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戦後混乱期の子どもたち(2)

  

            ☆ゲブミーチューインガム

 敗戦から一、二ヶ月たち、米軍を何の抵抗もなく受け入れ終わったころ、子どもたちの間に噂が広がった。アメリカ兵からチューインガムをもらったと言うのである。そして「ゲブミーチューインガム」と言うとくれるという。それを聞いた子どもたちは、ジープが国道を走ると、ゲブミーチューインガムとみんなで叫ながらその後を走って追いかけるようになった。何台かのうちの一台のアメリカ兵がガムを道路にばらまく。子どもたちは争ってそれを拾った。
 なぜかわからないけれどもそのうちなかなかくれなくなった。そしたら次のような噂が流れた。「ゲブミーチューインガム」は発音が間違いなのでくれないんだ、「ギブミーチューインガム」と言わないとわからないんだというのである。
 親から乞食みたいなことはするなときつく禁止されていた私は、その通りだとは思いつつも、やはりガムは食べたいと思いながらジープの後ろを追いかける子どもたちを見ていた。チューインガムなどというものにお目にかからなくなってからもう数年にもなり、どんな味かも忘れていたからである。
 腹の減っている子どもたち、好奇心旺盛な子どもたちは米軍兵舎から出てくるゴミもあさった。大人のなかにも飢えからやむを得ずそうするものもいた。もちろん見つかれば捕まった。しかし子どもたちはその監視の目をかいくぐって珍しいものをいろいろ拾ってきた。
 ある日、いっしょに遊んでいた友だちのうちの一人が、ゴミを燃やしているところに忍び込み、何か食べ物らしいものを拾ってきた。銀紙に包まれ、その上の方が破れている。銀紙の中には、白い粒々が入っている焦げ茶色の板状をしたものが包まれていた。半分焼けこげていてまだ暖かく、ともかくいい匂いがする。みんなでそれを少しずつ分けて食べてみた。私もあまりのいい匂いの誘惑に負けて一口もらって食べた。こんなに甘くておいしいものが世の中にあったのかと思うほどおいしかった。初めて食べるはずなのにその味はとても懐かしい。いつか出会ったことのある味である。幼いころに食べたことのある味、戦争で完全に忘れさせられていた味であった。二、三日たってようやく思い出した。チョコレートだった。でも白い粒々はわからなかった。これは、かなり後でわかったのだが、ピーナッツだった。要するにピーナッツ入りのチョコレートだったのである。
 こんなおいしいものをちょっとだけ食べてポンとゴミに捨てる。アメリカは何という国だろう。ともかく驚きだった。

 雪の降った朝は静かである。あらゆる音が雪に吸収されるからである。ところが、雪の降った冬休みのある朝、すごくうるさかった。大騒ぎをする声が米軍に接収された小学校から聞こえてくる。アメリカ兵が雪を見て大騒ぎしているのである。一晩のうちに二十㌢降ったくらいで騒ぐのを馬鹿にして、ざまあみろという感じで聞いていた。
 十時ころであろうか、学校の前の国道から轟音が聞こえてくる。何だろうと思って飛び出して行ってみると、ブルドーザーが雪かきをしている。ブルドーザー(もちろんそのときは名前もわからない)を見るのは生まれて初めてだった。巨大な車体が見る見るうちに雪をはねのけていく。国道のコンクリートが見えてくる。真冬に雪のない道路が見られるなんて考えたこともなかった。雪は踏み固めるものであり、雪かきしてもそれは人の通れる程度に雪をはねのけるだけだった。その上をそりが牛馬にひかれて通る。雪には抵抗しないで(というよりできなかったのだが)、雪と妥協して生きてきた。その当たり前のことが否定されたのである。そしてそれを可能にしたのが機械であった。
 このようなブルドーザーを、戦争だけではなく、日常の生活にも活用している。これを目の当たりにしたとき、日本が負けたのは当たり前だとしみじみ思った。

 ラジオは『真相はこうだ』とか『真相箱』などの番組で、また新聞は極東軍事裁判のニュースなどで、われわれが想像もしなかった戦争の真実を明らかにしていった。
 見たくなかった。聞きたくなかった。目をつむり、耳にふたをしたかった。ここで報道されるようなことを日本人がするわけはないと思いたかった。こうした心理に、日本軍の残虐非道などというのは誇張・歪曲だ、自虐史観から脱け出して日本人の誇りを取り戻せというような最近の論調が入り込むのだろう。それはそれとして、ともかく日本がいかに悪いことをしたかという事実が徐々に明らかにされていった。

 これまでは日本こそ世界中で最高の国だった。しかしそこから一挙に日本はもっともだめな国、もっとも遅れた国となった。
 これまでの自動車のイメージとはまったく違った、見たこともなかったジープがものすごいスピードで走り回る。背が高く、太った大きなアメリカ兵が勝利者として街を大股でわが物顔で歩く。
 それに迎合するように、『ジープは走る』という歌(註1)が町に流れた。この軽快な曲は覚えているが、歌詞の一部がどうしても思い出せない。
   「スマートな アメリカ兵の 
    胸のすくよな ハンドルさばき
    ‐‐‐‐?‐‐‐‐風切って走る
    ハロー ハロー
    ジープは走る ジープは走る」
 これを聞いたとき、何と情けないんだろうと思った。つい先日まであれほど鬼畜米英と叫んでいたのに、一転してアメリカ兵を賛美する、それどころかお世辞をいって媚びる。なぜこんなに簡単に気持ちを切り替えられるのだろうか。
 ラジオからは中山晋平作曲の『証誠寺の狸囃子』のメロディに乗せた『カム・カム・エブリボディ』という歌(註2)が毎夕流れ、これからは英会話だとみんなはしゃぎ出す。つい最近まで敵性語だったのにである。恥ずかしくないのだろうか。屈辱を感じないのだろうか。

 米軍に接収された敷地のまわりのあちこちに「その筋の命令により日本人は立入禁止」という立て札が立てられた。そのうち何かにつけて「その筋の命令」という言葉が使われるようになった。「その筋」とはよくわからないがどうも米軍のことらしい。何となくおもしろくて子どもたちは「その筋の命令だぞ」などと冗談に使い、笑い合ったものだった。
 やがて「その筋の命令により立小便禁止」などの立て札があちこちに立ち、公衆便所の中に「その筋の命令」による便所使用に関する何項目かの通達を書いたチラシが貼られたりするようになった。そのチラシのなかには「ズボンのボタンは閉めてから外に出ること」などという一項目があった(他の項目は忘れてしまった)。
 何でここまで米軍に言われなければならないのか、米兵だって家の前の畑で立ち小便していったぞ、日本人をそんなに劣っていると見ているのか、あんな程度のことを役所等はどうして平気で「その筋」からの通達として出すのか(今の政府も「その筋」の言うことを良く聞いて農産物の輸入自由化を進めたり、沖縄に基地をおかせたりしているが、これはそのとき以来の伝統なのだろうか)、子どもながら頭に来たものだった。

 敗戦の年の冬、同級生の一人が米軍の接収地のなかに忍び込み、ゴミ捨て場から何か拾おうとして捕まり、警察から注意されたという事件があった。
 担任の女の先生は教室の教壇のところに彼を呼び出して立たせ、みんなの前で大きな声で叱った。
 「それでもお前は日本人か、恥を知れ」。
 はっとした。敗戦の日から先生方はもちろんみんな「日本人」という言葉を使わなくなっていた。あれほど毎日、大日本、神国日本と誉め称えていたのにである。しばらくぶりで日本人という言葉を聞いた。そして考えた。私もアメリカに対する劣等感にだけかられ、日本人としての誇りを忘れつつあったのではなかったかと。

(註)
1.この歌の作詞作曲者名はわからない。
2.その歌詞は次のように私たち子どもの耳に残った。
 「カムカムエブリボディ ハウドゥユウドゥエンド ハウワアユウ  ウォンチュウ ヘブサムキャンディ ワンエンドトゥーエンドスリーフォーファイブ  レットオールスインガハッピーソング スイングタララーラーラー」

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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