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これが外来野菜?―玉菜、玉葱、白菜―

 


              外来野菜と私、そして日本人(2)

            ☆これが外来野菜?―玉菜、玉葱、白菜―

  「甘藍」、これはある野菜の公用語だったのだが、何と読むかわかるだろうか。そうである、カンランと読む。
 でも、子どもの頃私が育った地域ではその「甘藍」という野菜を「玉菜(たまな)」と呼んでいた。山形駅前にあった野菜市場でもその名前が通用していた。
 その形はまさしく「玉菜」だった。密生したその葉が本当に玉のように見事に大きく結球するのである。それを包丁で真っ二つに割ると瑞々しい白い葉が交互にぎっしり詰まっていて本当にきれい、それを見るのが好きだった。もちろん、食べるのも好きだった。おつゆの実からお浸し、煮物、漬物等々にして食べるなじみの深い野菜だったが、とくに私は初夏に食べる玉菜とキュウリの浅漬が好きだった。そしてこの玉菜は生家の主作物の一つであり、市場に、八百屋さんに販売していた。
 このようなことからして、また「甘藍」という中国名が統計などでの公式名称となっていることからして、その昔中国から渡ってきて長いことつくってきた伝統野菜だろうと私は思っていた。
 ところが、いつのころからか(戦後数年くらいしたころからではなかろうか)その玉菜が徐々に「キャベツ」と呼ばれるようになった。同時に生家の作付面積も増え、東京にも出荷するようになった。
 何で「玉菜」といういい名前がありながらキャベツなのかと私は不満だったが、ちょうどそのころ英語の教科書にcabbageという単語が出てきた。そしてそれは玉菜のことだという。また、玉菜はそもそもは明治期に欧米から輸入されて普及したもの、まさに外来野菜だったということもわかった。
 私にとっては生まれた頃から、つまり戦前からなじみの深い野菜であり、和食によく合う野菜だったのだが、実は戦後洋食の普及とともに普及したものなのだそうである。その普及のために、洋物・カタカナ語の好きな日本人に合わせてキャベツと名前を変えたのか、そもそも戦前作っていない、食べていない地域が多かったために新規作物としてキャベツという名前が普及するようになったのか、そしてそれを公用語とするようになったのか、よくわからない。でも私は今でも玉菜の方がいい名前だと思っている。それでは通用しなくなっているので、やむを得ずキャベツと呼んではいるが。

 このキャベツの生産は高度経済成長とともに急激に拡大していった。
 その中心をなしたのが群馬、長野などの高冷地で、その広大な面積と連作で巨大な産地を形成し、全国の市場を制覇した。やがてこうした大産地が別のことでテレビ番組をにぎわすようになった。その一つは連作障害・農薬の多投だった。もう一つは価格の暴落に対応するためにトラクターで収穫適期のキャベツを踏み潰していく光景だった。悲しかった、苦しかった。

 千切りにしたキャベツ、よく洋風料理の付け合せに使われる。今から10年位前だったろうか、誘われて洋食の全国チェーン店に入ったら「キャベツの千切り お代わり自由」というチラシが貼ってあった。野菜不足の若者などにとってこれはいいことかもしれない。しかし、おまけにただでくれるほどキャベツの価値が低くなったのか、それとも輸入もののカットキャベツだからなのかわからないが、いずれにせよ生産した農家の気持ちを考えると、ちょっと悲しかった。

 さて、玉菜が外来野菜と知ってショックを受けたと言ったが、もう一つショックだったのは玉葱(たまねぎ)が外来野菜だったことだ。これまた私にとっては小さいころからなじみの深い作物であり、食べ物だったからである。
 タマネギで思い出すのは収穫作業の手伝いである。ジャガイモのように掘らなくともいいのでずっと楽だった。半分くらい土から頭を出しているタマネギの茎を思いっきり引っ張るとそくっと抜ける。これが気持ちいい、手がちょっと臭くなるのが難点だが。
 もう一つ、その保存作業の手伝いである。販売した後に自家用として残すタマネギは、4個ずつその葉をわらで縛り、籾戸(註1)や小屋の軒下に下げてある長い横棒に振り分けて吊るし、乾燥保存しておき、必要に応じて必要な個数だけはしごをかけて棒から外して食べるのである。ジャガイモなどのように地下の室(むろ)などに入れて保存するなどということはしない(湿度や発芽のせいだろうか)。籾戸の黒い壁・藁ぶきの小屋の灰色の壁にタマネギの赤い皮、子どもにとってはものすごく高いところに見えたものだが、いまだに忘れられない光景である。
 こうして保存してあるタマネギをスライスして味噌汁の実にしたり、お煮付けに入れたりして食べる。問題はその薄切りの時に鼻をつく強烈な辛みの臭いだ。目に染みて涙が出る。子どもの頃、映画で俳優が涙を流す演技をするときにはタマネギを切るのだそうだなどと話を聞いて納得したものだった。
 しかし、煮ると本当に甘い。この甘さがあってこそのカレーライスであり、必要不可欠の品だ。また、味噌汁に入れたタマネギなどは本当に甘く、私は大好きだ。祖母はよくタマネギとジャガイモの味噌汁をつくったが、私はタマネギだけの味噌汁も好きである。ところが家内はそんな味噌汁は食べたことがない、煮物でしか食べたことがないという。でも私に言われてやって見たら甘くてうまいとほめるが、栄養的にはイモなどといっしょの方がいいと家内は言う。なお、戦中・戦後の一時期はサツマイモとタマネギの味噌汁もあったが、これは甘すぎて私はあまり好きではなかった。
 このタマネギが明治以降普及した外来種であり、北海道から栽培が始まったものだと聞いたときにはちょっと驚いた。今も北海道は大産地、私の住んだ網走の近くの北見市などにいくと一面タマネギ畑がひろがっていたが、今の品種は以前とはかなり違って辛みが少なくなっているのではなかろうか。包丁で切って涙がこぼれるというようなことはあまりなくなり、生で醤油をかけても食べられるようになったからだ。私はスライスしたタマネギにたっぷりとかつお節をふりかけ、その上に醤油をたらして食べるのが大好きである。またスライスしたサラミ系のソーセージの上にやはり薄切りにしたタマネギと貝割れ大根を散らし、それをソーセージでくるんで食べるのもいい。ともにビールのつまみには最高にいい。昔は生で食べるなど考えもつかなかったが、いい世の中になったものである。

 ところで、淡路島がタマネギの大産地であることをご存知だろうか。しかも、小区画の棚田・小面積・三毛作(一年で3種類の作物を生産することを言うが、淡路島ではイネ―タマネギ―レタスもしくはキャベツの三毛作だった)でタマネギを生産している。北海道の平坦な畑・大面積・一年一作の生産とは対照的である。また、水田二毛作が衰退しているなかで三毛作がなされていることも驚きである。さらにこうした傾斜地・小区画にあわせた機械・農具等々の開発で省力化も図っている。国土が狭く、急傾斜地の多いわが国での伝統的な集約・複合農業のあり方の一つをここで私は改めて学んだのだが、国際化に対応し得る大規模農業の育成などとばかり言って山間傾斜地農業を無視している政財界・マスコミにも学んでもらいたいものである。

 さて、このタマネギが外来野菜と聞いてショックを受けたとは言ったが、よくよく考えてみればこのきつい辛い味はやはり洋風という感じ、カレーなど洋食にも合うので外来種と言われても何となく納得できる。
 これに対してなかなか納得できなかったのは白菜だった。
 白菜は生家のまた近隣の農家の主要作物であり、自給用としても販売用としても重要な位置を占めていた。
 同時に白菜は、農家非農家を問わず、北国の冬に向けての必需品だった。各家庭で大量に漬けこみ、冬の野菜不足に備えたのである。
 生家の場合だが、お得意様から何十貫目欲しいという注文が秋早くからあり、秋遅く収穫した日に牛車に山盛り積んであちらこちらのお得意さんの家に届けて歩く(註2)。すると各家庭はそれを水道や井戸の水で洗い、日光に2~3日間当てて乾かして漬物桶に漬け込む。それは女性の仕事、寒くまた水の冷たい時期に、たくあんや青菜(せいさい)漬け、おみ付けなどもほぼ同じ時期に漬け込むので、各家庭の女性は大変だった(註3)。なお、花街の料亭のいくつかは私の生家の白菜等の大のお得意さんだった。代金徴集は祖母の役目、学校に入る前の子どもの頃はそのときによく祖母につれていかれたものだった(註4)。
 それだけではなかった。白菜は、同時に、東京などに貨車積みで送られた。これは戦前からだった。白菜をぎっしり詰めた炭スゴをリヤカーにあるいは牛車に山盛り積んで山形駅の貨物列車発着場に運んだものだった(註5)。
 こんなに白菜漬けは重要視されていたし、秋になると味噌汁の実や煮物等々でしょっちゅう食卓に出ているなじみの深い野菜だったので、私は日本の昔からの伝統的な食品だと思っていた。それがそうではない、中国から明治以降渡来した外来種であると知ったのは、大学を卒業してからだった。このことに関しては前に述べた(註6)ので省略するが、生家の主作物でその暮らしを支え、私の学資を支えたた秋の白菜、夏のトマト等々が明治以降の外来種だったこと、まだ移入されてまだ数十年くらいしか経っていない新しい作物だったことに唖然としたものだった。
 ただし、これは中国から渡来したもの、しかもそれを国内に根付かせるために多くの努力・工夫がなされたもの(註6)、他のカタカナ野菜・洋物野菜とは何か異なるような気がする。おかしなものである。

(註)
1.貯蔵・保管用の建物のこと。
  12年7月30日掲載・本稿第四部「☆重要だったネズミ退治」(1段落)参照
2.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆商業的農業の発展と農協」(2段落)参照
3.11年9月30日掲載・本稿第三部「☆消えていく伝統料理、家庭料理」(4段落)
4.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆商業的農業の発展と農協」(3段落)参照
5.炭俵のことを私たちは炭スゴと言っていた。
  10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承(1段落)、
  11年5月27日掲載・ 本稿第二部「☆農村と山村の結合の解体」(1段落)参照
6.11年10月3日掲載・本稿第三部「☆野菜・果実の形、色、味の変化」(1段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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