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戦後混乱期の子どもたち(3)

  


            ☆まずかった学校給食

 一九四六(昭和二十一)年四月八日、私の五年生の始業式が間借りしていた商業学校で行われた。ちょうどその日の夕方に母が死んだのであるが(註1)、それから一年間、この商業学校に通った。通学時間は長くなったが、二部授業は解消された。しかし一学期は教科書がなかった。夏頃になって、細かい字が裏表びっしり書かれている新聞紙大の紙が算数の教科書として配られ、それを家に持ち帰って十六枚(だったと思う)に切り、糸で閉じて使うことになった。その後にも同じような形式で他の教科書が配られた。

 商業学校の近くには桑畑がたくさんあった。帰り道にくわご(桑の実)をとって食べた頃のことだから、六月の末頃と思う。毎週一回(だったと思う)給食が出ることになった。ただし弁当持参、給食はおつゆだけだということで、ジュラルミン(註2)でできた深さ六~七㌢、直径十五㌢くらいの大きさのお椀を渡された。しかし農村部の小学校では給食はなかった。山形市は県庁所在地、つまり都市なので食糧不足のはずだということで開始されたのではないかと思う。
 楽しみだった。戦前にも何人かの子どもたちが給食を食べており、それを食べてみたかったからである。
 一、二年生のころ、同じクラスにやせ細った同級生がいた。彼はいつも昼食時になるといなくなる。そしてまた戻ってくる。何でだかわからなかった。何かのときにわかった。小使室でご飯を食べていたのである。彼以外にも他の学年の二~三人が食べていた。いつも昼休み近くになると小使室からいい匂いがしていたが、それがこの昼食だったのである。これを給食というのだということもわかってきた。そして貧困家庭の児童、欠食児童にだけ出すのだという(註3)。それでもあのいい匂いが忘れられない。それが食べられる。しかも東京では米軍の放出物資で給食を始めたというニュースも流れており、食べたことのないアメリカのものが食べられるかもしれない。すごく期待した。
 いよいよ給食の日、バケツに入ったおつゆが教室に運ばれてきた。醤油の色をしたおつゆにニンジンとかジャガイモとかが入っている。細かく刻んだ肉を固めたような得体のしれないものも入っている。何の油かわからないが、表面に浮いている。とてもではないが食えない。それは私だけではない。同級生のほとんどがいやな顔をしていた。山形市といっても農村部なので、そんなものを食べなければならないほど飢えてはいなかったのである。それでもみんながまんして食べた。
 その夜、突然身体がすさまじくかゆくなり、発疹、下痢と発熱で翌日から一週間くらい休んだ。学校帰りに桑の実をとって食べようと友だちといっしょに桑の木に登ったとき毛虫に刺されたせいだろうと私は思ったが、それは給食のせいだということになり、おかげさまで私だけは毎週一回の給食を食べる苦行から解放された。
 秋頃から教科書が少しずつ配布されるようになってきた。叔父たちの使った古い教科書や参考書に書いてあった国史とはまったく違った内容の『くにのあゆみ』が歴史の教科書として配布されたのはたしか冬になってからではなかったかと思う。

 六年生になった一九四七年四月、私どもの学校の米軍による接収は解除され、ようやく母校に戻った。構内はかなり荒れていた。講堂の天井にぼつぼつ穴が空いたりもしている。
 早速探検である。講堂の天井裏への入り口をみつけ、こっそり入ったら大きなボールを見つけた。彼らが蹴り上げて天井板を突き破ったのだろう。取りに行こうとするが、天井の梁が細く、天井板は厚いボール紙なので、下に落ちてしまう危険性がある。それでもこわごわ取りに行く。何と変な形をしているボールだろうとみんなで不思議がる。実はラグビーのボールだったのだが、みんな生まれて初めて見るものだった。あちこち探検していると米兵が忘れていったものを見つける。これは何かと大騒ぎする。屋上にも上がってみる。ここに上がるのは禁止されている。鉄製の手すりが戦時中の金属供出でなくなっているからだ。それでも行ってみたい。こっそり上がっていくと、接収中に米軍が屋上に建てた木造の建物がある。何のためにつくったのかのぞきながらあちこち探検だ。ところがその建物でふさがれてしまって別の方の屋上には行けない。行くとすれば、手すりの撤去されている狭いコンクリート壁の上を渡らなければならない。下を見ると怖い。何しろ三階の上にある屋上である。それでも行きたい。恐る恐るだが渡る。何も新たな発見物がなくてがっかりする。またこわごわ戻る。こわいけれどもう一度やってみたい。また翌日行く。そのうち屋上への入り口は塞がれてしまい、行けなくなったが、今考えると危険なことをしたものだ。
 子どもはこわいこと、危ないことが好きなのかもしれない。そしてそれをやり終わった後の充実感が何ともいえず、自信もわく。こうして、危険な遊びも含めて群れ遊ぶなかで、けんか、じゃれあい、ふれあいをするなかで成長していくのかもしれない。ところが今はちょっと危険だとすぐに禁止である。ある教育研究者から最近こんな話を聞いた。ある学校の一クラスの子どもたちにいろんな写真を見せてその感想を言わせる実験をさせてもらった、そのなかに子どもがじゃれあって取っ組み合いをしている写真、コンクリート塀の上を渡っている写真があった、そしたら担任の教師がそんな写真は見せないでくれ、もしも真似してけがなどされたら私の責任になるからと言ったという。こんなことでいいのだろうか。スリルはパソコンゲームだけで、バーチャル体験だけで味わわせるというようなことでいいのだろうか。こんな疑問はもちながらも、私のやったような危ない遊びは自分の幼い孫にはさせたくないとも思う。困ったものである。

 そんなことをして遊んでいるうちに、机やいすもそろい、授業が再開された。教科書がないなどということはもうなくなった。
 給食室もでき、冬近くなってから給食が再開された。担任の先生が変わったので私だけが給食を食べないと言うわけにはいかなくなった。また苦行が始まった。もっともひどかったのは、白色の汁にニンジンとかジャガイモ、ダイコン、肉のようなものが浮かび、油が浮いているものである。いま考えてみれば白い汁は脱脂粉乳を溶かしたものであり、シチューということで出したのだったろう。食えたものではない。先生に見つからないようにいかに上手に捨てるかが大変だった。あるとき、私と同級生十人くらいだったろうか、一斉に便所バケツに捨て、それを外にもっていって雪の中に捨てて隠そうした。ところが先生に見つかってしまった。食べ物を大事にしないで捨てるとは何事かと全員思いっきり殴られた。先生は自分の体験した戦地での食糧難、戦友の餓死等を思い起こしたのだろう。殴られてもしかたのなかったことだと思っている。
 中学に入ったら給食はなくなった。ほっとしたが、小学校にいる弟妹たちは大変だったらしい。トマトケチャップだけを一皿出されたり、脱脂粉乳を飲まされたり、ともかく米軍から放出されたものを消化するための給食といってよいようだった。もちろん少しずつ世の中が治まり始め、一九五〇年に完全給食制度ができるなかでそんなまずいものは食わされなくなったが、アメリカの余剰農産物の処理ということでは基本的には変わらなかった。そしてこの給食が日本人の食生活を変え、日本農業を衰退させる大きな一因となったのである。

(註)
1.このことに関しては10年12月23日掲載「☆女性参政権を行使できなかった母」の記事に詳しく書いてある。
2.アルミニウム合金の一種。飛行機の材料として戦時中重要視されたが、敗戦で要らなくなったので給食用の食器に利用したのだろう。そのお椀は分厚くて重かった。

3.そもそも給食は、昭和初期の凶作、恐慌のなかで欠食児童や栄養不良児童が急増したことに対応して農山漁村の小学校で始まったとのことだが、戦後は食糧不足に対応してまず大都市から始められた。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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