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農家の家長の退職と私たち世代




            続々・わびしい日々是好日(3)

         ☆農家の家長の定年・退職と私たち世代

  「農家」の労働力は家長と家督、その配偶者を基幹とするのが典型だが、いうまでもなくその間には雇用・被雇用の関係はない。だから、一定の年齢になれば自動的に雇用関係を解消する、つまり仕事をやめる、やめてもらうなどという定年退職制はなかった。
 だから、その昔の家族員は、年齢や作目等による労働時間や従事する作業の種類の違いはあったが、一生働いた。死ぬまで、身体が動かなくなる年齢まで働いた。当時の手労働に基礎をおいた低い生産力段階でリタイアなどできる労力的経済的ゆとりなどなかったからであったが。要するに働けなくなった時が労働者としての「退職」だった。
 ただし、農家の「家長」と言う職務は、労働者としての「退職」以前に退くのが普通だった。年齢はとくに決まっておらず、「家督」に家長の職務を継承した時が退職だった。それも二回に分けて行われた(地域により異なるところがあるし、家庭の事情にもよるが)。

 ちょっとここで家長と家督という言葉から説明しておこう。昔は普通に使われていた言葉だが、今はあまり使われなくなっているからである。
 まず家長であるが、家の代表者として家族を統括し、家産の管理や家業・家事の経営に権限と責任をもってあたり、家の先祖の祭祀(さいし)を主宰し、その役割を家督(次代の家長)に継承させる任務を有するもの、ということになろう。
 家督は、家長の役割を承継するもので、一般的には家長の長男である(註1)。
 これは士農工商すべての家に共通していたのであるが、以下の例は平均的な農家の場合である。

 まず、家長が50歳を過ぎ、家督が生産面での知識と経験を十分に蓄積したころ(大体30歳ころ)、まず生産・販売等にかかわる決定権・指揮権ならびに生産・販売面での家の対外的な代表者の座を家督に譲る。つまり生産面での管理職、生産指揮管理者の職をやめるのである。これが家長の一度目の退職である。
 しかし働くのはやめない。ただし、前と違って家督つまり息子の言うことを聞きながら働く。家長はまだ50代、十分に一人前として働けるし、当時の手労働段階では必要不可欠、労働者としては退職などするわけにはいかないのである。

 二度目は60歳を過ぎたころである。かつての60歳はそろそろ心身ともに衰えが来るころ、もう一方で家督夫婦が生産生活両面で、家庭の内外で一人前として認められるころであるが、そのころに、前に引き渡した生産指揮管理権に加えて、家の代表権・統率権、資産の管理・決定権、先祖の祭祀の主宰権等々、経営・生活全般にわたる権限を家督に移譲する。当然実印、預貯金、現金、登記書等々も引き渡す。それに付随して家事に関しては前家長の妻=姑が嫁にその権限を全面移譲する。このような行為を私の生家の地域では「身上(しんしよう)を譲る」、あるいは「財布を渡す」と言っていた。

 これで完全に退職(=家長としてのすべての職務からの退職=家の継承の完了)なのだが、先にも述べたように働くのはやめない。ただし、「老いては子にしたがえ」、経営権を移譲した家督の指示にしたがって働く。
 もちろん、もう年齢(とし)なので昔のようには働けない。でもまだ働けるし、当時の技術段階では働いてもらわなければ家として困るということもある。手労働が中心で手間がかかり、季節の推移に追われて朝から晩まで働いてようやく生計をまかなわなければならないころ、家に遊んでいるものなどおく余裕はなかったからだ。もちろん、農閑期に湯治など旅行に出かけたり、趣味に興じたりもしたが。
 やがて当時の厳しい労働の結果としての神経痛だとか腰痛だとかで身体があまりいうことをきかなくなってくる。それに応じて畑の草取り、縄ない、屋敷畑の管理や庭仕事等々、本当に軽い手伝い仕事となってくる。
 このように年齢に応じて仕事の質量を変えながらではあったが一定の役割を果たした。それが健康維持の手段ともなり、家のために役に立っているという自信と誇りとなり、生きがいともなった。
 そして当時の農家の年寄りの一般的な死因だった脳溢血でぽっくり逝く。
 これが家長夫婦にとってもっとも理想的なライフサイクルだった。

 このシステムはそれなりの合理性をもっていた。若いうちは経験と熟練を要する農業の見習いとして働き、基幹的労働力として成長するとそれにふさわしい役職につき、やがて内外ともに認められるようになってくると管理職となる、一定の年齢になるとその管理職を辞して家督=後継者にその権限を全面的に譲り、その新たな経営管理者の指示のもとに自分の体力・能力の許す限り働いて家の維持発展に尽くし、その一生を終えるのである。
 しかし、そううまくいかない場合もあった。

 まず、前家長夫婦がうまくぽっくり逝かず、半身不随で生き延びたり、認知症になったりした場合である。家族ぐるみで働かなければ生産もうまくいかず、生計も成り立たない時代、介護をする労力的ゆとりはなく、健康保険も、年金も、介護の仕組みもない時代だったからだ。夫婦のどちらかが何とか介護できるのであればまだいいが、片方が亡くなっていたり、ともに動けなくなっていたりするとどうしようもなかった。みんなが野良で働いている間は裏の部屋に寝たきりのままにしておいたり、監禁したりする以外になかった。
 もちろん、こうした問題は農家だけではなく、町場でもよく見られたものだった。これは本当に悲惨だった。この問題は、戦後の国民皆保険制度の確立、医療や介護の施設・制度の整備の進展等々でかなり解決されてきてはいるが。

 もう一つの問題は退職の時期である。家長の二回の退職時の年齢はとくに決まっておらず、家督の年齢や成長の度合い、地域内外での評価、家長自身の心身状況、社会や地域の情勢等々を見てということだった。だから家長の判断ということになり、それはそれなりに合理性があるのだが、主観的、恣意的になる場合もあり、そのために家庭内で争いが起きることもあった。親がなかなか身上を譲らない、身上を渡したといいながらいつまでも家督のやることに口を出す、財布を渡したとたん家督が飲み歩くようになった等々で親子げんかが起き、私の父などはその仲裁のためによく近くの家に呼び出されていた。

 この後者の問題を解決するために推奨されたのが、家族経営協定だった。家族員の労働条件や経営継承についてのルールを家族の話し合いで決め、それを協定として明文化しておき、それにしたがい経営を移譲していくというものである。
 これは1960年代から始まったのであるが、やがてその実践に取り組めるような農家はどんどん少なくなってきた。生産指揮管理者、経営管理者としての職を譲る対象となる家督=後継者が農外に流出してしまい、協定を結びたくとも結べなくなったのはもちろんのこと、職を譲って退職をしたくともできなくなってしまったのである。労働面での退職などましてやできるわけはない。それでも機械化・省力化が進んでいるので何とかこなすことができ、経営を維持することはできる。しかし、高齢化するにしたがい、働けなくなってくる。それでも家督(もちろん次三男でも娘夫婦でもいいのだが)が家に帰ってきて経営を継承してくれない。継承しても農業で食っていくのが難しくなっているし、農業の将来展望もないから当然のことである。そこで高齢化した家長は農地を誰かに預かってもらい、もしも預かってくれる人がいなければ耕作を放棄して、自分たち高齢者でもやれる程度の面積に縮小して働くことになる。しかし、やがて働けなくなってくる。病気で家事もできなくなる。そこで息子に迎えに来てもらい、その家に住むか、施設に入ることになる。そのときがようやく退職ということになる。

 昭和一桁世代と昭和10年代生まれの世代(私もその世代なのだが)までは、農家の長男は家督として当然のこととして家を継いだ。そして先に述べたような先祖代々引き継いできたライフサイクルを送るものと考えて過ごしてきた。それも戦後民主化によってかつてとはレベルの違う生活を送りながら子どもたちに農地を引き渡していけるものと考えてきた。
 しかしそれは夢でしかなかった。家督をはじめとする子どもたちは家を継がなかった。孫ももちろんだ。
 私たち世代の農家の方がよく言っていた、農業は私の世代で終わりだと。まさにその通り、私たち世代は家督に家を、農業を継承させることなくその生を終える世代、かつての農業・農家の最後の世代となったようである。

 戦後、私たちの上の世代は農地改革等の民主化で半封建的な地主制のくびきから解放され、新しい時代の農業を担うべく自家の農業を引き継いだ。そしてそれを私たち世代に引き継いだ。ところが私たち世代は、その農業を次世代に移譲することなく経営を閉じなければならなくなった。先祖が汗みどろになって維持して子孫に引き継いできた土地を自分たちの代で手放し、あるいは荒らさなければならない(註2)、私たちの世代は何と罪深い世代なのだろう。そんなことを考えると本当に苦しい。

 もちろん、こうした状況に対応しながら、新しい道を切り開いて農業を発展させ、次の世代にそれを引き継いでいる人たちもいる。これらの経営の分析、評価、今後の方向性等々については、私よりも後の世代の研究者、たとえば東北でいえば本稿に何度か登場してもらったIF、ST、NK君たちにお願いするが、いずれにせよ農業軽視の政治経済の下ではまだまだ若い世代の農業者は不足、現状では耕作放棄が進むしかない。

 先日しばらくぶりで家内と二人で仙台駅に行ってみた。駅は大きく増改築され、新しい大きな商業施設が誕生しており、迷子になりそうになった。ついでに、新しくできた地下鉄線の東の終点に行ってみたら、かつての田園地帯で宅地開発がどんどん進んでいた。
 それを見たときにふと考えた。この新しい商業施設の建築とともに農村部の町村の商店街のシャッターがまた閉まるのだろうな、農山漁村の家の灯がまた一つ、また一つと消えていくのだろうなと。
 私たち世代は戦前、戦中、戦後の辛かった時代を見、戦後復興期の苦しくも何か希望のあった時代を見、高度経済成長期を懸命に働いて生き、バブル崩壊、農山村の衰退を見てきた。まさに激動だった。そして今、かなりの人が、先祖に申し訳ない、都会に出た子どもたちに迷惑をかけたくない、こんなことを思いながら、腰を曲げ曲げわずかな土地を耕している。こんな風になるとは思いもよらなかった。
 もうすぐ私たち世代はみんなあの世に行くことになるが、できれば何か明るいきざしを見てからにしたい、しかし現状ではきっと無理だろう、みんなそんなことを考えて気持ちの晴れない日々を送っているのではなかろうか。私もその一人だ。

 いろいろと思いはあるし、問題はかかえているけれども、ただ一つ、農村部の私たち世代の強いところは、働けなくなるぎりぎりのところまで野菜をつくったり、山菜を採ったり、漬物を漬けたりしていること、そしてそれができることだ。自家用が中心であるが、余ったものは隣近所や親戚にあげたり、直売所があればそこで売ってもらったりもする。その過程で多くの人と接触をする。こうしたことは生きがいともなり、健康の維持にもつながる。農家には、農村部にはそうしたことのできる条件がある。もしもこうしたことがなく、家にじっとしているだけなら、心身ともに不健全になり、老化が早く進み、家族や福祉施設にいろいろと迷惑をかけることになろう。もちろんいつかはそういうことになるのだが、迷惑をかける期間は短くてすむ。
 やはり、働くこと、生きがいをもつことは人間であるかぎり必要なことなのだ。年寄りが働くことで老害を与えるようでは困るが、働ける限り、働く意思がある限り、働けるようにすること、これも高齢化社会のあり方として考える必要があるのではなかろうか。もちろんそれが年金削減や医療費の引き上げ、社会福祉政策の後退に結びつけられるようでは困るのだが(註3)。

(註)
1.10年12月25日掲載・本稿第一部「☆いえの相続」(1段落)参照
2.12年9月26日掲載・本稿第四部「☆『帰らんちゃよか』」(1~3段落)参照
3.農業の継承に関する問題については下記の著書で論じているので参照されたい。
  酒井惇一・柳村俊介・伊藤房雄・斎藤和佐著「農業の継承と参入」(『全集 世界の食料 世界の農村』第5巻)、農文協刊、1998年
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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