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思い浮かぶかつての田んぼ道



         敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(2)

            ☆思い浮かぶかつての田んぼ道

 幼いころの私の生家の近くの田畑、そのなかを縫うように走っている小道、畦道、小川、草むらなどは、高度経済成長期にすべて市街地となってしまい、当時の面影を探そうと思っても探せない。今歩いているところは昔でいうとどこの田んぼのところなのか、どこの畑のあたりなのか、まったくわからない。両親が生きているころはここは昔のあの田圃のあったところだ、ここはあの畑だったと教えてもらったが、私の頭のなかに浮かぶ情景とはまるっきり違い、ここはもう大都会、これはオーバーにしてもいずれにせよもう故郷のおもかげはなかった。
 それでも、子どものころの情景はまだ私の脳裏に残っている。その情景のなかにある昔の道路をたどりながら、記憶をたどつて情景を再現しながら、生家の田んぼに歩いて(当時は歩くしかなかったのだが)行ってみる。すると記憶の底に深く沈んですっかり忘れていた風景が連想ゲームのように突然浮かび上がってくる。80歳をこしているにもかかわらずだ。

 たとえば線路(奥羽本線)のわきにある田んぼ(二ヶ所あるうちの山形駅に近い方)に行ってみる。
 生家の西側にある道路を南に真っ直ぐに歩く。当時はその両脇にまったく家がなく、右側(西側)には農家などの屋敷の裏側と屋敷畑が見え、左側(東側)には畑があり(註1)、それをこえたところに国道と3階建ての私たちの小学校とが見えるが、その道を季節ごとに変わる畑作物を見ながら歩く。
 100㍍くらい行くと、その道路を東西に流れる約1㍍幅の小川が横切る。田畑のなかの急傾斜を下って来たからだろう、水はきれいで流れも早い。その小川に沿って東西に走る小道があるが、そこに入って今度は西に向かって歩く。右側には私の同級生の女の子の家があり、6月になるとその生け垣の真っ白い卯の花の匂いが道路を包む。そこの脇を通り抜けるとかつての主要道路・高湯街道(蔵王温泉に行く道路)に出る。この街道に沿って家々が並び、私の生家の分家で仕立て屋を営んでいる家屋もそこにある。
 小川はその街道の下をもぐってまた向こう側に顔を出す。そのわきにまた小道が続いている。街道との四つ角をこえてその小道に入る。小川の左わきには大きな瓦屋があり、瓦の原料の赤土と煉瓦造りの高い(と言っても子どもの目から見てのことだが)煙突が見えるが、その建物と小川に沿って左手につまり南に向かって小道が曲がる。そこまで来ると右側(西側)にはまったく家がなくなり、畑となる。いろいろな作物がこまごまと植えられている畑を見ながらさらに歩くと、小川と小道は今度は右に(西に向かって)曲がる。小川の流れはゆるくなっている。同時に小川の左側(南側)には一面田んぼが広がる。
 さらに歩くと、並行して走る小川と小道の両側はすべて田んぼになる。道はすれ違いもできそうにないくらい本当に狭くなり、田んぼの中を緩やかに右に曲がり左に曲がりしながら西に向かって延びていく。両脇の田んぼはその小川の流れにそってその形を変える。大小、形状、高低、同じ田んぼは一枚もないが、いずれもみんな小さい。
 たまに小川のわきに柳の小さな木がぽつんと生えているところがある。誰かが植えたのかひとりでに生えてきたのかわからないが、田んぼ以外何もないところに一つの変化がある。大体どこまできたのかここで判断できる。何かほっとする。このへんだけはちょっと川幅が広く、底が深く、ドジョウや小鮒がいそうだ、今度網を家から持ってきて捕まえようなどと考えながらまた歩き始める。
 それぞれの季節の田んぼの水と土、稲、道端の草の匂いに包まれて道をたどっていくうちに小川は細くなっていく。本来なら下流に来れば川幅は広くなるはずなのにここは狭くなるのである。途中の田んぼに水を分けてくるので水量が少なくなるからなのだろう。もちろん田んぼからの排水が流れ込むので簡単にはなくならないが、限られた水量、やはり減ってくるのである。いよいよ目的地の線路のわきの田んぼに近づく。その辺にくると川はなくなる。そしてすべて掛け流しの田んぼ(註2)になってしまう。もう少し大きくなってからわかったことだが、この辺は扇状地の末端に近いところなので伏流水の水位が地表に近くなり、地下水位が高く、田んぼはいつもじめじめしているので掛け流しの水で何とか間に合う。
 川がなくなるのと同時にそのわきを通ってきた小道はさらに細くなり、朝通ったりすると道端の草の朝露が足を濡らす。でもメイン道路、人がよく通るだけあって真ん中は草があまり生えていないので、まちがって他のあぜ道に迷い込んだりすることはない。稲刈りが近くなるころは、歩くと田んぼの大きく伸びた稲がカシャカシャと音がする。イナゴが逃げる音だ。
 こうしてようやく線路にたどりつく。その手前に生家の田んぼがある。線路を越えたところにもある。ここが目的地である。
 家からここまで1㌔弱だと思うのだが、子どもの足ではけっこうな距離、しかも曲がりくねったあぜ道なので時間もかかり、少々疲れ、またあきてしまっている。しかし、大好きな線路に到着し、田んぼにいる両親にも会ったのでほっと一安心である。
 早速線路の土手に行く。草むらで覆われているが、人が何度も通るので自然のうちにできたと思われる細い坂道をよじ登る。高さは2㍍くらいだろうか。土手の上に上がると四方八方遠くまでよく見える。敷き砂利の上に真っ直ぐに南北に伸びるレールの真ん中に立ち、まわりをゆっくり見回す。
 振り返って東を見ると、今歩いてきたところの田んぼが一面に広がっており、遠くを走っている国道13号線(旧)が田んぼを横切り、さらにそのかなり奥に奥羽山脈の急傾斜の峰々が延々と連なり、その真ん中に蔵王連峰の一つ瀧山(りゆうざん)の峩々たる頂上がそびえ、そのはるか左下の方に前に述べた千歳山(註3)がこんもりと小さく見える。
 南には線路が一直線に東京に向かって伸び、その両脇に田んぼが広がるが、遠くにはところどころに木々が見られる。何本か流れている川の岸に生えている木々である。線路はそのなかに消えていく。さらに遠くには山形盆地と置賜盆地を区切る山波が低く見える。
 西を見るとまた田んぼがひろがり、その先にある旧街道(羽州街道)の両脇に並ぶ家々でその奥に広がる田んぼはさえぎられて見えず、遠くに白鷹丘陵のすそ野が見え、その頂上に白鷹山(=虚空蔵山)がそびえている(その奥に朝日連峰があるのだが、その丘陵にさえぎられて見えない、もちろんそんなことは子どもの頃は知らなかったことだが)。
 線路のまっすぐ北を見ると、山形駅の信号機が赤く遠くに光っている。
 北東には市街地がひろがっており、今と違って高い建物がないので寺社の高い木々がいくつか遠くに見え、たまに町の中心部であげられているアドバルーンが見える。
 それらを確かめてから今度は線路遊びだ(註4)。

 このように一つ記憶が浮かび上がると、今度は別の道路をたどって田んぼに行き、線路に行く姿が連想ゲームのように浮かんでくる。ここも何度も何度も通った道である。
 生家の東側30㍍くらいのところを走る国道13号線(旧)をまっすぐ南に500㍍くらい行くと一貫清水という川が東から西に向かって流れており(註5)、国道にかかるその川の橋から南は隣村である。まさに町村境(もちろんそれは当時のこと、その後隣村は合併して山形市になっている)、そこから南1㌔くらい先の集落までは一面田んぼである。さらにその集落から南も田んぼなのだが、それはそこからは見えない。
 この街と村の境界にある一貫清水川、私たちはこれを「いっかんすず」の川と言っていたが、わずか5㍍くらいの幅しかなく、深くもないのに、近くに大きな川のない私たちにとっては大きな川に見え、七夕飾りの終わった竹はこの川に流すことになっていて朝早く流しに行ったものだった(註6)。その両岸はけっこう高くて灌木など藪でびっしりだったので、川に降りるのは大変であり、川に入って遊ぶなどということはめったになかった。この川を横切る国道の橋はコンクリート製で立派であり、当時まわりには何もなかったのでよく目立ち、この橋を境に道の両側を走っていた歩道はなくなり、車道だけとなったので、目印となったものだったが、今は完全に街の中になってしまってまったく目立たなくなり、どこに橋があるのか探すのが難しくなっている。
 この一貫清水の橋のすぐ手前から、牛車が通れるほどの農道が西の方に伸びていた。田んぼの真ん中を走るこの農道、父の牽く牛車といっしょに、あるいは一人でとぼとぼと、農繁期の昼の弁当運びに、幼い弟妹をおんぶして母のおっぱい飲ませに、さらには田植えに、苗運びに、稲刈りに、脱穀に、何度歩いたことだろうか。
 農道を歩いて数分のところに生家の田んぼの何枚かがある。ここでまず思い出すのは、春先スズメノテッポウが一面見事に生えていたこと、田植えの前後によくツブ(タニシ)取りをしたことだ。それより何より、小学5年の春先、ここでくろ塗りをしていた父を自転車で迎えに来たこと、そしてその日の夕方母が死んだことが忘れられない(註7)。
 さらにもう少し行くとその農道がなくなって後は細いあぜ道となる。このところから南の方に苗代など生家の主要な田んぼが集中している。だからそこの田んぼには本当によく通った。田植え、稲刈りのときのお昼の弁当もそこで食べる回数がもっとも多かった。苗代があるだけあって、絶えず水が流れ、それはそれはきれいな水だった。だからヒルがよく見える、それだけがきらいだったが。
 また田んぼから南に数分離れたところによその家の小さな桑畑があったので休憩時間になると遊びに行ったり桑の実を取りに行ったりしたものだった。さらにそこからもう少し行くと沼があり、そこには友だちと連れ立って遊びに行ったことが何度かあり(註8)、T叔父との苦い思い出(註9)もあった。
 そこの田んぼの農道の切れるところから細いあぜ道を西にたどって行けば、また線路に着くが、さきほど述べた線路の田んぼよりはずっと南、ここにも線路の両側に生家の田んぼがある。ここが生家の田んぼのなかでもっとも遠いところとなるのだが、農道がないので牛車を使うことができず、田植えのための苗運び、脱穀後の籾や稲わらの運搬がかなり大変だった。苗は畚(もつこ)に入れて両天秤で担いで、籾はカマスに入れて背負って、稲わらも大きく束ねて背負って、細いあぜ道を歩いて運んだものだった。

 こうした田んぼへの行き来のときに、また作業の一休みのときに見る風景、何もない春先の乾いたあるいは水を引いたばかりの黒い田んぼ、夏の緑なすあるいは秋の黄熟した田んぼ、稲刈りの終わった田んぼの中に無数に立つ杭掛(くいか)け、一面真っ白な雪に覆われていた広々とした田んぼ、そしてそれを見下ろしている山々の四季折々の色等々のさまざまの風景がいまだに目に焼き付いている。
 このように、私が小学校に入るころの1940年ころから50年ころ、太平洋戦争前後のころのこの田んぼの情景が私の脳裏にはっきりと浮かぶ。しかし、私の能力ではこうした情景をうまく言葉で表現できない。それが口惜しい。それをお見せできないのはもっと悔しい。せめて写真があればと思うのだが。
 それはそれとして、子どもの頃の私はこんな風景のなかで、まさに生家の南に広がる田園の中で育った。
 同時に、北に立ち並ぶ家々・市街地のなかでも育った。

(註)
1.そのへんの情景は下記の本稿掲載記事に詳しく書いてあるので省略する。
  11年6月1日掲載・本稿第二部「☆開発の進展」(1段落)
2.13年4月8日掲載・本稿第五部「☆水田の機能向上の取り組み」(2段落)参照
3.16年10月24日掲載・本稿第八部「☆山菜『採り」・『盗り』」(1~2段落、補記、註2・3)
4.私たち子どもはこの線路でよく遊んだものだが、このことについては下記の本稿掲載記事で述べているので省略する。
  10年12月16日掲載・本稿第一部「☆遊びから始まる田畑の手伝い」(2段落)
5.13年5月23日掲載・本稿第五部「☆メイチュウ、ホタル、水生動物(4段落)参照
6.11年1月.26日掲載・本稿第一部「☆季節の行事、祭り」(3段落)参照
7.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」(1段落)参照
8.13年5月9日掲載・本稿第五部「☆嫌われ者の蛇、虫」(2段落)、
  13年5月23日掲載・ 同 上 「☆メイチュウ、ホタル、水生動物」(4段落)参照
9.15年7月13本稿第七部「☆炒り豆と『だめ叔父』」(3段落)参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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