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補記・ヒョウを食べる会と子どもたちの餅、菓子もらい行事

 


              補 記

       ★「山形『貧乏食』=ヒョウを食べる会」の報告

 前回の記事でたまたまヒョウ(和名スベリヒユだが、以下こう呼ばせてもらう)の話が出たので、ついでといっては何だが、16年6月13日掲載の本稿記事(註1)に書いた「山形『貧乏食』=ヒョウを食べる会」を先日開催したことについて報告させていただきたい。
 この話の発端をつくったのは私の後輩に当たる研究者ST君なのだが、繰り返しになるけれどもその経過について若干説明しておきたい。
 ST君はヒョウを食べない山陰地方出身であり、また現在住んでいる山形の鶴岡もヒョウを食べない地域である。そのためにヒョウを食べたことがなかった。それでは山形内陸の農業・食べ物について語る資格はないと言われてしまう。そこで私は彼に言った、真夏に山形内陸部の農家に行ってヒョウのお浸しをご馳走になるように(何しろ畑の雑草なので八百屋では売っていないし、食堂でも出さないからである)、もしもそのチャンスがなければ乾燥させたヒョウ(山形ではそれを「ヒョウ干し」と一般に呼んでいる)を農協の直売店から買って(生のヒョウは売っていないが、「ヒョウ干し」は年中売っているはずである)わが家に送るように、そしたらヒョウ干しのお浸しやお煮付けを食べさせてやると。
 これに対して彼から、今度内陸の直売所に行ったときに買って送る、そして日を決めて「山形『貧乏食』の勉強にお伺いしたい」との返事が来た。
 それから2ヶ月後の真夏のことである。ST君からこんな連絡があった。
 「研究室でヒョウの話をしたところ、山形内陸出身で社会人入学した大学院生が畑から採ったばかりのヒョウと『ヒョウ干し』との二種類を持ってきてくれた。早速学生たちといっしょに生のヒョウをゆでてお浸しにし、辛子醤油をつけて食べてみた。うまかった、みんなの評価も高かった。ただしヒョウ干しについては料理ができないので、仙台のお宅におじゃまして『山形「貧乏食」勉強会』を秋田在住の研究者仲間NK君といっしょに開き、奥さんに料理をしてもらって食べることにしたい」。
 それで、年末に忘年会を兼ねてこの「勉強会=ヒョウを食べる会」をST君、NK君と開催することにした。それを聞きつけた山形の高畠在住のNH君(東北大での教え子でNK君の同期生)、東京在住のOA君(東京農大での教え子で、ST・NK君とも友人となっている)から参加申し入れがあり、合計四人(家内と私を除く)となった。
 会の前日、家内は、ST君から以前に届けてもらっていたカラカラに乾燥したヒョウを戻す作業にとりかかった。まず大きな鍋にたっぷり入れた水にヒョウ干しを入れてゆでる。沸騰したら火を止め、一晩そのまま浸けておく。
 翌日つまり会の当日、その水を何回か取り換えてヒョウをよく水にさらす。お昼過ぎ、水から上げ、水気を切って、3~4㌢程度に刻む。その一部はそのままお浸しとし、辛子醤油で食べるためにとっておく。残りには油揚げを刻んで入れ、醤油でお煮付けにした。
 夕方、全員そろったところで、このお浸し、煮付けの二種類を食卓に出した。高畠在住のNH君以外の3人は初体験、ともに「うまい」、「雑草とは思えない」と言う。山形内陸人のNH君と私は、『貧乏食』ではあるかもしれないが、「悪食」、「ゲテモノ食い」ではないだろう、料亭で出してもおかしくないはずだと威張る。三人ともそれに納得した。そしてスマホで改めてスベリヒユの写真を見ながら感心している。しかし、その実物、生えているのを見たことがないという。日本全国、湿地や日陰地以外のどこにでも自生しているはずなのだが。それはそれとして、ようやくこれで山形の食文化の一つを理解してもらえた。全部平らげてカラになったみんなの皿を見ながら、思わず私は顔をほころばせてしまった。
 たった一つ、欠陥がある。お煮付けをつくるときに台所が臭うことである。我慢できる臭いではあるが、さらした水を三回くらい取り換え、その後に煮付けることでかなり防げる。なお生のヒョウは煮ても臭わないので心配ない。
 こうした伝統的な雑草食も山形・沖縄以外の全国に広げてもらいたいものである。

 話はずれるが、ちょっとだけ付け加えさせてもらいたい。ヒョウを食べるとき、家内がハタハタの味噌漬けを焼いて食卓に出した。秋田の男鹿の農家ONさんからたくさん贈っていただいたハタハタの一部を味噌漬けにして冷蔵庫に保管しておいたのである。これもみんな生まれて初めてとのことで、うまいうまいとあっという間に平らげてしまった。ハタハタは秋田をはじめとする東北・日本海の名物、何かのおりにぜひ賞味してもらいたいものである。


     ★子どもたちの餅・菓子もらい行事―チャセゴ等々―

 もう一つ、これまたついでと言っては何だが、本稿の15年7月5日掲載記事など(註2)で触れた私たちが子どもの頃に楽しんだ餅や菓子をもらい歩く行事のことで先日新しいことがわかったので、ここに補足しておきたい。

 昨年の10月の末、本稿に何回か登場してもらっている畜産研究者KT君と行きつけの小さな居酒屋に行ったときのことである。 時間が早かったのでまだ客は誰もおらず、亭主とおかみがテレビを見ていた。テレビは渋谷かどこかでのハロウィーンの仮装のシーンを映していた。
 止まり木に座って乾杯してから私が言った、この日本のハロウィーンなる行事は本当に苦々しい、とくに洋風の仮装・扮装をした幼稚園児が保母さんに付き添われて父母の家々を回り、お菓子のようなものをもらい歩く、この姿を東京で見たとき、クリスチャンでもないのに、なぜこんな外国の真似をしなければならないのかと頭にきたもんだと。
 さらに付け加えた、その昔は、子どもたちがいっしょに地域内の家々をまわって餅やお菓子などをもらい歩く行事が季節、名称、由縁等々いろいろだが全国各地にあり、私の故郷や家内の故郷でもやっていたもの(註2)、やりたかったらそういうものを復活させればいいではないかと。

 それを聞いていた亭主のAさんがカウンター越しにこう言う、その通りだ、自分も小さいころ小正月(1月14日)の夜にみんなで唄を歌いながら近所の家々をまわって餅やお菓子をもらって歩いたものだと。しかもそのときの唄まで覚えていた。歌うと言っても、みんなで声をそろえ、調子を合わせ、大きな声を張り上げて囃すだけだったとのことだが。
  「ぜにもち かねもち たからもち
   おたくの だんなさん おかねもち
   おいなして くない」(註3)
 それを聞いていたKT君が、亡くなったお祖父さんがその話をしてくれたことがある、自分の子どものころはなかったが唄は覚えている、と言う。
 そして玄関口に来ると最初にみんなで声をあわせてこう言った、
  「アキの方から チャセゴに来すた」(註4)
 そうするとその家の人が玄関を開ける、子供たちが外で歌う、終わるとお菓子をくれる、それから隣の家に行き、また歌うのだとのことである。
 Aさんもその通り、この行事の名前はその『チャセゴ』だったとうなづく。
 Aさんの住んでいたのは仙台市南部の長町、KT君のお祖父さんは中心部の通町、ということは仙台市内の各所でこのチャセゴの行事がやられていたことを示すものだろう。

 Aさんによると、子どもの数は十数人、最高年齢は十歳くらい、青年団の人が一人付き添って誘導してくれたとのことである。灯りはみんなそれぞれ自分でつくった、灯りを手で持つための細長い棒・板を10㌢四方の板の真ん中に釘で打ち付け、その釘に蝋燭を挿して火をつけ、その火が消えないように周りを白い紙で覆ったものだったと言う。
 なお、KT君の聞いた通町の場合は、たまにお菓子をくれない家があると、
  「ぜになし かねなし たからなし
   こっつのだんなさん すわっぴり」(註5)
 と囃したというが、長町ではみんなお菓子をくれたのでAさんにはそんな歌を歌った記憶はないとのことである。

 もう少し調べてみようとパソコンで検索してみたら、チャセゴは仙台の町内(まちうち)ばかりでなく郊外(仙台市に最近合併した町村)の各地でなされていた、また同じような行事が名前や内容を若干変えながら岩手から宮城にかけてなされていたとのことだった(註6)。
 そもそも子どもは神の使い、それが招運来福、五穀豊穣、家内安全、厄払い等を祈って年の初めに各家をまわる、それに各家が感謝して菓子や餅を捧げて御礼するという行事らしい。それはまた子どもたちの遊び、楽しみでもあった。

 ところで仙台のこのチャセゴ、戦後十年くらい経ったころから廃れてしまったという。「子どもに『物乞い』のまねをさせるのは教育上よろしくない」という意見が広まったことかららしい。教育ママのハシリだったのか、戦後流行った『お富さん』(註7)の唄を禁止するような教育界のせいなのかよくわからないが、ハロウィーンだって物乞い、親が喜んでアメリカの「物乞い」の真似をさせる時代となったようである。アメリカの物乞いは教育上よいが、日本の物乞いは、昔からの行事はだめだということなのか、ともに親バカ、困ったものである。もちろん、チャセゴが残っている地域もわずかだがあるが。
 このようにしてチャセゴはあちこちでなくなったが、かわりに盛大になったのは同じく1月14日に行われる神社の「どんと祭」だ。このどんと祭も昔からの行事、大事にしたいとはもちろん思うが、チャセゴのような小正月の地域の小さな行事はなくなって神社の大規模な儲け行事だけが残る、今の世の中を反映しているようだ。

 パソコンで検索していたとき、仙台市西部の芋沢・大竹地区に伝わるチャセゴのことが書いてあった(註8)。これはちょっと変わっていて、厄年に当たったた大人が厄払いのために顔を手拭いなどで隠して夜中に家々を回って歩き、お供え物(餅やみかんなど)をもらう行事だったとのことだった。
 それに続けてこんなことが書いてあった、70歳代の人の記憶していたこの行事を、子どもたちの行事として数年前に復活させた、小正月に子どもたちがお面をかぶって顔を隠し、みんなで火の用心の掛け声で家々を回り、お菓子などをもらって歩くことにしたと。
 ハロウィーンなどよりも昔の行事の復活をとの私の考えをすでに実施しているところがあった。本当にうれしい。他の地域でもぜひ考えてもらいたいものだ。

 これに関連してちょっとだけ私の思い出を述べさせていただきたい。
 前にも述べたように(註2)、私の生家のある地域(旧山形市の南部)でこうした行事をしたのはお盆のころだった。夜、子どもたちが灯りをもって集まり、近所の家々をまわって玄関先で歌を歌い、お菓子などをもらって歩くのである。
 楽しかった、スリルがあった。いつも日中いっしょに遊んでいるのだから何ということはないはずなのだが、夜に外に出てみんなと遊ぶなどと言うことが日常なかったからである。
 何しろ昭和10年代のこと、街灯はきわめて少なく、家々の電灯の数も少なく、車もほとんど通らず、家の外は真っ暗だった。懐中電灯などある家は少なく、遊ぶことはもちろん外に出ることなど怖くてできなかった。だから暗くなったら寝て明るくなったら起きる暮らしだった。それが灯りを持って、子どもだけで集まって遊べる。いつも遊び、よく知っているところなのに暗くなると昼とはまったく違う。しかも持っている灯りは暗く、まわりはよく見えない。何か怖い、まさに冒険、わくわくする。しかもお菓子がもらえるのだ。当時はお菓子などそうそう食べられないころ、ましてやうれしい。心はわくわく、楽しくて楽しくてしかたがなかった。だから夏になるのが待ち遠しくてたまらなかった。
 しかし戦争になって中止れた。蝋燭もお菓子もなくなるころ、ましてや家の電燈の光を空襲警戒のために外に漏れないようにさせられた時代、そんなことはやっていられない、やるなということになったのだろう。そしてそれは戦後の混乱の中で復活しないで終わった。
 だから行事の名前も、あの時みんなで歌った歌も忘れてしまった。私が小学校に入ったころは行事はなくなっていたからである。かなり前のことになるが、妹が覚えていて歌ってくれた。なつかしかった。ところが今は思い出せない。それで先日妹に聞いたら忘れてしまったという。もう70年以上も前のこと、やむをえないのだが、あのとき採譜しておけばよかつたと思っても後の祭りである。誰か記録してくれている人、記憶している人はいないだろうか。消えてしまうのは悲しい、もったいない。
 もう一つ、灯りのことがある。手作りのもので、さきほどAさんの言った手作りの灯りとほぼ同じだったと思うが、うろ覚えである。またそれを何と呼んだかも忘れてしまった。
 それからもう一種類の灯りがあった。これも子どもたちの手作りだが、平たい缶詰の空き缶の底に手で持つための細長い板もしくは棒を釘で打ち付け、空き缶のなかに飛び出してきたその釘の先に蝋燭を立て、火をつけて灯りとした(つくり方はうろ覚えでしかないのだが)。これを私たちはカンテラと呼んだ。カンテラとはそもそも携帯用のランプのことだが、それと似ていること、しかも缶詰のカンを使っていることから子どもたちが名付けたものなのだろう。なお、このカンテラは缶詰が普及し始めた大正期以降につくられるようになったものと思われる。
 こんなことを記憶している人はいるだろうか。おられるなら教えてもらいたいものだ。
 私の記憶もどんどん薄れていく。これまたちょっと寂しい。

(註)
1.16年6月13日掲載・本稿第八部「☆山形内陸のヒョウ、スズギ」(3段落)参照
2.11年1月26日掲載・本稿第一部「☆季節の行事、祭り」(3段落)、
  15年7月5日掲載・本稿第七部「☆節分と大豆、南京豆」(2段落)参照
3.「銭持ち 金持ち 宝持ち
   お宅の旦那さん お金持ち
   お祝いなすって ください」
4.「アキ」とはその年の神様のいる方角、つまりもっともいい方角(=恵方、毎年変わる)のことで、その「アキの方角から自分たちが福の神として厄払い=チャセゴにやってきました」ということのようである。
5.「銭なし 金なし 宝なし
   こちらの旦那さん けちんぼう」

6.下記の本稿記事に書いた家内の実家の地域の行事「かせどり」もその一種のようである。
  15年7月5日掲載・本稿第七部「☆節分と大豆、南京豆」(2段落)
7.「粋な黒塀 見越しの松に……」(歌・春日八郎、作詞:山崎正、作曲:渡久地政信、1954年)、軽快なメロディーで大ヒット、子どもたちも楽しそうに大きな声で唄っていた。しかしその歌詞が悪い(今見ればたいしたことはなく、子どもたちも意味もわからず調子がいいから歌っていただけなのだが)とかでAさんやKT君の小学校では歌うのを禁止されたとのことである。
8.http://blogs.yahoo.co.jp/cityfarmer007/51690234.html参照

        (第八部をこれで終了とし、次回以降は第九部として執筆掲載する)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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