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幼い頃の私と外来野菜



                外来野菜と私、そして日本人(1)

              ☆幼い頃の私と外来野菜―トマト・アスパラ―

 子どものころ(昭和の初期、戦前戦後のころ)の私の生家は水稲、麦等の穀物に加えて多種多様の野菜を栽培していた。
 そもそも農家は自給自足を基本にしていたので多くの作物をつくっていたのだが、私の生家の場合は旧山形市の市街地のそばにあったために市民の需要に応えてさらに多種類の野菜をつくっていたのである。当時の輸送力事情からして地産地消が当たり前、消費者は野菜などは地域内から購入しないわけにはいかず、それに応えて生家でも多様な野菜を栽培し、販売していたのである。
 さらに生家の場合は東京や仙台などの大都市の需要に応える野菜も生産していた。輸送手段のあまり発達していない時代だったが、生家が山形駅まで歩いて15分くらいですぐ近くにあり、遠距離輸送のできる野菜を貨物駅までリヤカーや牛馬車に積んで持っていくことができるからだろう、白菜などを東京に共同出荷していたのである。
 そんなことで私の記憶している限りでは40種類くらいの野菜をつくっていたのではなかろうか(註1)。

 子どもの頃は、こうした野菜は昔々からつくられてきたもの、日本原産のものであると考えていた。もちろん米もそうだと思っていた。日本は「豊葦原瑞穂の国」=「稲が豊かに実り、栄える神の国」であり、世界で最も優れた国であると学校で教わっていたことからして、すべての作物は神代のころからつくられてきた日本在来のものだと思っていたのである。
 やがて、野菜については外来作物がいくつかあることを知るようになった。たとえばジャガイモである。何百年か前に東南アジアのジャガタラからオランダ船が持ってきたので「ジャガタラ芋」という名前が付き、それが詰まってジャガイモとなったのだということを何かの本で読んだのである。またカンボジアという南の国からきた瓜だからカボチャ(南瓜)と呼びまた書き、西方から伝来した瓜だから西瓜(スイカ)、胡の国から来たものだから胡瓜(キュウリ)と書くことも知った。
 このように外国から伝来した野菜があることを知ったのだが、それに対しては愛国少年だった私もとくに違和感がなく受け止めていた。何百年と栽培されてきたということは子どもの私からすると無限に遠い話、それこそ「昔々のその昔」のおとぎ話に近い世界、それだけ長くつくられているということは外来作物というよりはもはや伝統作物であるという感じがしたからなのだろう。
 そしてそう考えていいだろうと私は考えている。前章の山菜のところで何度か述べたように、わが国には農作物となり得る山野草はきわめて少なく(日本原産の野菜というのはフキ、セリ、ウド、ヤマノイモ、ミツバ、ミョウガ、ワサビ程度なのだそうだ)、私たちが今食べている野菜のほとんどは中国、中央アジア、地中海沿岸、中南米、アフリカ等々、世界の各地から導入された外来種だとのことである。私たちの先祖はそれらの外来種を改良し、日本のまた各地域の風土に適合した栽培方法を確立して、世界に誇る農業、食文化をつくりあげてきた。そうしたことからするとこうした野菜は外来作物というより伝統作物(在来作物という言い方もある)、伝統野菜というべきだと考えるのである。

 ただし、トマトは私にとって外来作物だった。名前がカタカナ=外国語であり、しかも明治以降に導入されたものと知ったからである。
 明治維新、もう150年も前、遠い遠い昔のことである。しかし、幼いころの私にとってはそれほど遠い昔のことではなかった。祖父母が生まれた時代、自分の耳で直接そのころの話を聞くことができた時代だったからである。また、私の生まれたのは明治が終わって25年目、今の幼い子どもたちからいえば昭和と平成の今との間隔、それほど遠くなかったのである。だからそのころ外国から伝わった野菜だというとまだ外来物という感じだった。
 そしていまだに消費者の中にそうした外来の食に慣れず、違和感をもつものもいた。私の祖父などもそうで、たとえばトマトは食べなかった(自分の家で栽培し、販売しているにもかかわらずである)。なお、牛肉や豚肉も食べなかった(でも鶏肉だけは食べた、これは大昔からわが国で食べていたもの、「洋食」ではなかったからなのだろう)。だから夕食がライスカレー(当時はそう呼んでいた)のときは、祖父だけおかずが魚だった(註2)。まさに祖父にとってそれらは「外来」文化だったのである。
 こんな祖父を見ているからでもあろう、しかもカタカナ語=外来語だったからだろう、私にとってトマトは伝統野菜ではなく、外来野菜だったのである。

 この外来のトマトが実は生家の夏の主要作物だった。とくに戦後は市内だけでなく東京・仙台にも移出し、私たち子どももその温床(註3)への播種や育苗、本圃への移植、支柱立て、収穫、荷造りのさいの重要な労働力であった(註4)。
 その手伝いのときいつも気になるのはトマトの茎葉の臭いだった。青臭さというのか何というのだろうか鼻を衝くあの強烈さ、他の野菜にはない独特のもの、日本にはない異国のものという感じだった(今のトマトの臭いはかなり弱くなっているが)。とくに暑い夏のトマトの収穫作業などのときは、大人の背丈まで伸びた茎から繁った葉から発する臭いが身体全体を覆い、それに慣れるまでが大変だった。真夏の太陽の光を思いっきり浴びたキウリの茎葉も臭うが、そんなものではなかった。私でさえそう感じるのだから祖父などはもっといやだったのだろう。それでも暮らしのため、もちろん祖父もトマト畑で働いたが。
 ただし、トマトの実それ自体はそれほど臭わない。味はかなり酸っぱかった。もちろん完熟すれば本当に甘い。しかし完熟は腐敗寸前を意味するわけだから柔らかすぎて運搬が困難である。それでまだ固い未熟の実(ただしてっぺんがちょっぴり赤くなってもうすぐ熟しそうなもの)を収穫して売り、運搬途中や店頭で熟するのを待つしかない。ましてや東京や仙台に出荷するものについてはそうだった(註5)。だからあまりうまくなかったはずである。しかも形は今と違って大小さまざま、上の方はなめらかな円形もしくは楕円形だが、下の方つまりへたの方はでこぼこ、まさに「不揃いのトマトたち」だった。でもそれが当たり前、消費者は誰も文句はいわず買ったが、好き嫌いは激しかったのではなかろうか。
 私もあまり好きではなかった。それでも完熟したトマトは食べた。それはうまかった。今のトマトの数倍もうまかった。

 収穫のさいに葉っぱのかげに隠れるなどして見落とし、取り残してしまったトマトがひっそりと完熟する。やがて緑の葉っぱの間から真っ赤な実がちらりとのぞく。それを潰さないようにそっと取る。
 喉が渇いているときには表面を柔らかく拭いてそのままそれに噛みつく。真夏の暑さにさらされているトマトは温かくなっているが、それでもうまい。甘さが違う、臭みもない。かみついたときの柔らかさ、瑞々しさもいい。
 あるいは家に持ち帰って食べる。収穫したトマトの箱の一番上にのせて家に運ぶ。下に置いたら柔らかくて潰れてしまう危険性があるからだ。そして井戸水で冷やして食べる。これまたたまらない、応えられない。

 店頭に並ぶ今のトマト、形は桃型で大きさはきれいにそろっており、実の上から下まできれいな赤色で見栄えはよく、本当にうまそうに見える。しかし、昔店頭に並んだトマトからするとみんな小粒である。また酸味が少なく、味は薄い。これで本当に完熟したのかと思うほど甘みが少なく、昔の完熟トマトからすると甘さは数段落ちる(註6)。
 それが不満なのだが、もう一つ、トマトが季節の野菜ではなくなってきたことにも違和感を感じる。これはトマトだけではないが、どうも気に食わない、と思いながらも一年中食べられる世の中になったことはいいことだとも思っているのだが(註7)。

 ところで、生家でのトマトの栽培は祖母の提案と父の就農がきっかけで大正末から昭和にかけて始まったのではなかったかと思われる。
 これは、日本でトマトを普通に食べるようになったのが100年ほど前つまり大正のころという時期とも合う。町中心部に野菜等のお得意さんをもっていてその需要情報を得ている祖母(註8)、若い仲間や書籍等から知識を得ている父、家父長として絶対的権限をもっていた祖父、この三人がいろりのまわりで何を作付けするか等々をよく相談していたのを記憶しているが、こうしてトマトの導入が決まったのだろう。
 そしてやはりそのころ、このトマト以外にも多くの外来野菜を導入したのではなかろうか。山形盆地における明治初期のベニバナなどの衰退、中期のハッカなどの北海道への産地移動、昭和初頭の生家の桑畑の縮小等に対応し、また県庁・連隊等の所在地としての山形市の人口増大に対応して、新しい野菜を導入せざるを得なかったからである。だからトマト以外にも外来野菜をつくっていたはずである。しかし、トマト以外の外来野菜はカタカナ名ではなかったので小さいころの私にはわからなかった。
 と思っていたのだが、後になってよくよく考えてみればカタカナ野菜をもう一つつくっていた。そしてそれを見てもいた。ただ、その名前を知らなかっただけ、食べた記憶がないだけだった。メインの作物ではなかったからでもあろうが。でも、その成長した姿は小さいころからなじみの深いものだった。

 家の裏の畑の北西の一隅にフキとウドが植えてあったと前に述べた(註9)が、夏になるとその一部に雑草としか思えないような不思議な植物が生えているのにいつのころからか気が付くようになった。子どもの私の背丈を追い越すくらいの高い細い茎からたくさんの細い枝が別れ、その先に松の葉のような葉っぱをつけた、草なのか野菜なのかわからない植物が、毎年2~3本伸びているのである。雑草ではなさそうだ。もしもそうなら抜いて捨ててしまうはずだからだ。それにしてもその草葉の形がおもしろい。金魚鉢に入っている水草(マツモ、私たちは金魚藻と呼んでいたが)と非常によく似た葉っぱをつけているのである。それで私はその植物が金魚藻なのだろうと思ってあるときその葉を採ってきて庭の池に入れてみた。そしたらぷかぷか水の上に浮かぶだけ、いつも見る水草のように下部が底の方に沈んで葉っぱが立ち上がり、広がるということがない。そのうち枯れてくる。どうもこれは金魚藻ではないらしい。では何なのだろう、見るたびにそう疑問に思ったのだが、それはそのときだけ、後は忘れてしまうので聞くこともない。そんなことを何年か繰り返しているうち、春先にその畑に筆の穂先のような芽が出ているのに気が付いた。そのうち葉っぱも枝も出さずにひょろひょろと茎が伸びてくる。しかもその茎に三角形のうろこのようなものがぽつりぽつりと交互についている。それを見て思い出したのがゴマの茎葉によくつく大きな太い毛虫だ。これは大嫌いだった。それとそっくりなのである。そんなことから見るのもいや、なるべく見ないようにしたものだったが、どうもそれが伸びて金魚草みたいな植物になるようだと気が付くのにまた何年かかかったのではなかろうか。だからといってこれは何という名の作物なのかなど聞く気もなし、どうやって食べるのかなどまったく知らず、関心をもたないで大きくなった。
 それがアスパラガスと呼ばれることを知ったのがいつだったか覚えていない。もしかして食卓に載ったことがあったのかもしれないがこれまた記憶にない。祖父はいずれにしても洋物嫌い、おかずとして出ても絶対に食べなかったはずだが、それも覚えていない。もしかして食卓に載らずいつも家に野菜を仕入れに来る八百屋さんに売っていたのかもしれない。今にして思えば、市中心部の花街の料亭などに野菜を売っていた祖母がアスパラガスの需要を知って植え、季節になると供給していたのではなかろうか。もう聞くことはできないので、推測でしかないことになるが。

 1960年ころ、私の大学卒業のころにはアスパラガスを認識し、食べていたと思われる。洋食屋(といっても貧乏学生も行けるような安い店だったが)でホワイトアスパラにマヨネーズをかけたものが出て、緑のアスパラとくらべて何てうまいんだろうと思った記憶があるからである。缶詰・瓶詰加工して味をつけてあるなどとは知らなかったものだから、普通のアスパラとは品種が違うものなのだろうと思っていた。それがそうではなく、ウドの軟白栽培と同じように土を被せて日光を遮断して栽培しただけのものであることを知ったのはいつごろだったろうか。生家ではウドのようにアスパラの軟白栽培をやっていなかったからわからなかっただけだった。とくに管理もしない、播種もしない、自然に生えてくるのを採って食べるだけだった。そんなことがわかってくるころにはグリーンアスパラも大好物になっていた。とくに採りたてのアスパラの甘みは応えられない。五月の連休の頃生家に帰ると家の前の畑から母が採ってきてそのまま茹でてマヨネーズをかけて食べさせてくれる、これはたまらなかった。もう今はその畑もなくなってしまったが。

 いうまでもなく北海道はアスパラの大産地、女満別空港から網走に向けて車で5~6分行くと広大なアスパラ畑が広がっていた。こうしたアスパラの採りたてを買って食べるのが楽しみだったが、今は網走在住の女性研究者WMさんが朝採りのアスパラを翌日届くよう航空便で送ってくれるのを楽しみに待つだけになってしまった。もちろん、店頭に並ぶ道産、長野産等のアスパラも今は運搬、保存手段の進歩でおいしく食べられるようにはなっている(外国産のアスパラが並んでいることが多くなっているのが気になるが)。
 さて、話をまた私の子どものころに戻すが、もちろん生家の栽培している外来野菜はそれだけではなかった。

(註)
1.13年7月8日掲載・本稿第六部「☆「百姓」・知恵あり暇なし」(1段落)参照
2.当時は慣習的にも法的にも家父長制であり、私の生家でいうと祖父が家長で絶対的権限をもち、家族員はすべてその言うことをきかなければならず、そうしたわがままにも当然のことながら従わなければならなかった。
3.11年3月11日掲載・本稿第一部「☆「循環型」だった農業(6段落)参照
4.11年5月27日掲載・本稿第二部「☆農村と山村の結合の解体」(1段落)、
  10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承」(1段落)参照
5.10.年12月17日掲載・  同  上  「     同   上     」、
  11年4月1日掲載・本稿第一部「☆山形発仙台行の野菜」(2段落)参照
6.11年10月3日掲載・本稿第三部「☆野菜・果実の形、色、味の変化」(4段落)参照
7.11年10月12日掲載・本稿第三部「☆食べたいときにいつでも食べられる幸せ」(5~8段落)参照
8.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆商業的農業の発展と農協」(3段落)参照
9.16年6月27日掲載・本稿第八部「☆野菜であり山菜でもあったフキ」(1段落)、
  16年7月4日掲載・ 同  上 「☆軟白栽培と山採りのウド」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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