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山菜「採り」・「盗り」



               山菜・思いつくまま(21)

               ☆山菜「採り」・「盗り」

 子どものころのキノコの記憶と言えば、もう一つ千歳山での出来事がある。千歳山は、前回の記事で述べた山形市の西側に連なる出羽山地・白鷹丘陵と村山盆地を挟んで反対側・東側に位置し、峩々たる奥羽山脈を背中に背負ってそびえている山だが、標高471㍍、国道13号線と山形市街地の東側に接し、山の北側には山形県庁がある。
 ただし、私の子どもの頃の千歳山は滝山村に属し、その周囲の平地はすべて田畑だった。

 旧山形市(昭和の大合併の前)の街外れ・南端にあった私の生家から千歳山は真東に見え、私は毎日それを見て育ったのだが、小学校1年には遠足でその麓まで約2㌔、お握りなどの入ったリュックサックを背負い、水筒を肩にかけて楽しく歩いたものだった。まず小学校からその東にある県立農事試験場(註1)のわきの道を通り、生家の畑(私たちは火葬場のところの畑と呼んでいた)のわきを過ぎると急に細い道になり、桑畑が延々と広がる。そこを過ぎるころ滝山村に入り、やがて私たちが射的場(しゃてきば)と呼んでいた陸軍第百三十二連隊の実弾射撃演習場(註2)が見えてくる。その射撃の的は千歳山の裾の傾斜地で、そこは何年にもわたる射撃のためにむき出しの赤土となっていた。千歳山は全山深い緑の松の木に覆われていたので、その麓の赤土の的は非常に醜く見えた(註3)が、そこは下の本当の一部で、松の緑で全面覆われて左右対称に裾野のひろがる三角形の山は本当にきれいであり、それがどんどん前に迫ってくるのを感じながら歩いたものだった。
 山の麓に到着すると、真正面にある急な石の階段を上り、さらに山道をちょっと歩く。やがて見えてくる稲荷神社に参拝、少し遊んでから楽しみの昼飯だ。新聞紙にくるまれた海苔のお握り、経木に包まれた卵焼きと漬物をリュックから取り出す。この卵焼きは遠足などのときのための特別なおかず、めったに食べられないものなのでうれしい。ただし、おにぎりの中の梅干しが酸っぱすぎるのがつらい。水筒の水でそれを癒しながら食べる。おいしかった。楽しかった。
 2年生のときも千歳山だった。ただし、最終目的地は山の南側の小山にある公園である。その麓には平清水焼で有名になった旧滝山村平清水があるが、その焼き物をしている家などをわきに見ながら歩いたものだった。
 3年の冬には、雪中行軍(註4)で、今度は山の北にある名刹万松寺の裏側にあるスキー場(とはいっても木々のきられている傾斜地=坂と言った方がよかったが。名前は忘れてしまった)が目的地だ。みんなそれぞれ小さなそりやスキーを持ち、長靴を履いて雪道を1時間半くらい歩いて到着である。坂の長さは数十メートルくらいではなかったろうか(子どもだから高く長く見えたのかもしれないが)、そこを上の方から小さな一人乗りのそりであるいはスキーで滑る。これは戦後、小学6年のときにもあった。もちろん名前は雪中行軍ではなく冬の遠足、スキーやそりで楽しむためだった。当時のことだからスキーを持っている子どもなどほとんどおらず、私の場合は近所の同級生数人と私の生家のそり(子どもなら数人乗れる)を引っ張って持っていき、山の上の方からそこのけそこのけとばかりに滑り降り、みんなにうらやましがられたものだった。そりを引っ張って急傾斜を登るのは大変だったが。

 私の中学2年の秋のことである、仲のいい同級生と3人、この千歳山にしばらくぶりで行ってみようということになった。
 いつもの道を通って麓に到着した。そこに一軒だけぽつんとある茶屋からおいしそうな醤油の匂いがしてくる。玉こんにゃくを煮ている匂いだ。なけなしの小遣いをはたいて一串ずつ買い、熱々の玉こんにゃくを歯でちぎって頬張りながら歩いて急傾斜の階段の入り口に到着する。いよいよ登りである。誰もいない、静かである。小さいころはかなりの距離だと思ったのだが、こんなに近かったのだなどと話しているうちに稲荷神社に着いた。
 しばらくぶりだったので、のんびりまわりを見渡していたら、ちょっと離れたところに十人くらいの大人がひろげた筵に座って何か食べている。何かわからないがいい匂いがする。何をしているのだろうとのぞいていたら、まわりに立っていた大人のうちの一人が私たちのところにやってきた。そして私たちに詰問口調で言う、「何をしに来たのか」と。「遊びに来ただけだ」と答えたが、何か疑わしそうに私たちを上から下までじろじろ見る。にらめっこになったが、本当に遊びに来ただけのようだとわかったらしく、早く立ち去れとだけ言って戻っていった。しかし、私たちはなぜ詰問されなければならないのかと気分を害し、ぶつぶつ彼らの悪口を言いながら、不愉快な思いで最終目的地の万松寺の方へと左に曲がる道をたどった。

 なぜこんなことが起きたのか、それがわかったのはかなり後になってからであった。この千歳山はマツタケの採れる山であり、それを採る権利のある地域の人たちが町の人たちに料金を取ってマツタケ狩りをさせ、その料理を食べさせていたのである。そこに我々が行ったものだからマツタケを盗み採るために来たのではないかと疑われたらしい。
 これまたその後で聞いたのだが、千歳山は国有林で、地域の人たちがその雑木を切ったり、落ち葉を採ったり、マツタケを採ったりする権利を持っており、それはかなり昔からのものだったようである。
 そのころには、山にあるもの、つまり土地はもちろんのことそこに根差しているものはすべて、その所有者もしくは利用権者のものであり、たとえば山菜などは本来それ以外の人間が採ったり、持ち帰ったりしてはならないものだということは知っていた。そして山々のものは自然が作り出したものであると同時にそれを利用し、管理している人々がつくりだしたものであることも理解していた。
 たとえばこの千歳山についていえば、地域の人たちが長年にわたって薪炭用としての雑木を刈り取ったり、倒木や枝を取り除いたり、家畜の餌としての草を刈り取ったりして、つまり陽がよく入るようにして松が繁殖しやすい環境をつくり、さらに堆肥用として落ち葉や腐植を掻き取り、こうして松の山にし、マツタケが生えやすいようにしてきたものだった。マツタケは勝手に生えてくるものと思われがちだが、地域の人たちの永年にわたる山林管理がつくりだしたものでもあるのである。
 そうなれば、そこのマツタケはそうした人たちのものである。だから、山林の土地所有者と利用者が異なる場合、所有者は利用者がキノコなど山菜を採る権利を認めてきたのである。
 それだけではない。所有者は一般の人たちにも山菜を採ることを認めてきた。もちろんそれは山林原野の所有者・利用権者・地域住民等の生存権、収益権を侵害しない限り、その許す限りにおいてだが。国有林においてもそうだった。そしてそれは長年にわたり慣行として続いてきた。だから、山には誰でも自由に入って山菜を採っていいものだと多くの人が考えるようになり、所有者・利用権者のことを忘れるようになってきた。黙って採るということは本来「盗る」ということであることを忘れてしまった。中学生だったころの私たちもそんなことを考えてもいなかった。そうした認識不足からやがてさまざまな問題が引き起こされるようになってきた。

 1970年代に入ったころからである、山村でこんな話をよく聞くようになった、他県ナンバーの車が林道に入り込んできて山菜を採りつくしていくやら、交通妨害をするやら、汚していくやらで困っていると。岩手県南の山村に行ったときよく聞いたのは、最近は春秋になると宮城ナンバーの車が山奥の林道にまでやってきて山菜をみんな採っていってしまうので困るという話だった。秋田県南の山村ではこう言って笑っていた、山形の人たちが最近は村の山奥まで車できて山菜を採っていく、昔から山形の人は働き者と言われるが、最近は秋田の山にまで出稼ぎに来ていると。こんな冗談話程度で終わればいいが、山菜「採り」が山菜「盗り」になり、ついには「無断立ち入り禁止」とか「山菜採取禁止」とかの立て看板すらあちこちの山で見られるようになつた。
 こんな現象は車社会になる以前は考えられなかった。

 自家用車など普及していない時代、徒歩が普通の時代、日帰り往復してキノコなど山菜を採ろうとしてもそれほど遠くに行けなかった。山菜を探す時間、採る時間も限られた。したがって採る地域も量も限られていた。だから、採れる場所を見つけたら、来年もそこに来て採れるように、つまり効率よく採れるように、根こそぎ採ったり、芽をすべて採ったりしないようにした。同時にそうした場所は他人に教えないようにした。それどころかマツタケの生える場所などは「親子でも教えない」。せっかく見つけたところに先に行かれて採られたら、荒らされて来年生えなくなったら、無駄足になってしまうからである。簡単に来られないからなおのことだ。そんな話が出るくらいだからいずれにせよ山村住民以外の人が採る量はそれほど多くなく、その程度ならいいだろうということで山菜採りは山の地権者、利用権者に黙認されてきた。
 ところが車社会になってきた70年代ころから、これまで来なかった人たちも山に来るようになった。かなり遠くの地域からも来るようになった。また、これまで外来者があまり入れず、所有者や地元の人たちしか利用しなかった山々にも入り込んで来る。林道が整備されてきたからなおのことだ。町にある家と山までの往復の時間が大幅に減ったので、採る時間も長くなり、これまでとは比べ物にならないくらい大量に採れるようになった。車だからかなりの量になっても簡単に運べるので、採れるだけ採った。しかもこれまで考えもしなかったくらいの多くの人がである。
 そのためにいざこざも起きた。地域住民が今までのように採りに行こうと思うともう採られていてないからである。採って売り物にしていた人たちの収入は減り、それどころか自分の家で食べるものすら採れない事態になったところも出てきた。さらに根こそぎ持っていって翌年はまったく生えなくさせられる。まさに資源の枯渇だ(註5)。
 それどころか栽培しているものすら持っていくものもいる。

 ちょっとここで思い出したことがある。家内の実家の所有する小さな山の上の畑のわきに竹林がある。モウソウダケより細いマダケを植えているのだが、時々春になるとタケノコを採って持ってきてくれた。うまかった。ところがそのうちあまり届かなくなった。タケノコが盗まれ、採りに行ったときにはなくなっているので持ってこられなくなったというのである。戦中・戦後の食糧難のときでさえ盗まれなかったのに、飽食の時代の今盗まれる、おかしなものだと家内は言う。朝早く車で来て採れるだけ採って車に積んで帰るのだろう、人間というのは、車社会は困ったものだと義弟たちは言う。そうやって毎年しかも一本残らず盗られるものだから竹林は完全に枯渇して消滅し、もう今は食べられなくなってしまった。
 それでも家内の実家などは自給用だからまだいい、山菜採りやその栽培に収入を依存しているものはたまったものではない、生活に差し支える。

 さらに、他地域の山菜採りの人たちはごみをまき散らかして山を汚し、野生動物の人間社会への侵入のきっかけすらつくる。
 また、車で狭い林道をふさいで交通のじゃまをする。春秋に山村調査に行って山道を車で案内してもらうときなど、よくもまあこんな道に車が入るものだと思うくらい細い山道に山菜採りの車がずらりと並ぶ。車によってはその脇を通れないような停め方をしているものもいる。車をどかすように言おうとしても運転者が山の中に入っているから呼んでも聞こえない。仕事にならず帰らざるを得ない。
 そしてついには遭難騒ぎだ。地域に詳しい地元の人たちでさえ迷ったりする山中、ましてや地域外の人など迷子になりやすい。これまた捜索に駆り出される地元は大迷惑である。
 こんな声があちこちで聞かれるようになった。そして先に述べたような入山禁止の立て札まで立つようになった。
 もう一方で、前に述べたようなワラビ園の開園を始め、マツタケ狩りやタケノコ採りなどをさせてくれるところも増え、秩序ある山菜採りの機会づくり、林野や自然に親しめる機会づくりも進み、それを山村振興の一手段としようとするところも出てきた。

 90年過ぎころからではなかったろうか、山菜採りにきた人たちの遭難騒ぎがよく報じられるようになってきた(統計的に増えているのかどうかわからないが)。ほとんどが車で遠くから採りに来た高齢者である。このことは山菜を採る人たちの高齢化が進んできたことを示すものであろう。もしかすると山菜採りは今や高齢者だけになりつつあるのだろうか。最近のワラビ園の入場者はどうなっているだろうか。
 21世紀を10年も過ぎる中で、若い人たちの山菜離れ、山村への関心の弱まりが進み、山村の過疎化・高齢化も進んで、山菜・キノコ採りをする人が減っているという話も聞くが、それが一部地域の話だけならそれにこしたことはないのだが。
 それはまた後で触れることにしたいが、車で山菜・キノコ採りに行くのが盛んになった頃の私はそれとまったく縁がなかった。東北大を定年になるまで自家用車がわが家になかったからである。

(補記)
 この記事の最初に述べた千歳山、今は山形市に属し、その真下まで市街地となっており、山形県庁も山の北脇に移転し、かつての面影、風情はない。しかも残念ながら山の松の緑は減っている。雑木など誰も採らなくなって日当たりが悪くなったこと、マツクイムシにやられたことなどが原因と言われている。それでも、千歳山は市民のシンボルとして愛されており、松の復活運動も展開されているとのことである。
 なお、マツタケは今も若干は採れるらしく、それを採る権利は営林署での入札で決めていると聞いたが、確かではない。

(註)
1.16年5月9日掲載・本稿第八部「☆アケビの若葉・新芽」(1段落)参照
2.射的場については下記の本稿掲載記事で述べている。
  11年3月2日掲載・本稿第一部「☆蝋紙、朝鮮特需、屑鉄拾い」(2段落)
3.「チトセヤマ トシヲトッタカ ハゲガアル」という俳句がある、鉄砲の弾でえぐられた射的場の赤土のところが緑の松山・千歳山の禿のように見えるからだなどと幼いころ叔父から教わったが、友だちもみんなそれを知っていた。戦後射的場は廃止、しばらくして赤土は緑の雑木で覆われるようになったが、その場所がどこだったか、今は近くを通っても私にはわからなくなっている。

4.雪中行軍については前に述べたような気がするのだが、どこに書いたか思い出せないのでここでちょっと書いておく。雪の中で戦い、行軍できるように子どものころから訓練させ、また寒いなか戦っている満州の兵隊さんを思いやる気持ちを持たせるために、冬の雪の中遠くまで歩かせるという雪中行軍を当時は行うことになっていた。
5.下記の本稿掲載記事で述べた山形県朝日村(現・鶴岡市)などはその典型例だった。
  11年7月22日掲載・本稿第二部「☆山菜の栽培植物化」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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