった。
 ここまでした教育、報道というものを恐ろしくさえ思う。

 話はちょっと飛ぶが、こうした農業関連のテレビ番組作成で知り合ったNHKのディレクターの方から、『農民兵士の声が聞こえる』という自分が担当した特集番組が放映されるので見てくれという電話が入った。一九八二年秋のことである。その番組の宣伝を見て前々から見ようと思ってもいたので、もちろん見させてもらった。
 これは、戦争に取られた岩手県和賀町(現・北上市)の青年たちがあるお宅に送った七〇〇〇通もの軍事郵便が残っており、その内容を紹介するというものであった。軍隊の検閲を通ったものしか来ないし、文章はみんな短いのであるが、その手紙のなかには家族や農作業の心配などが綿々と書かれてあった。
 たまたまその画面のなかに私の知りあいの篤農家Iさんが出てきた。戦死したお兄さんの手紙がそのなかにあったのである。そのとき、Iさんが次男で、戦死したお兄さんに替わって家を継いだことを初めて知った。
 ディレクターは、青々と続く田んぼの畦にIさんを座らせ、そこでお兄さんの手紙を読ませた。よその家に送った手紙だからもちろん彼は読んだことはない。その手紙は俳優が読み上げたが、いまごろ忙しいのではないか、家の農作業は大丈夫だろうか、みんな元気だろうか等々、家族や農業の心配だけが書かれてあった。畦道でその手紙を読み終わった後、「ああ、こんな手紙が来ていたんですか」、そう言って彼は黙った。カメラはそのままIさんを映し続けた。何秒過ぎたであろうか。突然Iさんが、くくっと声を出した。同時に涙が滂沱とほほを伝った。なかなか涙は止まらなかった。私ももらい泣きをしてしまった。少し落ち着いてから、戦争に行く前、兄と二人でこの地域の農業をどうするか、何度も夢を語り合った、この整理された田んぼを見てもわかるようにその夢の一部が達成された、いっしょにそれを見たかったというようなことを涙をふきながら語った。
 その場面で私は、一方では感動しながら、他方でまったく別のことを考えていた。Iさんが手紙を読み終わった後、ディレクターは感想はどうかとすぐに聞かなかったことである。黙って待った。その「間」、普通であればもたない。しかしディレクターは待った。それがあの涙を引き出し、感動的なシーンを生み出したのである。ものすごい演出である。さすがと思い、後でこのディレクターの方にそのことを言ったら、やはり待つのは辛い、しかも待ってうまくいくかどうか一種の賭だ、だけど待つことも必要なんだなどと話してくれた。
 農家の調査などに行くと、時間が限られているし、聞きたいことがたくさんあるのでついつい畳みかけて聞いてしまうことがある。いつもは相手に語らせようと気を付けているのだが、ついついそうなってしまう。これでは真実を明らかにすることはできない。これからさらに気をつけなければと痛感した。
 かなり後になってこのときのディレクターOTさんにこの思い出を手紙に書いて送ったら、「実は」とこんな返事が返ってきた。
 「あの時私は泣いていました。声が出なかったというのが本当のところです。カメラマンも泣いていました。こぼれる涙でファインダーが霞んだと言っていました。あの時の田んぼを渡る風の音、鳥の声まで含めて、今でもはっきりと覚えています。」
 農家の青年が遠く離れた戦地にあっても、苦しい状況にあっても、家族や農業をどれだけ思い、心配していたか、その気持ちが切々と胸を打つこの『農民兵士の声が聞こえる』という番組、そして戦争とはいかなるものかをこれまでになかった切り口でしみじみと訴えかけてくれたこの番組を、戦没学生の遺稿集『きけわだつみのこえ』とともに、若い人たちにぜひ見てもらいたいものだ。

 真実を明らかにするのはもちろんのこと、それを伝えることも難しい。紙面の都合、時間の都合があるからなおのことだ。
 もちろん、事実のすべてを伝えることが真実を伝えることには必ずしもならない。これは報道ばかりでなく、学術論文にもあてはまることである。事実を延々と書いてあるものがたまにあるが、これでは何を言いたいのかさっぱりわからず、読む気にもならない。読んでもらわなければ何にもならない。報道にしても、学術論文にしても、いかに真実を、本質をつかむか、そのために事実をいかに多く集めるか、その事実のなかから捨てるものをいかに選び出し、どの部分をいかに伝え、真実を明らかにしていくかが問題なのである。そして一部の事実をカットすることで、真実を伝えることができることもある。しかしその取捨選択はきわめて難しい。つまり客観的な公正な報道は非常に難しく、どうしても主観が入らざるを得ない。ここに報道の難しさがある。
 これを克服するためにマスコミ関係者はたえず次のことを考える必要があろう。まず自由と平和をまもる立場にたつこと、権力に対する批判の姿勢をもって弱者の立場にたつこと、世の大勢に対して疑問を提起していくことである。
 しかしそうした姿勢をいまマスコミはとっているだろうか。たとえばNHKの報道に対して政府与党から強い圧力がかけられたことが数年前にあったが、それに対して闘うどころか自主規制し、さらに圧力の事実がなかったとまでいう。
 こうしたなかで自衛隊が海外派遣されるまでになってきた。そして憲法を変えることが論議されている。また教育基本法も愛国心養成という方向で変えられた。しかも国民の多くがそれに賛同するようになっている。
 ずるずると変わっていく、そして気づいたときには大きな過ちを犯している、このような戦前を思い出させるような最近の動きに、胸を痛めている今日この頃である。

 それに関連してもう少し述べておきたい。
 〇五年、中国で激しい反日行動が起きた。小泉靖国参拝問題等、政府の侵略戦争に対する反省のなさがそれを引き起こしたものであり、やむを得ないことだと私は思う。しかしそのときにかかげられていたスローガンの「愛国正義」「愛国無罪」、つまり愛国は正義だから何をしても許されるというのには納得できない。それでは戦前の日本と同じではないか。日本人は国を愛する行動であれば何をしてもいいと、中国人を始めとする多くの人々に悪いことをしてきた。愛国は必ず正義であるとはいえないのである。
 このことは愛国を否定することではない。愛国心というのは愛郷心と同じで自然のうちに形成されるものだ。
 たとえば私は高校野球でまず応援するのは故郷の山形であり、東北である。次は北海道で、北陸、山陰となる。北海道はわかるとしても、なぜ隣の関東ではなく遠い北陸・山陰なのかと聞かれるが、それは同じ雪国であること、故郷と同じく日本海側であることからくる。プロ野球は東北楽天、次ぎに札幌日ハムだ。WBCやサッカーワールドカップではもちろん日本チームを応援する。これは強制されたものでも何でもない。自然のうちに心の中に形成されたものである。しかし、これを異常に強調し、煽動すると、ファンは暴力行為に走ったりする。
 同じように愛国心も異常に強調し、煽動すると、それは狂信的となり、他国民に対してはもちろんのこと、自国民に対しても被害を与える。このことは戦前の日本が教えてくれていることである。愛国心が叫ばれ、君が代が強制されている現在、改めてこうしたことを考える必要があるのではなかろうか。

 日本はかつてと同じ過ちをまた犯そうとしている、あれだけの犠牲をもとにして得た平和、民主主義を日本人自らがまた破壊しようとしている、こんな不安から話が若干ずれてしまったが、話をもとに戻して、敗戦直後のむらやまちの子ども、農業や暮らしの姿を次に見てみよう。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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