Entries

カタカナ野菜・料理の氾濫と評価




            外来野菜と私、そして日本人(7)

           ☆カタカナ野菜・料理の氾濫と評価

 60年代半ばころではなかったろうか、私の勤務する農学部の実験圃場に何か用事があって行ったときのことである。たまたま会った圃場担当職員の方からこんなことを言われた、実験で使ったセロリが余ったので要るならあげると。
 セロリ、名前は聞いたことはあった。でも見たことも食べたこともなかった。その名前からしてセリかパセリかいずれかの仲間だろう、そう思って欲しいと言ったら、持ってきてくれた。見たら私の考えていたのとはその姿かたちはまったく違っていた。しかもでっかくて、臭いもきつい。どうやって食べるのかわからないが、家内なら知っているだろうと思ってともかくもらって家に持ち帰った。ところが、家内も初めて見るもの、八百屋でも見たことがない、食べ方も知らないという。きっとお浸しにでもして食べるのだろうと考えて煮てみたら何ともいやな臭い、口の中に入れても食えたものではない。結局全部捨ててしまったが、私と家内はカタカナ野菜についてはまったくの無知だった。

 しかし世の中は変わりつつあった。戦災からの復興、国内農業生産の復活による食糧難の解決等による生活の向上、それに加えてのアメリカの食料戦略に基づくパン食普及運動等の展開(註)、国民のアメリカ的生活様式へのあこがれなどのなかで、トンカツやコロッケ、カレー等の戦前の「洋食」が復活したばかりでなく、スープ、シチュー、フライ、サラダ、ハンバーグ、スパゲッティ、マカロニ、ケチャップ、マヨネーズ等々のカタカナ料理が学校給食に出され、さらに庶民の家庭の食卓を新たに彩るようになり、バター、チーズ、ハム、ソーセージは日常語となる等々、いわゆる「食の洋風化」が進みつつあったのである。
 それに対応して栽培面積が拡大され、あるいは新たに外国から導入されて栽培され、さらには輸入されて普及していったのがカタカナ野菜だった。
 このカタカナ料理・野菜の導入、「食の洋風化」の先端をきったのは、まず町の飲食店であり、婦人雑誌やラジオ・テレビの料理番組、学校給食だった。

 私より一つ年下の妹が小学校6年の時(1951年)こんなことを言っていた、学校給食に真っ赤でどろっしたものが深皿に入って出される、そのまま飲めというのだが、まずくて飲めないと。後でわかったのだが、それはトマトケチャップだった。当時は部分給食、つまり主食を出さないおかずのみの給食だった。ケチャップは自分の持って行ったご飯の弁当のおかずとしての位置づけなのである。アメリカからの輸入品でそもそもまずい味の上にご飯のおかずになどなるわけがない。残すと怒られるので無理やり喉に流し込む、それは苦行だと言うのである。こんなことでケチャップを知ったのだが、学校給食はこうしたカタカナ料理を教える場でもあった。

 世の中が落ち着いたころ(まだ食料不足ではあったが、まあまあ食べられるようになった50年代半ば過ぎ)、お腹の足しにはならない野菜も出回るようになった。パセリやクレソンがそうだった。
 家内が職場の先輩に連れられて初めてトンカツ屋さんに入ったとき、出てきたトンカツの皿の上にキャベツといっしょにパセリが載っていたことを鮮明に覚えているという。その前にパセリを見たり、名前を聞いたりしたことがあったかどうか記憶にないとのことである。
 私の場合はちょっと違った。同じく50年代後半、トンカツ屋に生まれて初めて友だちと入ってみたとき、ウェイトレスさんの持ってきた皿の上には千切りにしたキャベツが盛られ、その上に小さくちぎったクレソンがちょっぴり載っていた。パセリではなかった。家内とは行った店が違ったからなのだろう。私はそこで生まれて初めてクレソンを見たのだが、単なる飾りで食べるものではないと思っていた。もちろんその名前は当時わからず、かなり後になって知ったものだった(註1)。
 パセリは、トンカツのような「洋食」ではなく、和食でお目にかかった。研究室の忘年会などで行く料理屋の刺身の皿に載っていた。ダイコンの千切りがつけられ、そのわきに鮮やかな濃緑色のパセリがちょっぴり彩りを添えていたのである。西洋野菜は和食にも利用されていたのである。
 でも私にはそれが初めてではなかった。見てはいた。幼いころ父に連れて行ってもらった洋食屋で出された料理についていた記憶があるのである。もちろんはっきりしたものではないが。

 そんなことからパセリとクレソンを知り、あるいは思い出していたのだが、ともに明治時代に伝わったもの、それが戦後復活し、なじみの深いものとなりつつあった。
 一方、セロリは戦後急速に普及したもののようである。そしてそれを私が知ったころは、前回まで書いたようなさまざまなカタカナ野菜の栽培の急激な拡大、野菜の名前のカタカナへの改名・命名が進みつつあった。
 やがて、このパセリとクレソン、そしてセロリは香味野菜と言われるもの、洋食には欠かせないものと言われていることを知った。家内の口からもバジルとかミントとかレモングラス、シナモンとかよくわからない名前(わかるのはミントがハッカであることくらい)が出るようになってきた。
 また、ズッキーニ、チコリ、リーフレタス等々、名前を聞いただけでは野菜なのか果実なのか(リーフレタスはレタスの一種なのだろうと想像はできるが)、どのようにして食べるのかがよくわからないものがスーパー等の食品コーナーの棚を飾るようになった。
 そのころではなかったろうか、新聞の料理にかかわる欄やテレビの料理番組を見ると私には理解できないカタカナがててくるようになった。従来の日本語のように漢字で表現してくれると、たとえばピクルスは洋風漬物、マスタードとは洋辛子(この言葉は使われているようだが)というように日本語に翻訳して名前をつけてくれるとどんなものか想像ができるのだが、外国語名をそのままカタカナにするので、それはそもそも何なのか、料理の名前なのか野菜の名前なのか、どのようなものかがイメージとして浮かばない。日本語は表音文字と表意文字との組み合わせからなるという優位性をなぜ生かさないのかがわからない
 もちろん日本語に翻訳するのが難しいものもあろう。それは表音文字・カタカナで表すのもやむを得ないが。
 しかし、最近はやりの『スイーツ』、これは必要不可欠のカタカナ語だとはどうしても思えない。

 いつごろからだったのだろうか、スイーツなる言葉を新聞、雑誌、テレビ等でよく見かけるようになったのは。最初何のことを言っているのかわからなかった。注意して見聞きしていると、どうもお菓子のことらしい。どんな新しいお菓子を言うのかと思ったら甘いお菓子のこと全般を言っているようである。とするとこれは「sweetスイート=甘い」という英語と関係があり、もしかすると英語圏では甘い菓子をスイーツsweetsと呼んでおり、それをマスコミが使うようになったのだろう、それにしても何でそんなスイーツなどという言葉を使うのだろう、洋菓子でいいのではないかなどと考えたものだった。ところがデザートの果物までもスイーツと呼んでいるようである。それどころか甘い和菓子までスイーツなのだそうだ。もう一方で和菓子を「和スイーツ」と呼んでいるのもある。そうすると洋菓子は洋スイーツなのだろうか。
 そこで疑問になってきた。そもそもスイーツという英語はあるのか、どういう意味なのか。私には高校英語程度のしかも一九五〇年代の知識しかないのでわからないが、辞書で見る限り名詞では甘味、甘さという意味はあっても甘いお菓子と言う意味はないし、甘い果物という意味もない。とするとこれは日本での造語なのか。と思って調べて見たら、どうもそのようである。
 そこでまた疑問が生まれてきた、そもそもスイーツなる造語をつくって使う必要性、必然性はあるのだろうかと。どうして和菓子を和スイーツなどと呼ばなければならないのだろうか。和菓子、洋菓子、食後の果物・菓子(あるいはすでに定着している「デザート」という言葉でもよかう)、こうしたものすべて合わせて「甘いもの」でどうしてだめなだろうか。
 しかしそれでは甘いもの好きの若い女性の気持ちをつかめない、欧米へのあこがれの強い、新しい流行の好きな彼女たちの気持ちをつかむためにはやはり英語・カタカナ語が一番よい、こういうことから洋菓子業界や広告業界、マスコミがスイーツというカタカナ語を使うようになり、それが普及したということなのだろう。
 ファッション、美容などを先頭にカタカナ語が氾濫しているのもそういうことからなのだろう。年寄りで男の私などはそういう言葉を聞いてもちんぷんかんぷん(こんな言葉はもう古いのかな)、何が何だかさっぱりわからないのだが。
 でも、もうそろそろアメリカ崇拝・外国崇拝、英語・カタカナ語崇拝から、とくに戦後植えつけられた植民地意識から脱却してもいいのではなかろうか。そうした意識が植え付けられた明治維新から150年、敗戦から70年も経っているのだ。
 そんな意識からだろう、『スイーツ(笑)』というインターネットスラングが流行っているのだそうだ。「菓子やデザートなどの甘味を『スイーツ』と勿体ぶって呼称するような日本人女性」のことを揶揄や皮肉の意味を込めて呼ぶ言葉(註2)なのだそうである。
 こんな批判が出てくる時代になってきたこと、私にはうれしい。

 もちろん私は、さきにも述べたように、カタカナ語が、外国出自のものがみんなだめなどと言っているわけではない。外国出自でカタカナ語を用いている野菜・果実や食品についても同様だ。前にも述べたように、そもそも日本の野生植物のなかに野菜となり得るものが少なかったのだから、外国出自の、外国語名の野菜があるのは当然である。
 そしてまたこうした外国の新しいもの、いいものを積極的に受け容れよう、取り入れようというのは日本人の進取の精神を示している。日本人の外国もの好き、新し物好き、知的好奇心の強さ、いいものは積極的に受け入れる進取の精神、食・健康に対するあくなき探求心は誇るべきものでもある。そしてそれを自らのものとしていく能力、明治期に導入した白菜・玉葱・玉菜(キャベツ)、戦後普及した三大カタカナ野菜等々を日本人の食卓に、また和食に完全に溶け込ませ、日本的洋食まで作り出し、さらに中国料理や韓国料理なども積極的に取り入れ、最近もチンゲンサイやサンチュなどの野菜を新たに導入して栽培する等々して食卓を豊かにしてきたこと、そしてそれが日本の社会経済、文化を発展させてきたこと、これも誇っていいことであろう。

 問題は、こうした日本人の進取の精神が戦後のアメリカ化によって、また農畜産物輸入の拡大によってゆがめられ、食生活が豊かどころかおかしくなり、健康問題を引き起こすなどしていることだ。また日本の農業・農村や食の伝統・文化が衰退させられてもいるのではないかということだ。そして作物の在来種や地域固有種、かつての食べ物を流行おくれとして捨てられては来なかったか。
 もちろん、在来種や地域固有種の栽培には手間がかかる、収量が低い、土地を選ぶ、気象を選ぶ等々の問題があり、伝統食にも手間がかかる、必ずしもうまくはない等々の問題があろう。しかし、そうした問題は近年の科学技術の進歩やさまざまな工夫で解決できるはずである。
 日本の多様な豊かな土、林野、四季の移ろう気象等々の自然を、その中で培われてきた日本の農業、食文化のさまざまな伝統を守りつつ、諸外国の良さをまた科学技術の発展を取り入れ、農業、食文化の豊かな発展を図っていく必要があるのではなかろうか。
 2015年、「和食・日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録された。これを機会に、日本人すべてが改めてこの意義を確認し、豊かな食文化をまもりながらさらに発展させ、その基礎となる農林漁業、関連産業をまもり育てていく必要があろう。

 もう一つ心配なことがある。そのうち、カタカナ作物名の表記はカタカナではなくて英語=アルファベットにせよ、たとえばキャベツはcabbage、レタスはlettuceと表記せよなどということにならないかということだ。
 グローバル化・国際化に対応するために小学校からいや幼稚園から英語を教えよ、英語は英語で教えよ、英語を母国語とする教師に英語を教えさせよ、大学の講義は英語でやれ等々を強要して日本の米英語植民地化を進めている今の政府と大企業のこと、いつかそんなことを言い始めるかもしれない(註3)。
 そしてそのうち、日本語ではなくて英語を日本の公用語、共通語にしようなどということになってくるのではなかろうか。国内の企業のなかに社内では日本語禁止、日本人同士でも英語で話せなどというところもでてきているとのこと、冗談話でなくなるかもしれない。アメリカ化こそが、何でもアメリカといっしょにやることがいいことだという政治経済の支配下で生きてきた戦後の日本人のこと、それを素直に受け入れ、英語を公用語、共通語にするようになってしまうのではなかろうか。それは愛国心を強要する今の政治と矛盾するのだが、その愛国心は韓国や中国などアジア・アフリカ諸国に向けられ、アメリカの一部隊としての日本の軍隊を強化する方向に向けられることになろう。
 もちろん、そんなことは私の杞憂でしかないだろう。大昔の中国語を利用して日本独特の表音・表意文字をつくりだし、さらにさまざまな他国の言葉を取り入れて自らのものにするなどして日本語を豊かにしてきた日本人のこと、そんなことを許すわけがないだろうからだ。

(註)
1.クレソンについては下記の本稿掲載記事で述べているので参照されたい。
  16年8月29日掲載・本稿第八部「☆山菜でなかった自生クレソンと山ワサビ」(1~2段落)
2.スイーツ(笑)ーWikipedia
3.英語をめぐる諸問題に関しては下記の本稿掲載記事で触れているので参照されたい。
  12年3月28日掲載・本稿第三部「☆自国に誇りをもたない風潮」、
  14年4月21日掲載・本稿第六部「☆忠君愛国から忠米愛国へ」(2段落)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR