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戦後の三大カタカナ野菜




              外来野菜と私、そして日本人(4)

          ☆戦後の三大カタカナ野菜―ブロッコリー・ピーマン・レタス―

 戦後の混乱もおさまったころ、1950年代半ばころからではなかったろうか、生家でさまざまな新しい野菜を導入するようになった。
 そのなかでとくに珍しかったのが「花野菜」だった。葉っぱはキャベツそっくりだが結球せず、緑の葉っぱの真ん中から出た白い茎の頂上に無数の白い粒々が玉のように密集している。その玉を上から真っ二つに切ると、真ん中に白い太い茎があり、そこから白い枝が出て、それぞれの枝の上に球状に粒々がついている。色は違うけれども解剖図で見る人間の肺胞に似ていると思ったものだった。この粒々は何かと父に聞くとその一つ一つが花のつぼみだという。実際に、そのまま放置しておくと小さい黄色い花が無数に咲く。これまで見たことのない奇妙な野菜だった。花の咲く前にそのつぼみでできている玉の下の茎を切り、茹でて適当に食べやすいように切って塩胡椒で炒めたり、マヨネーズをつけたりして食べる。ちょっと癖があるが、まあ食える。もちろん自分の家で食べるために栽培しているわけではなく、販売するためなのだが、毎年つくっていたから、需要はあったのだろう。その食べ方からして外来野菜のようであるが、「花野菜」とはいい名前をつけたものだと感心したものだった。

 それから何年くらいしてだろうか、「ブロッコリー」という花野菜と姿かたちはそっくり、ただし葉っぱからつぼみまで濃い緑色をした野菜が生家でつくられるようになり、店頭にも並ぶようになった。私に言わせるとこれは緑色の花野菜、したがってたとえば「緑花野菜」と呼んでしかるべきだと思うのだが(註1)、なぜかブロッコリーと呼ばれていた。
 ちょうど同じころ生家では花野菜の栽培をなぜかやめている。同時に店頭でも花野菜はあまり見られなくなり、ブロッコリーだけになってしまっていた。理由は聞かなかったが、ブロッコリーの方が売れたのでやめたのかもしれない。
 そこで私が考えたのは、緑色の方が栄養価値が高い、身体にいいという消費者の意識から、それにブロッコリーというカタカナ・洋風の名前がいいということからブロッコリーに需要が移り、それにともない花野菜をやめざるを得なくなったのだろうということだった。後でわかったことだが、収穫後のブロッコリーの緑の変色が低温保存技術の進歩で解決され、市場への出回りが可能となったためにその生産、需要ともに高まったこともあったとのことである。
 こうしてブロッコリー一色になってしまったのだが、やがて花野菜もたまにだが棚に並ぶようになった。ただし名前が違っていた。「カリフラワー」なのである。しかしどう見ても、また食べてみても、これは花野菜である。名前を変えたようだ。なぜなのだろう。日本人の英語好き、カタカナ好きに対応してなのだろうか。ハナヤサイという和名もあるのに、どうも私には気に食わない。
 そのことについてはまた後に述べるとして、生家が戦後新しく導入した野菜の話に戻ろう。

 私たちがナンバンと呼んでいたトウガラシ、これは生家にとって自給用としても販売用としても重要な作物だった。
 いうまでもなくトウガラシは熟すと真っ赤になる。それを何本かずつわらで結んで干しておき、必要に応じてそこから取って漬物や料理に使ったり、八百屋に売ったりしていたが、子どもの頃の私にとってはその辛さからして手を触れたくないものだった。
 しかし、まだ小さくて青い未熟のトウガラシは私たち子どもも食べられた。一定の大きさになるとその未熟トウガラシを収穫し、家に出入りしている八百屋さんに毎日それを売ると同時に、祖母はその一部を売らずに残し、油で炒めて味噌と砂糖をからめたナンバン味噌をよくおかずとして出したものだった。未熟トウガラシは辛くないのである。最盛期になると毎日毎日このナンバン味噌がおかず、あきてしまったものだった。なお、未熟トウガラシを軽くあぶって醤油をつけて食べる、これはうまかった。ちょっぴり辛みが出てきているのもあるが、かえってそれがうまさを引き立てる。子どもでも食べられたので、囲炉裏もしくは火鉢においた網わたしの上にのせ、火箸でひっくりかえしながら焦げすぎないように焼く。いい匂いだった。大好きだった。でも、たまにすさまじく辛いのにぶつかるときがあり、口の中がやけどしたようになる。あわてて台所に走って行って吐きだし、水で口をすすぐ。まさにこれは不運、泣きたくなるが、がまんするより他ない。
 1950年代半ば過ぎではなかったろうか、このトウガラシの畑に二つの変化があった。

 一つはシシトウガラシの導入である。
 私たちがナンバンと呼んでいたトウガラシとその茎葉はほぼ同じなのだが、その実はスリムではなく、先っぽが尖っておらず、形は不格好だった。実の先端が獅子に似ているのでシシトウガラシと言うのだそうだ。そして辛みがほとんどないと言う。
 この辛みの少なさが受けて戦後ひろまったとのことだったが、たしかに食べやすい。味はちょっと薄いが、辛いのにぶつからず、安心して食べられるのがいい。
 今は一年中このシシトウが店頭に並んでいるが、家内は毎年春になると苗を2本買ってきて庭に植え、夏には2~3日おきに採ってきて焼き、朝ご飯のおかずにしてくれる。これはこれでいいのだが、やはり何となく物足りない。昔のまともな未熟トウガラシをいつか食べてみたいものである。

 もう一つ、ちょっと変わった実の生るトウガラシが見られるようになった。シシトウの実などとくらべものにならないくらい太っていて、不格好で、でっかい。緑色も濃く、つやつやしている。さぞかし辛いだろう。だからといって小さいうちに収穫するわけでもない。
 不思議に思って聞くと、これは「ピーマン」というものだという。辛みはほとんどなく、いろいろな料理に使うらしい、これからの売れ筋になりそうだというので導入したのだという。
 妹が料理して食べさせてくれた。たしかに辛くはない。かわりに何ともいえない青臭さ、苦さが舌に残る。トウガラシのような風味もない。
 やがて仙台の店頭でもよく見かけるようになったころ、家内は肉詰めにしたり、炒め物にしたりして食卓に出した。しかし私はあまり好きではなかった。そしたらこのピーマンが子どもたちのきらいな野菜の一つとなっていると言うではないか。かつては子どものきらいな野菜と言えばニンジンだったのだが、今はピーマンになったのだという。私も子ども並みだった。ただし、まだ幼かった私の子どもたちは食べていた。私は、緑のものを食べないとだめと家内から怒られて、やむを得ず口に入れていたが。
 ところが、このピーマンは完熟してトウガラシのように赤くなってくると甘くなる。トウガラシの場合はますます辛くなるのだが、ピーマンは逆なのである。でもそんな色のついたピーマンは売れないと廃棄処分だった。
 実はこのピーマン、明治期に導入され、その名はフランス語の「piment」からきたものと言われているらしいが、かつては「西洋トウガラシ」、「甘トウガラシ」とも呼ばれていたとのことである。それが戦後の欧米崇拝、洋食崇拝から「ピーマン」として普及していったものなのだろう。

 このピーマンの普及からかなり時間が経ってからだった(調べた見たら90年代とのこと、そのころの生家はとっくに農業から撤退していた)が 、この色付きピーマンが店頭を飾るようになった。それも赤ばかりでない、黄色、紫、オレンジと、何とも派手派手である。名前を見ると「パプリカ」と書いてある。産地を見るとオランダなどの外国である。
 しかし、私からするとどう見てもこれは完熟ピーマンだった。その通りでピーマンの一種とのことだった。こんなものを輸入して食べるならピーマンを完熟させて売ったらいいではないか、そんな風に思ったものだったが、そのうち国産のパプリカも販売されるようになった。先日大手スーパーに行ってみたら、世界各国から輸入された色とりどりのパプリカが並んでいて、国産は片隅でひっそりとしていた。それぞれ味も栄養も違うのか、料理によって使い方が違うのか、私は試したことがないのでよくわからないのだが、こんなにたくさん売れるのだろうか、よく食べる人がいるものだと感心してしまった。同時に、もしかすると私は時代遅れになったのかもしれないとも考えさせられた。でも、もしかして国産のものだけになって、しかも昔の「甘トウガラシ」の名前で売り出されたらきっと買って食べることになろう。かつての「愛国少年」、気持ちだけはいまだに健在だからである。

 私の学生時代(1950年代後半)に人気を博した映画にジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』がある。そのなかにキャベツより一回り小さい野菜を貨車に満載して輸送するシーンがあった。このシーンは映画の中で重要な位置を占めていたので非常に印象的に覚えている。しかし、農学部の学生の見方としては問題があった。同じ野菜を広大な畑に延々とつくっている、さすがアメリカ、規模が違うくらいの感想しか持たず、あの野菜が何であるかということに関心をもたなかったのである。あれがレタスだったと知ったのはそれから何十年もしてからのことだった。
 そもそもあのころレタスという名前の野菜があることも私は知らなかった。それを知ったのは60年代半ばころではなかったろうか。生家でもわずかだったがつくりはじめ、店頭でも見られるようになり、かなりの人気になっていた。キャベツよりは小さい球で非常に軽く、つまりキャベツのように身がしまっておらず、葉と葉の間がすかすか、その葉をむしってサラダや肉料理のつけ合わせにし、生で食べるのだという。名前がカタカナ、あこがれのアメリカ風でかっこがいい上に、生で食べるのだからビタミンなど破壊されず栄養がありそう、こんなことから大人気だった。
 それに対応して生産適地の高冷地などでの生産が始まり、予冷技術の導入で遠隔輸送が可能となったこともあいまって、東北でいえば岩手の高冷地などが産地として確立した。
 そして今や消費者にとってはもうなじみの野菜、不可欠の野菜となっている。

  「ちしゃ」という野菜があった。私の生家でもわずかばかりつくっていたが、いつごろからつくりはじめたのか、どのようにして食べたか、覚えていない。畑で生育しているのを見たのを覚えているだけである。なぜか知らないが、このちしゃという名前はかなり前から知っており、その漢字も知っていた(「萵苣」、もちろん読めるだけで書けないが)。だからこれはその昔中国を通じて渡ってきた野菜だろうと思っていた。
 60年代ではなかろうか、この「ちしゃ」が見られなくなってきた。そしてそのまま私の脳裏から「ちしゃ」という名は消えてしまっていた。90年代になってからだったと思う、それを突然思い出した。サニーレタスとかサラダ菜、サンチュなど新しく流行り始めた野菜を見たときのことである。とくにサニーレタスの赤茶けた葉を見たとき、どこかで見たことのある葉っぱだ、何の葉だったのだろうと思ったのである。そうだ、これは「ちしゃ」ではないか、記憶は薄れていたがどこか似ている。こんなことで「ちしゃ」をしばらくぶりで思い出したのだが、またそのまま忘れていた。
 東北大定年後、家内と買い物に歩くようになり、店頭でレタスなどをいつも見るようになるなかでまた疑問が再発した。そこで辞書で「ちしゃ」をひいてみたら、何とレタスとかサラダ菜とかは「ちしゃ」の仲間だった。私が見て知っていた「ちしゃ」は「葉ちしゃ」で結球しない種類(サニーレタスやサラダ菜、サンチュもこの仲間)であり、結球する種類のいわゆるレタスは「玉ちしゃ」と呼ばれていたものたった。そしてレタスはこうした「ちしゃ」全体の英語名なのだが、戦後日本に現在のような玉ちしゃがアメリカからレタスとして導入されたことから、玉ちしゃをレタスと呼ぶようになったということらしい。
 何と日本人はカタカナ・英語が好きなのだろう、私は「玉ちしゃ」でよかったのではないか、いい名前だと思うのだが。

 このレタス、そしてさきほど述べたブロッコリー、ピーマン、これが戦後普及した三大カタカナ野菜だと私は思っているのだが、どうなのだろうか。

 ちょっとここでお断りしておきたい。今「カタカナ野菜」という言葉を使ったが、これからも何度か使うことになるので、ここでは一般に言われていることを私なりにまとめて次のように定義しておく。
 「外国での名前がそのまま日本での名前になった野菜、原産地の外国の地名などが由来になって名前がつけられた野菜、誰かが外国語風の名前をつけた野菜で、その名前がそのままカタカナで表記され、社会的に通用しているもの」
 なお、カタカナ料理と言う言葉を使うときもあるが、これは上記の定義のなかの「野菜」という言葉を「料理」に置き換えたものと考えていただきたい。

 もう一つ、参考までに触れておきたい。
 農水省の統計書等では、稲、麦、豆、茶など一般に漢字が使用されている作物の名前はそのまま漢字で表記し、それ以外の作物名はすべてひらがなで表記することを原則とし、例外的に近年外国から導入され、外国での名前(発音)がそのままカタカナで表記されて社会的に通用している作物名はそのままカタカナで表記している(註2)。
 これに対して、日本における学術用語としての作物名=日本における作物の共通呼称=作物の和名は、すべてカタカナ表記である。
 なお、本稿では、識別・読みやすさのために、米、麦、豆、栗等の在来の作物で漢字表記されているのが普通の作物は漢字で、その他の農作物や山菜はカタカナで表記している。といってもあまり厳密なものではなく、文章の流れやそのときの気分でカナ・かな・漢字にしている場合があるので、ご了解願いたい。

(註)
1.後で知ったのだが、和名もミドリハナヤサイなのだそうである。
2.これは私なりの理解である。農水省に作物名表記の原則があるのかもしれないのだが、今更調べる気力もなく、寡聞少見を恥じるのみ、もしもご存知の方があればばお教え願いたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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