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乾物・採りたて・桑の木のキクラゲ

 


                山菜・思いつくまま(19)

             ☆乾物・採りたて・桑の木のキクラゲ

 1950年代の終わりころの話である。まだ独身だった家内が職場の先輩たちに仙台の盛り場の中華料理屋に連れていかれ、生まれて初めて「長崎ちゃんぽん」なるものを食べた。いろいろな具材が入っていて栄養たっぷりの感じ、しかもうまいということで、私とのおデートで休日に町に出るとお昼にそれを食べるようになった。中華そばよりはもちろん高かったけれど、餓えていた若いころ、本当にうまいと思って食べたものだった。
 あるとき家内がちゃんぽんのなかに入っている黒いコリコリしたものは何なのかと私に聞く。特に味がないが、舌触り、歯ごたえがよくてうまい、これまで食べたことがないという。そこでこれはキクラゲというものだと教えた。
 しかし、私もキクラゲの名前は知っている、食べたことがあるというだけで子どものころどんな料理で食べたかなどということは覚えていなかった。覚えているのは、祖母がカラカラに乾燥した黒いキクラゲを水に浸して戻しているところだけだった。
 そして、キクラゲはワカメかクラゲのような海産物の乾物の一種であろうとずっと考えていた。その程度の知識しかなかった上に、しばらくぶりで食べたのが中華料理屋だったことから、キクラゲはきっとシナチク(メンマのことを当時はこう呼んでいた)と同じく中国からの輸入品であり、日本では採れないものなのだろうと考えるようにもなった。
 やがて、それは大間違いであり、キクラゲはキノコの一種で国内でも採れるものだということを知るようになったが、私の知っているのはキクラゲの乾物とそれを戻したものだけで、キクラゲの現物を見たことがなかった。それを初めて見たのは、恥ずかしいことだが30歳代も半ば、1972(昭47)年の夏、山村振興調査で山形県舟形町(註1)に行った時のことだった。

 地域振興のために何をなすべきかを話し合う集落座談会を全集落で開くので参加してくれとの話が町役場からあり、私たちも勉強になるのでごいっしょさせてもらうことになった。奥羽山脈の麓から最上川を挟んで出羽山地の麓までかなり広い範囲を回ったが、もっとも印象に残ったのが松橋という集落(註2)だった。出羽三山の月山の東側のふもとにあり、車で来ればここが行き止まり、隣の大石田町次年子(じねんご)集落(註3)までは山の中の細い道を歩いて越えなければならないというまさに山奥の山村集落だったからである。そのときの論議については省略するが、話が終わったのはちょうどお昼時だった。立ち上がって帰ろうとしたら、ここで昼食だという。そして集落の人みんなで机の上を片付け、料理を運んでくれ、そこで全員の昼食会となった。
 その料理はすべて集落の奥さん方による手づくりだった。もちろんすべて集落の産物、その中心は山菜だった。私の食べたことのない山菜、食べたことはあっても料理のしかたの異なる山菜等々、多種多様の料理がずらりと並ぶ。
 そのなかに、淡い灰紫色のぬるりとした分厚いキノコ状の寒天のようなもの(うまく言い表せないが)が載っている中皿があった。その皿のはじに黄色い練り芥子がちょっぴりおいてある。初めて見るもの、何か気持ちの悪い感じだが、これは何かと聞いてみたら、水をたっぷり吸ったキクラゲを採ってきてゆがいたばかりのものだ、酢醤油もしくは醤油をかけ、練り辛子をちょっぴりつけて食べるのだ、食べてみろという。生まれて初めて見る生のキクラゲである。驚いて早速口に入れてみた。ちょっとぬるぬる、ぶよぶよして柔らかく、特別きつい香りや味はない(これまたうまく表現できない)のだが、醤油と芥子の味がマッチしてうまい。生まれて初めての体験だった。
 その他のさまざまな料理、うまかった、珍しかった。見ているだけでも楽しかった。山村の自然の豊かさ、料理の豊かさ、工夫のすばらしさ、心の温かさ等々、しみじみ感じさせられた。にもかかわらず、申訳ないことだが、そして今でも残念に思っていることなのだが、私はその大半を食べることができなかった。お腹の痛みで食べられなかったのである(後でわかったことだが開腹手術が必要な状態になっており、仙台に帰ってすぐ入院、一ヶ月後当時としては大変な手術をさせられることとなったのだが、いまだにその思わしくない予後で苦しめられている)。今でもそれを思い出すと口惜しい。また、せっかく歓待していただいたのに失礼してしまったことに今でも集落の方に申訳ないことをしたと悔やんでいる。そんなことから、この調査は私にとって忘れられないものの一つとなった。

 それから約10年して、この舟形町の隣村大蔵村の沼の台集落(註4)に調査に行ったときのことである。何戸かの農家の庭先でひろげたむしろにキクラゲを並べて乾燥させていた。半乾燥状態でまだ大きかったが、色は黒ずみ、店頭で売っている乾燥キクラゲに近づきつつあった。
 それからまた約20年、各地に農産物の直売所ができる時代になり、山村の直売所などで乾燥させたキクラゲが売られるようになった。それを見つけると私は必ず買って帰ったものだった。そして水でもどしたキクラゲに辛子醤油をつけたり、酢味噌和えにしたりして食べる。残念ながら、半乾燥や生のキクラゲが売られているのを見たことがないので、それはあのときだけになってしまった。山間部のしかも一時期の生産物なのだからこれもやむを得ないことだろうとは思ったが、そのころはキクラゲの原木栽培や菌床栽培が可能であり、実際になされているところがあることも聞いていたので、東北でも採取ばかりでなく栽培も取り入れて産地化できないものだろうかなどとも考えるようになっていた。

 こんなことを思い出して書こうと考えていたころのことである、何という偶然か、友人のAH君からこんなメールが届いた(AH君は高校・大学と私の同期で医師をしており、これまで何回か本稿に登場してもらったが、彼の生家は山形市の中心部から西北に約10㌔のところにあり、彼の子ども時代は純農村だった)。

「養蚕農家だった私の生家では蚕の桑摘みが家族の仕事でした。子供も大切な労働力でした。
 雨の翌日桑畑に行くと、葉っぱを摘んだ桑の木に濃淡いろいろの薄紫から茶褐色で手のひら大のキクラゲが生っており、花が咲いたようで見事でした。見せてあげたいようです。
 その雨でふやけたキクラゲを摘んで帰り、洗って酢醤油をかけ、辛子をつけて食べます。こたえられませんでした。」 

 まったく知らなかった、平地の畑の桑の木にキクラゲが生えていたとは。
 私の生家は前に述べた事情で私の生まれる前に養蚕をやめていた(註5)ので桑畑はなく、家から4~500㍍東に桑畑がひろがっているがそこにはめったに行く機会がなかったし、母の実家では養蚕をやっていたが夏休みなどに遊びに行くだけ、桑畑には行かなかったから、きっと見たことがなかったのだろう。
 そう言われてみてふと考えた、子どものころ食べたキクラゲはもしかして母の実家からもらったものではなかったのかと。AH君の生家から私の母の実家までは十数㌔、桑の木にキクラゲが生えないわけはなく、それを乾燥させたものをお土産として私の家でもらった可能性があるからである。

 それにしても私は井の中の蛙だった。当時の交通事情、農家の経済事情からして住んでいる地域からめったに出られない閉鎖社会(註6)で育ったこと、ましてや子どもだったことからして、食べるものも知識も限られるということからやむをえなかったことかもしれないのだが、前に述べた各種山菜についてはもちろん、とくにキノコに関しては本当に無知だった。しかもこの年齢になって初めて知るなんて、何ともみっともないと思うのだが。
 でも、かつての私の思い違いのなかに正しいこともあった。キクラゲは中国からの輸入品と昔考えていたといったが、それは正しかった(といっても、そんなことは当たらない方がよかったのだが)。今は99%が中国を中心とする外国からの輸入なのだそうである。
 日本原産であり、湿潤気候のわが国に適し、自生もするキクラゲ、それすら自給できない、国産品などめったに口に入れることができない、日本は何と貧しい国なのだろう、などと考えてしまう。

 桑畑のキクラゲを見てみたい、食べてみたい。しかしその桑畑は今日本から姿を消してしまっている。あれだけあったのにである。キクラゲはもちろん桑の実も「小かごに摘んだは いつの日か」になってしまい(註7)、もう見たくとも見られず、食べたくとも食べられなくなってしまった(末尾に記載した「追記」を参照されたい)。こんな風にしてしまった政財界、それを何とも思わない国民、あきらめるより他ないだろう。何ともさびしい限りである。
 (次回は10月17日・月曜の掲載とさせていただく)

(註)
1.舟形町については本稿の下記掲載記事で別の面からだが紹介しているので参照されたい。
  13年9月16日掲載・本稿第六部「☆縄文農耕と東北侵略」(7段落)
2.16年2月8日掲載・本稿第八部「☆笹の実、次年子・笹子」(2段落)参照
3.16年2月8日掲載・本稿第八部「☆笹の実、次年子・笹子」、
  16年2月15日掲載・本稿第八部「★異説・次年子」参照
4.この調査に関しては下記掲載記事でも述べている。
  11年6月27日掲載・本稿第二部「☆過疎化の相対的な未進展」
  また、沼の台という地域に関しても下記記事で触れている。
  11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(3段落)
5.11年2月8日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」(2段落)参照
6.11年1月12日掲載・本稿第一部「☆閉ざされた社会」(1段落)参照
7.12年2月29日掲載・本稿第三部「☆小かごに摘んだはまぼろしか」参照

(追記1)
 本節を掲載した翌々日のことである、AH君と同じく私と高校の同級のIZ君にたまたま会った。彼の生家は山形市の北部の純農村(今は都市化されているが)で養蚕農家であり、AH君の家から4~5㌔くらいの距離にある。そこでAH君の桑の木とキクラゲの話をしたところ、IZ君は言う、キクラゲが生えているのは見たことがない、ただし古くなった桑の木の切り株にナメコ(といっていたが、今考えればモダシだろうと彼は言う)がびっしりと生えているのはよく見た、それを採って食べたものだと。
 なぜこのような地域的差異が出てくるのかはよくわからない。いずれにせよ湿潤な風土の日本のこと、木々やその遺骸等々の基質になるものがあるなど条件がそろえば何らかのキノコが生えるのであり、不思議はないのだろう。
 しかし、なぜか私の生家の近くでは食用のキノコが生えるという話を聞いたことがない。もしかすると、そもそもは生えていたものが、町場に近いために多くの人が乱獲して、繁殖しなくなったのかもしれない。
 いずれにせよこの桑の木のナメコ(モダシ?)も昔話になってしまった。(16.10.07記)

(追記2)
 上述の追記を読んだAH君(今は福岡県に住んでいる)から次のようなメールが届いたので、これも記載しておく。
 「キクラゲは直径15㌢以上の太い桑の木にのみ見られたと思います。太い桑の木は大人が枝を切り落とし、地面に落ちた桑の枝から葉を摘み取るということをしていました。桑の葉っぱを摘み取ったあとの桑畑は見晴らしがよく、その桑の木にキクラゲが生るのですが、こういう桑の木には、やはりモダシがよく生えたものでした。これもおいしく食べました。」
 モダシはIZ君の故郷と同じでAH君の故郷の桑の木にも生えていたのである。なお、IZ君の故郷の桑の木に生えていたのは、IZ君のいうように、ナメコではなくやはりモダシだったようである。
 さらに翌日、またメールが届いた。
 「別の畑の桑の木には傘の表面が薄いグレーで傘の裏、軸は白い優雅なきのこが 大きな房状に3~4個、生っていました。近所のプロに聞いたら食べられると言われ、毎年美味しく食べました。きのこの名前は忘れました」
 桑畑は桑ばかりでなくさまざまなキノコも生産していたのである。(16.10.14記)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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