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山菜と私たちの暮らし



               山菜・思いつくまま(24)

              ☆山菜と私たちの暮らし

 30年以上も前になるだろうか、当時東北大の付属農場で林学の研究教育をしていたNさんがこんな話をしてくれたことがある。
  「春、冬眠から覚めたクマは普通は食べない毒草をまず食べる。それで下痢を起こさせ、冬眠でお腹の中に溜まっていたもの、悪いものを全部出し、お腹の動きをよくしてこれからの生活にそなえるのだ」。
 これを聞いたときふと思った、私たちが苦い・えぐい・渋い山菜を春に採って食べるのは、また食べたくなるのは、そういうことと関係があるのではなかろうかと。
 冬期間生鮮野菜の少ない状態で、また雪と寒さの中でじっと過ごしてきた人間の心身が、春の山菜を食べることで解きほぐし、目覚めさせ、体調を整えて春からの活動に備えることを、要求したのではなかろうか。実際に春の山菜はそうした要求にこたえる養分を持っているとのことである。春の山菜に含まれる植物繊維は胃腸の働きをよくし、有害物質を吸収して便として排出するものであり、またビタミン、カルシウム等の微量要素は血液の流れをよくし、苦みに含まれる成分には冬の間に溜まった身体の毒素を排出する効果があると言われているようなのである。
 とは言っても春の山菜には、えぐい(私たちは「ゆごい」と言った)、苦い、渋いで食べにくいものが多い。そのひどい状態を私たちの地域では「きどい」と言ったが、これでは人間は食べられない。そこで人間はいわゆる「あく抜き」を発見する。つまり灰汁(あく)や米ぬか、水やお湯を用いて「きどい」味をもたらす成分の一定量を山菜から除去して食べられるようにしたのである。
 このように、人間の本能と知恵が春の山野草や木の芽を『山「菜」』にしたということができよう。
 秋にクリなどの木の実やキノコなどの山菜を人間が食べたくなる、採りたくなるのも同じで、冬に備えて心身が本能的に要求するからなのではなかろうか。そしてそれに対応して人間はたとえばどんぐりの灰汁抜き等の食べ方を工夫し、現在に至っているということなのだろう。
 こうした山菜や木の実、それを供給して人間の存続と発展を支えてきたのは山野であったことはいうまでもない。

 家内より一回り年上で戦中戦後の苦難を乗り越えてこられた奥さんが近所におり、家内がいろいろお世話になったのだが、あるとき、仙台には昔から伝わってきたこういう言葉があると教えてくれたという。
 『食うにこまたどき 貧乏おんつぁんどこさ えぐんだったら 山さいげ』
 これを共通語に、文字通りに、翻訳すればこうなる、
 「食うに困ったとき、貧乏な叔父さんのところに 行くのなら 山に行け」
 さらに意訳すればこうなろう。
 「暮らしに困ったとき、頼りにならない貧乏なおじさんのところに相談に行くよりも、山に行け、山には食べるもの等々たくさんあり、それを採りもしくは獲って生きていくことができるから」
 それを聞いたとき、先人はうまいことを言ったものだと感心したものだったが、同時に次のような言葉を思い出した。誰からどこで聞いたのか思い出せないのだが。
 『何かの時の 山頼み』
 これもうまいことを言うと思ったものだった。

 そうなのである、山は「食の宝庫」だった。
 山にはこれまで述べてきたような春夏の山菜、夏秋の木の実・キノコがあった。そこに行って採れば、そして食べ方を工夫すれば最低限生きていくことはできた。現に農作物が凶作のときなど山村の人々はまさにこの山の恵みを受けて生き延びてきたし、戦中・戦後の食糧難のとき山野の動植物を採り、工夫して食べることで飢えをしのいだ都市部の人もたくさんいた。こうした異常時だけではない、平時でも山はさまざまな食を供給してくれた。そして人間はそれで命をつないできた。

 いうまでもないが、山菜や木の実は人間にとってばかりでなく鳥獣の食料ともなった。山は鳥獣や昆虫、川魚にも食を供給し、その住まいを提供したのである。人間はその鳥獣や魚も獲って食べた。こうして山は人間に動物蛋白・脂肪を供給した。さらに山は栽培植物や家畜の原種を人間に提供し、また田畑の土や養分を供給し、人間の食生活を豊かにさせてきた。
 まさに山野は食の宝庫だった。

 初期の人間は、こうした山野の草木の繁殖・生育に直接的に関与することなしに食料となり得る草木の部位を取得してつまり採集して食べてきた。何万年となく続けてきたこうした行為、つまり山菜採り、キノコ狩り、木の実採りなどは人間の本性として定着してきた。もちろん、採集労働は大変だ。なかなか見つからない。藪の中、急な坂を上り下りするのも大変だ。遭難の危険もある。しかし見つけたとき、たくさん採ったときなどのうれしさはたまらない。したがって人間が春になるとワラビなど山菜が食べたくなり、秋になるとキノコや木の実が食べたくなり、それを採りに行きたくなるのは当然のことなのである。
 やがて農業生産の発達でそんなことをしなくとも生きていけるようになった。山から離れて生活もできるようになった。それでも人間は山に行って採りたくなった。また採りに行かざるを得ない時もあった。
 山の所有者・利用権者は、自分たちの利益を阻害しない限り、それを黙認してきた。山菜は山のつまり自然の力が生み出したもの、その昔はみんなで利用したものだったからだろうか。

 こうした黙認を都会の、平場の人間がもっとも利用したのは前に述べたように70年代ころではなかつたろうか。車で簡単に山菜採りに出かけられるようになったからである。飽食の時代と言われ、食卓にさまざまな内外の産物が並ぶようになったにもかかわらずである。
 山野から切り離されて町に住まざるを得なくなった人々のなかに潜んでいた習性、山野からの採取で命をつないできた大昔の人間の習性が、いや血が、車社会になって騒ぎ、山菜採りブームとなったのではなかろうか。私はそれは当然のこと、きわめて健全なことだったと思っている。もちろん、前に述べたような問題を起こさないということが前提となるが。

 しかしその逆に、その年代は山村住民の山菜採取が減少する時代でもあった。山村の収入源だった薪炭や木材の生産が化石燃料や外材の輸入で大きな打撃を受け、出稼ぎ、兼業に出ざるを得なくなり、採りに行く人が少なくなったからである。
 そうした事態から脱却すべく各地でさまざまな取り組みがなされた。その一つがキノコ栽培の導入だった。榾木やおが屑等がたくさんあり、キノコ等山菜を扱う経験があることを生かしてシイタケの榾木栽培などに若者たちががんばって取り組む姿が東北各地の山村で見られるようになった(註1)。また、ワラビやモミジガサ等の山菜の栽培にも取り組むようになった。
 山林の日陰のところに何百本の榾木が並べられているのを見かけて、並べたり運んだリする労働が大変だろうなと思いながらも、若者たちが元気に取り組んでいる姿にこちらが逆に励まされ、うれしくなったものだった。
 しかし、やがてシイタケをはじめとするキノコが大量に輸入されるようになってきた(註2)。
 また、ワラビ、ゼンマイ、タケノコ等の山菜も国内生産量の何倍も輸入されるようになってきた。

 どこの日本そば屋さんに行っても山菜そばを出すようになった。そばの上に載るワラビ、細タケノコの輪切り、ナメコ、ゼンマイ、キクラゲ等(店によって違うが)、私は喜んで食べたものだった。しかしそのほとんどが外国産、そば粉も輸入もの、醤油の原料の大豆も外国産、日本産は刻みネギ(これもカットされて輸入されてきたものかもしれないが)と水だけだった。それがわかってからは食べなくなったが、山形県西川町のそば屋や旅館で出す山菜そばは90年の寒河江ダム=月山湖完成以降すべて国産、これはもちろん喜んで食べる、本当においしい。これはお薦めである。しかしこのような例は少ない。
 そして山村の若年労働力の流出、過疎化はさらに進展してきた。
 それでも東北地方は今でも山菜の大産地である。

(註)
1.11年7月20日掲載・本稿第二部「☆きのこ栽培の普及」、
  11年7月22日掲載・本稿第二部「☆山菜の栽培植物化」参照
2.12年1月16日掲載・本稿第三部「☆つくるもののない苦しみ」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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