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私の育った戦前の混住地域




          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(1)

             ☆私の育った戦前の混住地域

 私の子どもの頃(1930年代後半から50年ころまで=昭和初期=戦前・戦中・戦後の時期)のことについては本稿の第一部、第六部を中心に各所で述べてきたが、そのなかで書き落としたことや改めて思い出したことが多々ある。それを思いつくままこれから書いていくことにしたいのだが、その前に私が子ども時代を過ごした地域の概況を改めてまとめてお話ししておきたい。それなしにはこれから書くことでご理解いただけないところがあるかもしれないからである。もちろん、これも必要に応じてこれまで繰り返しのべてきたところである。しかし、お忘れになった方、新しく読まれる方もあろうかと思われるし、だからといって一々前に戻って読んでいただくのもどうかとも思われるので、重複してしまうけれどもあえて書かせたいただく。それを前提にしてこの後に述べる私の子どもの頃の話を聞いていただきたい。

 私の生家は奥羽山脈と朝日連峰に囲まれた山形盆地(私の子どものころは村山盆地と呼んでいたが)の中央部に位置する山形市にあり、昭和の大合併以前の山形市(以下、旧山形市と呼ぶ)の南に位置し、生家の北西にある山形駅まで歩いて15分、江戸時代から続く市街地のなかにあった。といってもその端っこ、宅地と農地の境目にあり、家の前(南)には畑が広がっており、さらに南に数分も歩くと全面に田んぼが広がっていた。
 山形盆地の農村地域は密居集落地帯だったので農地の中に農家が散在することはないのだが、旧山形市の農家の住まいも市街地の端っこつまり農地の近くに非農家の住まいとともにまとまっていた。だから、農家の家屋の敷地は他の町家と同じく縦長だった。前にも述べたように(註1)、江戸時代の町場では道路に面した間口(土地・家屋などの道路に面した正面つまり表口の幅)に対して課税されていたためで、住民は税負担を減らすために間口を狭く、奥行きを広く、つまり短冊形の屋敷地にしたのである。当然のことながら税負担能力のあるあるいは商売上必要な商人や地主などの間口は相対的に広く、貧しい家の間口は狭かった。間口の広い家は家屋の前に庭をつくったりしていたが、狭い家の場合は隣りの家との間に通路があるだけ、南北に走る道路に面している場合には隣の家の日陰になって日差しもろくに入らず、いつも薄暗くじめじめしている感じだった。
 生家に関して言うと、屋敷地はちょうど道路の四つ角の北東角にあり、間口は南北に走る道路に面していて13㍍(昔の度量衡でいうと約7間)、そこから短冊形に東に向かって広がっていた。その道路に沿って約50㍍(≒28間)行くと南北の細い小道があるが、屋敷の敷地はそこまでだった。したがって生家の屋敷地は200坪弱だったことになる。なお、この小道の東側には生家の畑があった。
 この私の生家と同じようにその南北の道路に間口の面している各家の屋敷地はみんなその小道までの縦長だった。
 生家の南側には東西に走る道路があり、その前つまり南側には生家の畑があり、その南には周辺の農家の畑が広がっていた。つまり家屋敷はなかった。したがって生家には日がよく当たった。

 この生家の西側を南北に走る道路に沿ってその両側に縦長の屋敷地と家々が並んでいた。さらにその突き当りにある道路の北側は寺社と宅地が密集した市街地となっていた。また生家の前を走る東西の道路を西に行くと、その両側には宅地と畑地が併存していた。
 そこには農家だけでなく、昔からの商人、職人等も多く住んでいた。たとえば鍛冶屋、鋳掛け屋、畳屋、麩屋、漬物屋、魚屋、種物屋、茶店、呉服屋など(大小いろいろだが)があり、長屋もあった。つまり農工商混住していた。
 しかし、生家から北へ100㍍も行けば農家はまったくなくなり、完全に町人の町だった。

 私の説明がまずくてわかりにくかったかもしれないが、こうした町はずれで生家は江戸時代中期から稲作と養蚕、野菜作などで暮らしてきたようである。
 明治になって山形が県庁所在地となり、陸軍の連隊や国の諸機関がおかれ、旧制高校が設置されるようになり、こうしたなかで人口も増え、農地の宅地化が進んできた。私の生家の田畑の一部も明治末に県立農事試験場の敷地になる(註2)などしている。
 さらに大きく生家の周辺を変えたのは、1930(昭和5)年ころに産業道路(普及し始めた自動車への対応と農村不況救済のために国費で整備する道路)が新しくつくられ、しかもその産業道路が生家から東に30メートルくらいのところを走ることになったことである。そしてその完成と同時に旧羽州街道にあった国道13号線がこの新しい産業道路に変更された(註3)。
 一方、昭和の初めには旧山形市の人口が10万人前後になったことから旧山形市の南部と北部に小学校を新設することになり、その一つが今述べた新設の産業道路の東側に面する畑のなかに建てられることになった。そこには生家の桑畑もあった。
 こうして34(昭和9)年、私の生まれる2年前に完成した小学校は、前にも書いたようにクリーム色に塗られた鉄筋コンクリートの3階建て、当時としてはもっとも近代的な校舎で施設もそろっているとして評判だった。だからそれから10年後、アメリカ占領軍の兵舎として接収されることになるのだが(註4)。
 なお、その前年には内務省最上川上流改修事務所もこの産業道路沿いに新築されている。
 これと同時に、学校のまわりや産業道路沿いの畑に住宅が立ち並ぶようになった。私の生まれた頃には生家の東側の畑のわきやその前に新しい家ができて勤め人が住み(借家のようだった)、産業道路には八百屋、魚屋、雑貨屋、豆腐屋、一銭店屋(駄菓子屋)などができていた。
 また古くからの宅地も変わってきた。

 私の幼い頃には生家の西側を南北に走る道路に面して北隣に並ぶ古くからの8軒の屋敷地には次のような家屋があり、また世帯が住んでいた。
 ①藁ぶきの古い家屋、元農家の家族とその家屋の裏の一部屋を借りて住んでいる勤め人家族の二世帯。近所の金貸しにだまされて農地をすべて取り上げられ、農業ができなくなり、ご主人が精神的におかしくなって亡くなったとのことで、残された家族が一間を貸した家賃と東京に出した子どもからの仕送りで生活していた。
 ②萱ぶきの古い家屋、農家(小作)、1㌶前後耕作。
 ③藁ぶきの古い家屋、間口はこの並びの家々のなかではもっとも狭かった。家を二つに仕切って二世帯の勤め人(?)家族が住んでいた(借家だったはずだが、家主は誰かわからない)。間口のところにガラス戸(あちこち破れていた)の小さな店の跡があったが、以前どんな店をやっていたのか聞いたことがあったはずなのに忘れてしまった。
 ④トタン屋根の新しい家屋、東京から歯医者家族が移住してきて開業(借家か持ち家か不明)。間口はかつての仕立て屋のような店がまえだったが、実際はどうだったのかわからない。なお、近くに医院はなかったが、歯医者はこのようにすぐ近くにあったので、幼いころ歯痛で夜中に祖父母に連れてきて診察してもらったりしたものだった(註5)。
 ⑤藁ぶきの小さい古い家屋、農家(小作)、1㌶前後耕作。
 ⑥トタン屋根の大正期に建てたらしい家屋、勤め人家族が借りて住む。
 ⑦藁ぶきの四軒長屋、すべて非農家の四世帯入居、職業不明(註6)。
 ➇この並びでは間口のもっとも大きい瓦ぶきの大きな屋敷、元商人・小地主・勤め人。
 なお、もと商店だったようだと言った家屋があったが、これは産業道路に面する店舗の新設等にともないやめたようである。

 今度はこうした家々と通りを挟んだ向かい側つまり西側に並ぶ家をみてみよう。
 ㊀藁ぶきの古い家屋、農家(小作)、1㌶前後耕作
 ㊁藁ぶきの潰れそうな古い小さい家、0.5㌶未満の零細小作・極貧農で、床(ゆか)は低くて歪み、むしろが敷いてあった、
 ㊂茅葺きの古い家屋、農家(自小作)、1㌶前後耕作
 ㊃トタン屋根の古い家屋で蔵座敷あり、農家(自小作)+地主の差配人+金貸し、1㌶弱耕作。「差配人」とは地主の代理人として貸付地の管理や小作料の取りたてをする人。小作人をごまかしてあくどくもうけるものがかなりいた。この家の場合、おじいさんが差配人と金貸しをしており、本人は農作業はほとんどやらず、絹の羽織を羽織り、巾着袋を手にぶら下げ、腰を曲げて道路を歩いていた姿を思い出す。
 ㊄トタン屋根の古い家、小学校教員。私の母の実家と親戚関係にあり、その縁で父と母を見合いをさせ、結婚、私が生まれたとのことである。このことについてはまた後で述べたいと思っている。
 ㊅新築したばかりの瓦葺きの家屋、㊄の家の貸家。内務省の土木関係(後の建設省、現国土交通省)の出先機関に勤める転勤族職員家族が借り入れていた。山形語でなく共通語で話すのは周辺ではこの家族だけだった。なぜか知らないが、この家と生家とは家族ぐるみのつきあいがあった。私と同い年の可愛い女の子がいてよく二人で遊んだものだった。
 ㊆トタン屋根の比較的新しい家屋で、非農家が借家、勤め先不明。
 ㊇瓦葺きの二階建て、間口は店の構えをしていだ(何の店だったか不明)が、もう何もしておらず、勤め先不明。
 ㊈藁ぶきの傾きかけた古い家屋、二世帯借り入れ、職業不明。

 うろ覚えであるし、どういう経過でこういう世帯構成になったのかよくわからない。勤め人の勤め先や商売も聞いてはいたのだろうが、覚えていない。もう80年も前の子どもの頃の話、これもやむを得ないのだが、農家戸数は生家も含めて7軒・7世帯(私の生家と同様すべて稲作+野菜作経営だった、養蚕はみんなやめていた)、非農家の家屋は11軒・17世帯、いずれにせよ非農家が住むようになって今で言う混住化が進み、農家人口が少数派になりつつあったことがわかろう(今述べたのは生家の北側の家屋の話であり、それ以外に生家の前を東西に延びる道路に面した家屋もあるのだが、基本は同じなのでこの紹介は省略する)。
 そして農家非農家を問わず近隣としての付き合いをしており、農家はさらに農家同士での共同体的な付き合いをしていて、強い結びつきがあった(註7)。まさに村社会と町の社会が共存していた。
 とはいっても、貧富の格差は激しかった。これまた農家非農家を問わなかったが、商人地主と高級月給取りの生活レベルは格段の差だった。
 こうしたところで私は生まれ、育った。そして幼かった私たちは、農家非農家を問わず、男女長幼の区別なく、近隣の子どもとして、みんないっしょに道路を主な遊び場として毎日いろんなことをして群れ遊んで暮らしたものだった(註8)。といってもやはり違いはあり、商人地主と高級月給取りの子どものおもちゃや本の質量は違ったし、それ以外の子どもはいくら成績がよくとも旧制中学・女学校(現在の高校)には行けなかった。それでも、私より四歳上で北隣りの⑦の四軒長屋に住む子は、その成績の良さを惜しんだ先生に勧められて夜間中学に進み、昼働きながら学んで後に教員となっている。しかしこんな事例は珍しかった。。

 このように混住化は進んでいたが、宅地造成はまだほんのわずか、小学校のまわりにも畑地は残り(たとえば生家の畑も学校のすぐ北に3枚、南に1枚あった)、北東に200㍍もいけば桑畑と農家があり、国立療養所と商業学校が新設されている程度、南の田んぼの景色は以前とまったく変わりはなかった。生家のすぐ前、南にひろがる畑もあまり変わらなかった。
 また小学校の東隣にある農業試験場の東南部のところに市営の火葬場が新設された(註2)ことからしても、ここは隣村との境界であり、東南部に田畑がひろがっていたということがわかろう。
 さらに生家からまっすぐ500㍍南に行くと、一面水田がひろがっていた。

 あれから4分の3世紀が経過した。
 生家の近くの家々はすっかり変わってしまった。農家は1戸もなくなり、家々のたたずまいもまるっきり変わってしまった。子どもたちの遊び場だった土の道路は舗装された。いつも見ていた3階建ての小学校の建物も改築されてしまった。
 一面の田畑は、戦時中の軍需工場建設で一部変えられ、戦後いったん畑となって農家の手元に戻った(註9)が、高度経済成長の中ですべてなくなって市街地に変わってしまった。何百年と維持されてきた田畑の風景はすっかりなくなり、昔をしのぶよすがはなくなってしまったのである。
 それでも、その風景は私の脳裏に鮮明な記憶となって残っている。少しずつ薄れてはきているが。

(註)
1.11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(4段落)参照
2.下記の本稿掲載記事で述べたように、そこにも生家の畑があった。
  16年5月9日掲載・本稿第八部「☆アケビの若葉・新芽」(1段落、註1、註2)
3.この産業道路のことについては下記の本稿掲載記事で述べているが、この13号線は現在国道112号線となっており、現在の国道13号線はさらに東側の山麓、当時の隣村を通っている。
  10年12月9日掲載・本稿第一部「☆やませ―サムサノナツ―」(4段落)、
  12年7月27日掲載・本稿第四部「☆もらい水からペットボトルへ」(1段落)
4.11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(1段落)参照
5.11年1月19日掲載・本稿第一部「☆霜焼け、鼻水、医者」(3段落)参照
6.空き家探検でノミ攻勢に悩まされたという話を下記の本稿掲載記事でしたが、その空き家はこのうちの一軒だった。
  11年1月19日掲載・本稿第一部「☆霜焼け、鼻水、医者」(5段落)
7.下記の本稿第一部掲載記事で述べたような農家同士のつながりがあったが、同時に本稿第六部の下記掲載記事で述べたような非農家といっしょの地域社会もあってそこでの助け合いがあったこと、さらに商品経済の利便性を享受できる市街地に位置していたことなどから、純農山村地帯のような共同体的つながりは弱く、たとえば入会地などはなかった。
  11年1月5日掲載・本稿第一部「☆近隣の助け合い」(1~2段落)
  14年3月31日掲載・本稿第六部「☆消えた地域の助け合い」(1~3段落)
8.混住化地域での子どもの遊び、子ども社会については本稿の下記掲載記事で述べている。
  11年1月28日掲載・本稿第一部「☆べっきどん、おごんつぁん」、
  11年1月31日掲載・ 同 上 「☆豊富だった遊びの材料」、
  11年2月1日掲載・ 同 上 「☆水浴びと冬の遊び」、
  11年2月3日掲載・ 同 上 「☆一銭店屋」、
  11年2月4日掲載・ 同 上 「☆子どもの社会」、
  14年2月17日掲載・本稿第六部「☆雪と子どもの遊び・補記」、
  14年2月24日掲載・ 同 上 「☆幼いころの遊び・補記」
9.11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(3段落、註2)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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