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「毎日が日曜日」と時の感覚




            続々・わびしい日々是好日(5)

            ☆「毎日が日曜日」と時の感覚

 子どもの頃、時間は無限に長かった。一日一日が長かった。一時間、一分が長かった。大人になるなんて、遠い遠い未来のこと、今が永遠に続くのではないかとさえ思われた。
 しかし、小学、中学となるにしたがって時間は徐々に短くなっていった。20歳も過ぎたらあっという間に過ぎていくようになった。病気で苦しいときとか何か嫌なことのある時だけ無限に長く感じるが。時がたつに従って、年齢を重ねるにつれて、感じる時間は短くなるようである。その計算から考えると、年を取って定年にでもなったなら、時はますます早く過ぎていくだろう。そしてアッという間に時の感覚のない世界、無の世界に帰っていくことになるのだろう。
 定年になるまではそんな風に考えていた。

 何十年も忙しい忙しい、時間がない時間がないと言いながら過ごしてきているうちに、とうとう定年退職の時期を迎えた。その時期も引っ越し、片付け等々で連日連夜忙しく過ごした。やがてそれも若干落ち着いたころである。ふと考えた。
 これから何も仕事がなくなる。学校に行く義務もない幼い子ども時代と同じになる。と言って、昔のように近所の子どもたちと家の周りで朝から晩まで遊びほうけるわけにもいかない。かつて忙しくてできなかった旅行とか登山でもしてゆっくり楽しめばいいかもしれないが、そんな金はないし、体力も衰えている。そうなると何もすることはない。当然のことながら時間を持て余す。退屈して時間は長く感じる。
 年を取れば時間は短くなるといったが、その逆ではないか。時間は長くなるのではないか。

 たまたま私の場合は、前にも述べたように、これまでの仕事や資料の整理とその記録(それが本稿そしてブログとつながるのだが)のために二階の書斎に朝早く出勤、夕方階下の家内のところに帰るという毎日の生活(註1)なので、まったく退屈していない。だから時間を長く感じることはほとんどない。だからといって、昔のように時間に追われているわけでないので、時間を短く感じることもない(死ぬまでもう時間がないという意味での短さは感じるが)。
 こうして短くもあり長くもある時を過ごして今にいたっているが、時の感覚はやはり衰えてきているようである。

 私が完全に職を退き、「毎日が日曜日」になってから、この3月でちょうど満11年になる。
 当然のことながら、その間の手帳の予定表はガラガラである。かつては何曜日に講義、演習、会議がある、原稿の締め切りは何日まで、何月何日から何日まで調査などで出張、何日に講演を頼まれている等々でびっしり土日まで予定が書きこまれていた。忘れたり、間違ったりしたら大変、それを見ながら動いていた(註2)。だから「時」に関してはきわめて敏感、神経質だった。
 定年後はそんなことを考えなくていい。時間に追われる、いや手帳に追われるなどということはなくなった。気忙しいなどという感覚もなくなってきた。もちろん手帳は毎年買ってはいるが、惰性で買っているだけ、もう特に必要はない。本当にほっとした。
 しかし、「毎日が日曜日」となると、曜日の感覚が弱くなる、いや月日の感覚、時の流れの感覚がなくなるのではなかろうか。仕事をやめた当初、そんなことが気になった。

 ところが、曜日に関しては気にする必要がなかった。これを忘れるわけにはいかなくなったからだ。
 定年後、ゴミ出しを私の仕事にしたからである。何曜日が町内の生ゴミ出しで、何曜日が資源ゴミか、これを忘れないようにしておかないと大変なことになる。溜まってしまったら処置なしとなる。二人暮らしとはいえ、ゴミはけっこう溜まる。とくに生ゴミの場合は量が少なくとも腐敗するので忘れないようにしなければだめである。
 それからもう一つ、買い物も曜日を決めて家内と二人で出かけることにしたこともある。その昔はそんなことをしなくともよかった。すぐ近くに八百屋、魚屋、肉屋、豆腐屋、雑貨屋、酒屋さん等々があったので、思いついたとき必要なときに買い物かごをぶらさげていつでも買いに行けたからである。しかし網走から帰ってきたとき、つまり私が定年退職したときには米屋さん以外なくなってしまっていた。ちょうどそのころ、近くに新たに生協のストアができた。徒歩で20分で行けるし、市営バスは10分に一本通るし、もちろん網走から持ち帰ってきた自家用車も使える。しかしかつてのように毎日のように買い物に行くわけにはいかない。それなりの距離があるし、帰りの急な上り坂が大変、ましてや雨や雪だと困るからだ。何日かに一度買い物に行くことにしなければならない。そうすると荷物が多くなり、持ち運びが大変である。そこで、週3回、曜日を決めて家内の運転する車で私もいっしょに生協に買い物に行くことにした。網走でもときどきそうしていたし、私の時間的余裕はあるからである。
 だから曜日はほとんど間違えない(5年前から曜日を決めて本稿をブログで公開してからはなおのことである、これから書けなくなる可能性はあるが)。たまにゴミ出しの日を忘れたりすることはあるが、家内が注意してくれるので、まずは大丈夫である。

 そうは言ってもやはり曜日感覚は弱くなっている。
 土日休日と勤務の曜日の差がなくなり、講義等の定期的な曜日を考えることもなくなったからである。前にも書いたような(註1)二階書斎への通勤パターンは買い物でちょっと一時間くらい狂うだけで土日なしで毎日同じ繰り返し(何か特別の用事がないかぎり)、きわめて規則正しいのだから、当然そうなる。
 面白い連続ドラマやかつての火サス、シャボン玉ホリディのようなものもなくなってきた。あればその放映曜日が気になるのだが、この頃は数も少なくなっているし、あまりおもしろいものもないので楽しみの曜日は少なくなっており、このことも曜日認識の弱まりの一因となっているようである。

 ときどき家内から聞かれる、「今日は何日だっけ」、すぐに答えが出てこない、曜日だけで日常は差し支えないからだ。カレンダーを見て曜日と重ね合わせながら考え、たしか今日は何日のはずだと思って答える。不安になると、今朝来た新聞の日付を確かめる。
 このように日にちの認識は曜日よりもさらに弱くなった。原稿の締め切り日とか定期試験や出張の月日とか、夏休みや冬・春休みの期日とか、とくに気にしなくともよくなったからである。
 きわめて規則正しい繰り返しの日常、連続性のありすぎる単調な日々を送っているから、曜日、日にちの感覚が薄れるのだろう。
 しかし、月だけはさすがに間違えることはない。
 毎月1日、家中のカレンダーをめくるのが私の仕事になっているからもあるだろうが、季節が、それによって変わる庭の木々や二階から眺める周囲の山などの景色が、庭や花壇の手入れが、雪かきなどの仕事が、変化した月を忘れさせないのではないかと思う。
 毎日書斎と階下との往復と言ったが、春から秋にかけては天気のいいときに庭や植木や草花の手入れ等で庭に出る。そのうちの半分くらいは家内の指示であり、それが半日もかかったり、水かけだけで10分くらいで終わったり、いろいろだが、それも季節と月を強く認識させてくれる。
 数年前までは季節を感じては家内の車で近くの山野にでかけて季節感を満喫したものだったが、もうそれも少なくなった。
 そのかわりに、クーラーを入れる入れない、暖房をつけるつけないの家内とのけんかで季節、月の変化を感じるようになった。家内は昔から暑がり寒がり、それが年をとるにしたがい激しくなってきた。でも私はそれほど感じない。家内よりも暑さ寒さの厳しい地域で育ったので我慢できること、とくにかつての痩せが近年脂肪がついてきたので寒さにがまんできるようになった(逆に家内は痩せてきた)ことからではなかろうか。夏は暑いのは当たり前、クーラーをつけてヒートアイランドにさせるべきではない、扇風機でいいだろう、寒いときはこたつに入って横になってろなどと思ってしまうのである。でも、熱中症になったり、風邪をひいたりしては困るので、妥協してできるだけ家内の言うことを聞くようにはしているが。

 年の変化、これは孫たちが来ていっしょに暮れから正月にかけての祝いや行事をするし、年号は年賀状書きで頭に叩き込まれるので、さすがに忘れることはない。

 こんな時の感覚で過ごしてきたのだが、3~4年前ころからだろうか、日にちの感覚がちょっとおかしくなってきた。一週間が長く感じられ、つい最近のことがいつだったか、何日前だったかがすぐに出てこなかったり、間違ったりするようになったのである。たとえば昨日のことを一昨日のことだと思ってしまったりする。それも私だけではない、家内もそうなのである。二人同時にとうとう時の感覚がおかしくなったのか、ボケが始まったのかとも考えてみた。いろいろ考えた末、これは昼寝のせいではないかという結論に達した。
 昼ご飯を食べてからごろっと横になって朝読み残した新聞を読んでいるうち眠くなって寝てしまう癖が数年前からついてきた。10分くらい昼寝すると健康にいいのだそうだが、最近はそれが30分くらいになってしまった。日にちの感覚がちょっと狂ってきたのはそのせいではなかろうか。一日が昼寝で中断されるために二日たったように頭のどこかが思うようなのである。30分以上寝ると、頭の中の日にちが新しい日にリセットされるのだろうか、新しい日だ、新しい朝がきたのだと考えるような身体の仕組みになっているのではなかろうか。だから一週間が長く感じられ、曜日を間違えたり、日にちを間違えたりするようなのである。でも、あれっ、おかしいとすぐに気がつくし、この頃は慣れてしまったのでそう不便はない。どうも人間の時の感覚というのは、地球の自転ばかりでなく、腹時計とか睡眠とかのよく言われる体内時計によっても影響されるようである。などとつまらないことを考えてしまうのだが、もしかしてこれも閑(ひま)だから、やはり時間をもてあましているのかもしれない。

(註)
1.14年5月12日掲載・本稿第六部「☆濡れ落ち葉、庭仕事、買い物」参照
2.14年6月23日掲載・本稿第六部「☆忘れ物、落し物、探し物の不安」(4段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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