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戦後混乱期の子どもたち(1)

  


            ☆小学校の接収と二部授業

 アメリカ軍が来れば日本人は殺される、男はキンタマをとられるなどの噂が子どもたちの間にひろまり、どうやって逃げるかなどを真剣に考えていた一九四五(昭和二十)年八月末、アメリカ軍が山形にも進駐してきた。そして陸軍兵舎を始め市内の主要な施設を接収し、そこに駐留した。
 ほぼ同じ頃、小学校(当時はまだ国民学校だったが)が再開された。疎開していた生徒もぽつぽつと帰ってきていた。それから十日もたたなかったのではなかったろうか、九月の初め、体操の時間のため講堂に行き、級長だった私が前に出て級友たちに号令をかけて整列させていた。そのとき突然、米軍の兵士が三人、校長などといっしょに入ってきた。みんな驚いた。アメリカ人をそのとき初めて近くでまともに見たのである。背の低い日本人のような顔をした一人の兵士(彼が二世だということは後でわかった)を通して何か校長と話をしていた。
 その夕方、遊び疲れて家に帰ると何かあわただしい。どうしたのかと家族に聞くと、学校が米軍に接収されることになった、しかも今日から明日にかけて学校にあるもの、机から腰掛けまですべてを撤収して明け渡せという命令が下ったのだという。
 考えてみれば接収は当然のことであった。私たちの小学校は県庁所在地にあり、しかも鉄筋コンクリート三階建てでかなり大きく、地下室、スロープ階段(段々はなく傾斜になっている)まである当時としては超近代的で、しかも築十年ちょっとでまだまだ新しい建物であり、運動場も広く、さらには国道十三号線沿いにあるので戦略的にもいい。それで米軍の兵舎として接収されることになったのである。
 この命令を受けて、先生、父兄あげて学校の荷物の引っ越しに取り組んだ。学校の目の前にあった私の家の小屋もとりあえずの引っ越しの場所となり、学校のいろんな道具が山積みされた。子どもの机や椅子だけでも千近くあるのだから、無理ともいえる引っ越しだった。それでもわずか一日ですべて撤収して引き渡した。後で校長が、米軍からよく約束をまもったとほめられたと言っていたが、それを聞いて、日本人というのはそういうものなのだという誇らしい気持ちが半分、昨日まで鬼畜と言って戦ってきた米軍のわがままな命令に抵抗もせずに従っていることに対するわだかまりが半分、何とも複雑だった。
 こうして、せっかく戦争も終わって学校が再開されたのに、その学校がなくなってしまった。
 やがて、隣の小学校を借りて勉強を再開することになった。当然のことながら、二つの小学校の生徒が一つになるのだから教室は足りなくなる。そこで「二部授業」になった。つまり、午前中は隣の小学校の生徒の授業があり、その同じ教室で午後は私どもの学校の授業を行い、翌週はその午前午後を逆にして授業をするのである。もちろん、この二部授業は敗戦前に始まっていたのであまり驚かなかった。その学年の一学期から学校の半分が軍需工場に接収され、教室が半分になったので、二部授業が始められていたのである。ただ疎開が始まっていたので直接その影響を受けた期間は少なかった。それが今度は米軍によって実質継続されることになったのである。
 こうして二学期は隣の小学校で勉強し、その暗い木造の校舎で毎日のように教科書に墨を塗った。教科書に落書きなどしたら怒られたのに、先生の許可のもとに、というより強制的に、真っ黒の落書きをさせられたのである。軍国主義的だと指定された文章を消すのだが、そうするとその消した文章の前後のつながりがなくなり、まったく意味が通じなくなったりする場合もあった。
 三学期になると、同じ学区内にあった市立の商業学校(現在の商業高校)に移った。今度は同じ学校の学年間での二部授業である。教室が空くのを待っている間、上級生の授業をのぞいたら、軍国主義の字が板書されており、その上に×が書かれ、自由主義に○がついていた。軍国少年だった私にはそれがとっても不愉快であり、軍国日本を熱っぽく語っていた先生がわずか四、五ヶ月で×をつけているのに強い抵抗感を覚えたものだった。

 米軍は、私の生家のすぐ目の前の小学校ばかりでなく、家の前の畑の向こう五十㍍くらい先に真っ正面に見える内務省最上川上流改修事務所、前に述べた日本飛行機の工場(註1)も接収した。さらには、近くの商人地主の大きな家屋敷まで、司令官の宿舎とするということで接収した。このように、農村地帯であるにもかかわらず、私の生家のまわりには米軍の接収地が密集した(もちろん市の中心部もコンクリート造りの店や事務所、映画館等々、軍官民の差別なく数多くの土地建物が接収されていたが)。
 日飛の工場敷地からは、毎日毎日、黒い煙があがった。完成、未完成の飛行機、機械などを焼いているのである。
 焼き終わればこの土地は米軍には必要がない。この跡地をどうするかが問題となったが、接収された農家の土地返せの運動で、翌々年その大部分が返却された(註2 )。整地されていてどこが誰の土地かわからなくなっていたし、一部水田だったところはもうもとに戻せなかったので、区画を整理してすべて畑として再配分した。
 これで私の生家の経営面積もほぼもとに戻った。しかし、埋め立てられた土地をまともな畑に戻すのは大変だった。アルミニウムの溶けた塊など飛行機を燃やした燃え滓が畑の中にぼろぼろ落ちていた。それでも農家は必死になって土地を肥やし、二、三年のうちに生産力の極めて高い畑にした。

(註)
1 . 11年2月8日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」参照
2.未返却の土地の一部は、1948(昭23)年、現在の山形県立山形西高(旧第一高等女学校)の敷地となり、現在に至っている。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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