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都市と農村の両面の体験



          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(3)

              ☆都市と農村の両面の体験

 生家から北に向かって国道(旧13号線)をまっすぐ200㍍くらい行くと、昔からあった市街地となる。和菓子屋、醬油屋、呉服屋、卸屋、仏壇屋などの大きな店、さらに文房具店、履物屋等々の小さな店、地主・金持ちの大きな屋敷が国道の両脇に並ぶ。藁葺き、茅葺きの家など一軒もなく、瓦葺きである。憲兵隊司令部や医院の洋風の新しい建物もある。夜には鈴蘭電灯と呼んでいた洋風の街灯が点いてそれらの建物を明るく照らす。夜は真っ暗の生家周辺とは大違いだった(註1)。
 その裏側には転勤族の官舎や社宅等の新しい家々があり、さらに何世帯も入っている屋根の低いおんぼろ長屋も並ぶ。ここは住宅地である。
 この商店街・住宅地も私の通う小学校の学区内で、同級生も何人かいる。
 この国道をさらにまっすぐ北に行けば県庁(旧)・市役所にぶつかって街の中心部、盛り場になり、西に曲がれば山形駅となるが、ここは学区外である。
 東には仙台に向かう笹谷街道が伸び、その周辺に昔からの町があるが、ここの南半分も学区内だった。

 私の通った小学校の学区内の土地は、今述べた市街地と前節でみた農地とからなるのだが、約7割が田畑だった。そのことだけからいうと、私の小学校は農村部の小学校だったということができる。
 しかし、学区内の農家戸数の割合は低かった。今述べたように小学校の北側から中心部に向かって商店や勤め人の住宅がひしめいており、非農家の戸数が圧倒的に多かったからである。小学校の私のクラスに農家の子どもは私を含めて数人だけ、1割程度だったことからもそれがわかろう。このことからだけいうと私の小学校はまさに町の小学校だった。
 土地の面からいうと村の小学校、親の職業と宅地の密集の面からいうと町の小学校、まさに農村と都市の両面をもつ小学校だった。
 だから、学校にはイナゴ取りなどの行事があり、田植え・稲刈り期には農繁休暇があった(非農家の子どもも休みとなった)。また子どもたちは一銭こ屋(駄菓子屋)のおもちゃで遊ぶなど町の子の遊びをすると同時に、田畑でまたそこに住む動植物を相手として遊ぶなど村の子どもの遊びを楽しんだ(註2)。できなかったのは山林や河川、海浜での遊びだけだった、山や林野、大きな川や海がまったくなかったからである。

 私はこの小学校(前の年から「国民学校」と名前が変わっていたが)に1942(昭和17)年4月、太平洋戦争が始まって4ヶ月後に入学した(註3)。一学年4クラス約200人だった。
 幸いなことに学校はもちろん旧市内はまったくといっていいほど空襲を受けなかったが、敗戦の年の4年生のときに私たちは強制疎開させられ、私は山寺村にある母の実家に疎開し、そこの小学校の分校に入学した。1学年1クラスだったが、私のように縁故疎開をしてきた子どももおり、大きな教室はびっしりだった。だけどここはまさに農村部の小学校だった。同級生の名前や家をようやく覚えた頃に敗戦、2学期からまたもとの小学校に戻ることになった(註4)。

 帰ったとたん、小学校の校舎は米軍の兵舎として接収、私たちは通えなくなった。だけど、分割・分散させられたりすることなく、同じ小学校の生徒としてまとまって駅前にある隣の小学校の校舎の一部を借りて二部授業(註5)を受けることになった。つまり街の中の小学校に通ったことになる。
 5年になるちょっと前のころから商業学校(現在の商業高校)の建物を半分借りて授業を受けることになった。ここは私たちの学区内の東端に位置するところにあり、まわりは桑畑だった。桑畑の中を通る細い道を近道として通ったので、村の小学校に通っている感じだつた。といっても学校の敷地は町に接しており、やはり町と村の両側面を持っていたのでみんなとくに何にも感じなかった(註6)。
 ここには1年いたが、小学校の校舎が米軍からようやく返還、6年生のときはもとの校舎に戻る等々、さまざまな経験をして1948年に卒業した(註7)。

 山形に「ざえごしゅ」という言葉がある。漢字で書けば「在郷衆」で農山村に住む人という意味である。それはよく言われる「田舎者」=無作法で、やぼで気の利かない人というのとは違う。私のまわりの大人たちはそれを「ざえごたろう」=「在郷太郎」と言っていた。
 この「ざえごしゅ」、「ざえごたろう」という言葉を子ども同士で言い合ったことはない。私を始め農家の子どもも言われたことはない。そういう意味では農家の子どもも非農家の子どももほとんど差別はなかった。農山村にある学校を「ざえごのがっこう」ということはあったが、それはまさに地理的な意味で言うだけだった。
 これは私たちの入った中学校、町の子どもがさらに多くなったのだが、そこでも小学校のときと同じだった。

 小学校卒業の48年の4月、私の一年上の学年から始まった六・三・三・四制への改革にともなって新制中学に行くことになり、私たちは山形城址=陸軍連隊跡地の旧兵舎をそのまま利用してつくられた二つの中学校のうちの一つに入学した。私たちの中学校の学区は、旧市内の三つの小学校と隣村の小学校の四つの学区から成り立っていた。だから当然生徒数も多く、一学年15クラス約700名、総計2000人を超すマンモス校だった。このときのことについては前に述べているのでそれを参照してもらいたい(註8)。
 さきほど私の通った小学校は農村と都市の両面をもっていたと言ったが、中学校は都市部の中学と言った方がいいほど、農家・農地の割合は少なくなった。同じ学区になった町の中心部の小学校には農家も農地もほとんどなく、駅近くの小学校の学区は私たちの小学校より農業の比率は低く、市の西側にある隣村=純農村のまさに「ざえご」の小学校の学区は面積も戸数も少なかった。だから、私のクラスでいうと同級生45人のうち農家の子どもは3人だけだった。
 でもみんなそのことに特に何も感じなかった。農業は町にある多様な職業の一つとしてみんな考えていたからなのだろう。町の中心部の小学校と言っても当時はそこから20分も歩けば田畑がひろがっており、その生徒もとくに農家、農地に違和感をもっていなかった。小学・中学全校生徒あげてのイナゴ捕りにもみんな当然のこととして参加していた。
 このように私たちは農村の側面をもつ町の中学校と言う感じでみんな何の不思議もなく過ごしてきた。

 ただ一度だけこんなことがあった。たしか中学三年になったばかりのころだと思う、近くに住んでいた同級生と口げんかになったとき、最後の捨て台詞として私に向かって「どん百姓」という言葉を吐いたのである。これはショックだった。本などでどん百姓という言葉があるのは知っていた。しかしそれをまともに耳にしたのは初めてだった。東京から引っ越してきて小さな借家に住んでいる家の子どもだったが、彼らの家庭には農家に対する差別意識があったのだろう。
 それまでこうした差別、そして社会的経済的格差をあまり認識していなかった。当時は戦争で非農家農家を問わずみんな暮らしが大変であり、農家の方が最低限の食料を手に入れることができたので恵まれていたこと、農地改革等で暮らしも楽になってきていたことで経済的格差などみんなとくに感じなかったのだろう。また私たちの小中学校が県内一の都市にあり、まさに町の小中学校だったから特に格差など感じなかったのかもしれない。その格差、差別意識を感じはじめたのは高校に入ってからであった。

 もちろん、家による社会的経済的格差の存在は知っていた。
 商人・地主の友だちの家に行くと、大きな蔵のなかに小説全集などの蔵書がたくさんあり、それを見ると本当にうらやましかった。
 転勤族の同級生の家に行くと、そもそも社宅で立派な家である上に家事に専従するお母さんがいて家の中は本当にきれい、三時になるとおやつを出してくれ、少年倶楽部をはじめとする子どもの本がある、これまたうらやましかった。
 一方、日陰でじめじめした土地に低い屋根、畳ではなくござが敷いてあって歩くと床のへこむ六畳と三畳の部屋(だったと思う)に、香具師(やし)の父親(背中に大きな極彩色の刺青をしていた)をはじめ家族五人が住んでいる同級生の家もあった。私の生家からちょっと離れていたが、彼との付き合いにはいろんな思い出がある(註9)。
 旧商家の土蔵を借りて住んでいる同級生の家もあった。分厚い壁なので夏は涼しく冬は暖かいだろうが、かなり高いところにある小さい四角の窓からしか日光は入らず、遊びに行くと息苦しく感じたものだった。
 農家にも貧しい家がたくさんあった。とくに農地改革以前がそうだった(註10)。
 こんなことで貧富の格差の存在はよく知っていたが、そこから来る差別・被差別意識など持たないで小さいころを過ごした。

 このように私は戦前の混住化社会を経験し、都市と農村、非農家と農家、金持ちと貧乏人の両方を見て育ったということができよう。
 といっても地方の小都市、しかも山々に囲まれた内陸部の中だけ、ましてや交通不便の時代、まさに井の中の蛙で私たちは子ども時代を過ごした。
 それに風穴をあけるものの一つが修学旅行だった。

(追記 17.06.12)
 本稿を書き終わってから差別意識のことでふと思い出したことがあるので追加しておきたい。
生家の前の道路を西に30㍍くらい行くと私の同い年のケンちゃんとヒロちゃんという友だちの家が並んでいた。ケンちゃんの家は畳屋で畳をつくっているのが道路から見えた。ヒロちゃんの家はかつて商家で地主、大きな瓦葺の家でお金持ちだった。当然ヒロちゃんの家にはおもちゃや本がたくさんあり、たとえば四輪の足踏み自動車があった。うらやましかった、私のところは三輪車しかなく、ケンちゃんの家にはそれもなかった。そのヒロちゃんのお母さん、女中も使っていつも上等の着物を着ているまさに奥様だったが、私とヒロちゃんが遊ぶのは許すがケンちゃんと遊ぶのはかなり嫌っていた。でもこれは差別ではなく、ケンちゃんがヒロちゃんの足踏み自動車を占拠して返そうとしないなど、遊び相手として問題があったからのようである。
 私の祖母がぼけ始めたころ、その話を繰り返しするようになり、そういえばそうだったとあのころのことを改めて思い出したりしたものだった。
 もうヒロちゃんの家はなく、畳屋もなく、ケンちゃんは幼くして亡くなり(註11)、ヒロちゃんは数年前にこの世を去っている。幼馴染はもうだれもいなくなってしまった。
本筋とは直接関係のないことなのだが、何となく書き残しておきたくなった、これも年齢のせいなのだろう。

(註)
1.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真・石盤」(5段落)、
  11年1月14日掲載・ 同 上 「☆暗くて静かで怖かった夜」(1段落)参照
2.私たちの子どものころの遊び、子ども社会については本稿の下記掲載記事で述べている。
  10年12月16日掲載・本稿第一部「☆遊びから始まる田畑の手伝い」、
  11年1月28日~2月4日掲載・本稿第一部『子どもの遊び』(1)~(6)、
  13年5月1日~23日掲載・本稿第五部『野生動物と子どもの頃』(1)~(6)、
  13年5月27日~6月27日掲載・本稿第五部『子どもの遊び・楽しみの今昔』(1)~(11)、
  14年2月17日掲載・本稿第六部「☆雪と子どもの遊び・補記」、
  14年2月24日掲載・本稿第六部「☆幼いころの遊び・補記」
3.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(1~3段落)参照
4.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日(2段落)参照
5.「二部授業」については本稿の下記掲載記事で説明している。
  11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(1段落)
6.11年2月17日掲載・ 同 上 「  同  上  」、
  11年2月21日掲載・ 同 上 「☆まずかった学校給食」(2段落)参照
7.11年2月21日掲載・ 同 上 「  同  上  」(3段落)参照

8.11.年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1段落)参照
  隣のもう一つの中学校もこれに近く、ともに今なら信じられないくらいの規模なのだが、これも戦後の混乱の引き起こしたものとして受け入れるしかなかった(この中学校のことについては後に修学旅行について述べるときに触れる)。このマンモス状態はそれから4年後の52年、戦後の混乱の落ち着いたころ、両校ともに二つに分割、場所も移転することで解決された。
9.この同級生との付き合いについて詳しくは本稿の下記掲載記事で書いている。
  13年10月7日掲載・本稿第六部「☆『弱きを助け』はいずこへ」(3~4段落)
10.10年12月7日掲載・本稿第一部「☆米をつくっても米が食べられない農家」(2段落)参照

11.畳屋のケンちゃんの死とサクランボの木のことについては前に本稿で書いているのだが、第何部のどこに書いたか思い出せない。これもまた年齢のせいかと嘆きたくなるのだが、わかったときに訂正加筆させていただきたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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