Entries

子どものころのキノコの記憶




               山菜・思いつくまま(20)

             ☆子どものころのキノコの記憶

 私の生まれ育った山形市は、地図で見ると東の奥羽山脈と西の出羽山地(朝日連峰)の間に挟まれた盆地にあるが、さらに縮尺の小さい地図で見ると朝日連峰のちょっと東側に白鷹丘陵という低い山波が連なっており、その東側に山形盆地が広がるという形になる。だから、その白鷹丘陵がさえぎって市の中心部から西を見ても朝日連峰が見えない。市街地の東側つまり奥羽山脈側の標高の高いところ(たとえば現在の山形県庁の建物のあるところ、かつては田畑だったが)に行けば白鷹丘陵の上に連綿とつらなる雄大な朝日連峰が見えるが、市の西側たとえば山形駅前などに行くと白鷹丘陵が邪魔して見えないのである。旧市街地(昭和の町村合併以前つまり60年以上前の市街地)の南側にあった私の生家の地域からもそうで、東側に奥羽山脈の蔵王連峰、西から南にかけての白鷹丘陵、北には街並みが見えたものだった。
 白鷹丘陵の最高峰で中央部にそびえる白鷹山は標高994㍍、生家の田畑に行くとちょうど真西に見える格好のいい山で、その頂上に雲がかかると雨になると言い伝えられていて天気を予報する山であり、別名虚空蔵山(こくぞうさん)、農業・養蚕の神様として崇められていた(註1)。田畑への行き帰りに眺め、農作業の合間に眺めて、いつか登ってみたいと思っていたのだが、この白鷹山の頂上からちょっと下がったところにある荒沼(註2)が小学6年の秋の遠足の対象となった。
 直線距離にして約8㌔、したがって往復20㌔近く歩くことになるが、とくに不満を漏らすわけでもなく、みんな喜々として歩き、また登った。当時はみんな小さくて痩せており、身長・体重は今の小学校低学年くらいではないだろうか、それでも徒歩が当たり前の時代、みんな歩き慣れていてけっこう鍛えられていたし、授業がないだけでもうれしかったからである。
 ようやく到着した沼は何か神秘的で怖そうだったが、深山の雰囲気を味わいながらの昼飯となった。飯が終わって自由行動となったとき、ふと誰かが叫んだ、キノコがあるぞと。何しろみんな町の子(農家の子も町中育ちだった)、山の中でまともに生えているキノコなど見たことがないものが多い。みんな一生懸命探し始めた。そのうちここにもあるあっちにもあったと大騒ぎとなった。色や形さまざまなキノコが生えているのである。そしてそれを採り始めるものもでてきた。
 そのうち、それが食べられるか食べられないかで大激論となった。色が毒々しくないから食べられるはずだ、縦に裂けるから大丈夫だ、いやこんなのは見たことがない、これは間違いなく食べたことがあると。先生に聞いてもわからない。そこでみんな自分の判断で採り、家に帰って食べられるかどうか判断してもらおうということになった。私も黄色や茶色、灰色の傘の数種類の食べられそうな食べたことのありそうなキノコを選んで十数本採り、おにぎりを包んできた新聞紙にくるんで、大事に持ち帰った。これが私の初めてのキノコ狩りだった。
 家に帰って祖母に見せたところ、食べられないとわかったのだろうが、笑いながら言う、野菜を仕入れに私の家に毎日通ってくる八百屋さんがよく知っているはずなので聞いてやると。期待して待った。夕方来た八百屋さんは早速見てくれたが、わずか一本だけ、食べようと思えば食べられるとの判断だった。それでは食べるわけにもいかず結局すべて廃棄、がっかりするしかなかった。
 かくして私の生まれて初めてのキノコ狩りは失敗に終わってしまった。

 もちろん生えているキノコをそれまで見たことがなかったわけではない。堆肥のなかから生えてくるキノコ、田畑に生えるキノコ等、いろいろ見てはいた。そしてそれらは食べられないことを誰からともなく聞いていた。それどころか毒キノコがあり、食べたら死んでしまうということも聞いていた。だから見つけると潰したり、毒だぞと脅かし合ったりして遊ぶ程度、普通は無視だった。
 そんなところにいろんな知識が入ってくる。ワライタケというキノコがあって、食べると笑いが止まらなくなり、狂い死にしてしまうそうだとか、ツキヨタケという夜に青白い光を出す気持ちの悪いキノコがある、昼見ると食べられるキノコと似ているので間違って食べて死ぬ人がいるとか、さらに追い打ちをかけるように挿絵などで赤地に白の水玉模様の派手派手の見ただけで毒キノコと言いたくなるような、しかも名前もすごいベニテングダケというものがあるとか、さまざまである。
 こうしたところにこんな情報も友だちから入ってくる。派手な色をしたキノコは採って食べてはならない、傘の裏にひだのないキノコは食べられない、柄が縦に裂けるキノコは食べられる等々、真剣な顔をして友だちや先輩が教えてくれる。
 そして結論はこうだ、キノコに詳しい人に連れて行ってもらえば別だが、素人がキノコを採るものではないと。
 そんなことを教えられても、キノコ採りをするような場所も近くになく、今のように栽培キノコが店頭に並んでいるわけでもなく、キノコについては前回述べたキクラゲのことからもわかるように本当に無知のまま大人になっていった。

 もちろんまったく知らないわけではない。
 子どものころの私にとってのキノコはまずシイタケだった。ただしそれは乾しシイタケで、祖母はそれを水で戻してお煮付けをよくつくったものだった。そのお煮付けに必ず入っていたのは凍み豆腐と人参で、夏はそれにサヤインゲンが、秋はサトイモが入っていた。その煮付けをつくっているときに台所から漂ってくるシイタケの匂いが大好き、またその煮汁が中に滲み透った凍み豆腐、サトイモが好きだった。ただし、ニンジンとサヤインゲンはだめだった、当時はニンジンやサヤインゲンの味や匂いがきつかったからなおのことだった。
 この乾しシイタケは近くの八百屋さんから買っていたが、それは栽培ものだったのではなかろうか。シイタケ栽培はかなり昔から始まっており、しかも生ものと違って運搬・流通は容易だったので八百屋さんで常時売っていたのだろうと思われるからである。
 しかし、生のシイタケを買いにいかされた記憶はない。それどころか食べたという記憶もない。もしかして食べたことがなかったのではなかろうか。

 秋になると、山間部の農家の方が大きなはけごを背負ってキノコを売りに来る。さまざまな種類が混じっているキノコをはけごから取り出し、目方を量って祖母の渡す竹籠に入れる。その晩はキノコがおかずだ。ゆがいて味噌汁に入れるか、大根おろしに入れて醤油をかけて食べる。
 その他にキノコを食べる機会があるのは、山村に住む親せきや知人から塩漬けにしたキノコをもらったときだ。これは塩抜きをして大根おろしに入れて食べるのだが、これも多種多様なキノコが入っていて、名前などまったくわからない。
 もしかするとそのなかにシイタケがあったかもしれない。しかしそんなことはわからない。そもそも形態、大小、色、硬軟さまざまの、まさに雑多なキノコが混じっているので、その名前などよくわからず、どんなキノコを食べたことがあるかと聞かれても答えられない。
 ただし一つだけわかるのがある。それはホウキモダシ(和名はホウキタケで亜種はたくさんあるらしい)だ。普通の傘と柄をもつキノコが多いなかで形が変わっている上に白くて(ちょっと赤いのもあったが)目立つ。それだけ箸で取って食べるとサクサクとして食感もいい。そこで名前を聞いてみるとホオキモダシだという。そういわれてみれば座敷箒(ぼうき)に似ている、でもサンゴにも似ている、そんなことで名前を覚えたのである。そしてそれを誰かに食べられないように最初に選んで取って食べたものだった。

 乾しシイタケ、ホウキモダシ以外で食べたとはっきり記憶しているキノコはナメコである。ただしそれは缶詰に入ったもので、はっきりした記憶は戦後である。前に述べたように、病気見舞いとか葬儀の供物とかにもらう缶詰の盛り篭(註3)のなかに必ずといっていいほどナメコの缶詰が入っていたのだが、それを何かの折に出して豆腐の味噌汁に入れたり、大根おろしに入れたりして食べたのである。
 そのナメコは本当に見事なほど小さく、きれいな赤褐色でつやがあり、キノコの赤ちゃんのようでかわいかった。口に入れるとぬるっとして気持ち悪いが、ジュンサイと同じくともかく珍しいもの、まともにキノコを食べているという実感もあるので、残さず食べたものだった。
 ところが宮城県南生まれの家内は子どものころナメコを食べた記憶はないという。この私と家内の相違は、前に果物缶のところで述べた(註4)ような果樹生産・缶詰工場の有無との関係からくるのではなかろうか。つまりかつて果樹・缶詰生産のなかった家内の地域ではナメコの缶詰があまり出回っていなかったからではないかと考えられるのである。

 ちょっとここで脱線させてもらう、前に60年代にナメコの缶詰加工を始めた山形県西川町の調査の話をしたが(註5)、そのとき町の方からこんな話を聞いた。
 ナメコはあの独特のぬめりから毒キノコと間違われ、関東では食べないところが多いのでナメコ缶の売り込みには大変困った。それでも東京の高級料亭では極小のナメコを使ってくれる。そこでこれは一流料亭で使われる貴重な食材だという話をしながら売り込みを図った。それから徐々に普通の料理屋や一般家庭でもナメコを食べるようになり、ナメコに対する消費者の認識が変わってきた。ここに自信をもってさらに売り込みを図っていきたい。
 こういう話なのだが、冗談話でもなさそうだし、高級料亭から一般に普及していくという販売戦略もありなのだなと調査に参加したみんなで笑いながら納得したものだった。
 いうまでもなく今は榾木栽培・菌床栽培の確立と普及で年中大量生産ができるようになり、大小さまざまのナメコが店頭に並び、日常食になってしまった。家内もときどき買ってきて豆腐とナメコの味噌汁をつくる。でも私は極小のナメコに大根おろしが好きである。ダイコンおろしの辛みとナメコの感触と醤油味(酢醤油をかける人もいるが)、これはまさにぴったり、酒もご飯も進むからである。

 子どものころのキノコの記憶はこんなものだが、キノコに関する知識だけは耳学問や新聞雑誌などで増えていった。
 「匂いマツタケ、味シメジ」などがそうだ。マツタケは本などでその姿を見たことがあるだけ直接見たことも食べたこともないし、シメジもどんなものかもよくわからなかったのだが。
 それから「マイタケ」、これを採るとうれしくて舞い踊りたくなるから舞茸と名前がついたという話も聞いた。絵や写真などで見ると形は普通のキノコよりも私の好きなホウキモダシの方に似ている、きっとその名のとおりうまいのだろうと想像し、いつか食べてみたい、できれば自分で採ってみたいなどと考えたものだった。
 「サルノコシカケ」、たしかに写真や挿絵を見れば腰をかけられそう、しかも固いとのことでなるほどよくもまあいい名前を付けたものだと感心していたが、それにしてもこれがキノコとはと信じられない思いで漢方薬屋さんの飾り窓に飾ってあった実物を見たものだった。
 外国の童話の絵本や挿絵などに出てくるキノコの色や模様は派手派手、これは絵本だからだとわかっていても、外国には毒キノコしかないのではないか、外国人はキノコは食べないのではないかと思わせたものだった。今はその外国からマツタケ等々を輸入しているのだが。

(註)
1.10年12月8日掲載・本稿第一部「☆雨たもれ―ヒデリノトキ―」(1段落)参照
2.現在はその周辺の湖沼群とともに県民の森として整備されている。
3.この缶詰の盛り篭については本稿の下記掲載記事で述べているが、そのなかに(とくに葬儀用の盛り篭のなかに)ナメコの缶詰も入っていた。
  15年12月7日掲載・本稿第八部「☆病気見舞いと果物の缶詰」(2、3段落)
4.15年12月14日掲載・本稿第八部「☆戦前戦後と今の果物の缶詰」(4、5段落)参照
5.11年7月20日掲載・本稿第二部「☆きのこ栽培の普及」(1段落)参照

          ★「追記」の記載について

 先日、高校1年の時同じクラスだったものの同級会が山形で開かれた(なぜ1年なのかの説明はここでは省略する)。数年ぶりだったが、やはり年齢、かなりのメンバーは体調が思わしくなく欠席、集まったのは10人強、かつての美少女美青年もさすがに???、それでも昔のことから今のことまで、さまざまな話でもりあがった。そのなかにはブログにどうしても書き加えておいた方がいいと思うものもあり、これから折に触れて書いていきたいと思っている。
 だが、今まで私が書いたものに付け加えて書いた方がいいものもその話のなかにあった。そこで、関係する記事の末尾にそれを追記することにした。
 しかしそれだけでは、改めてその部分を読み直す方、新しく読む方以外の方には追記したことがわからない。
 そこで、末尾に追記したかつての本稿記事の年月日とタイトルをここに紹介しておく。ぜひごらんいただきたい。
◎16年2月8日掲載・本稿第八部「☆笹の実、次年子・笹子」
◎16年9月26日掲載・本稿第八部「☆淡水生の山菜」
◎16年10月3日掲載・本稿第八部「☆乾物・採りたて・桑の木のキクラゲ」
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR