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中一の瀬波・新潟旅行



           敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(6)

             ☆中一の瀬波・新潟旅行―私の場合―

 私の二回目の修学旅行は中学一年のとき、行き先は瀬波温泉・新潟市の二泊三日だった。なぜそこが行き先になったのか、私たちの一回上の学年もそうしたのかどうか、もしかして聞いたのかもしれないが、わからない。ともかく修学旅行はうれしかった。しかも今度は県内ではなく県外で、足を踏み入れたことのまったくないところ、瀬波温泉など名前も聞いたことのないところである。
 この瀬波という名前ですぐに頭に浮かんだのは『片瀬波』(註1)という戦前の流行歌だった。
 「思い寄せても 届かぬ恋は
  つらい浮世の 片瀬波」
 若い方はご存じないかもしれないが、戦前の歌で、私は叔父のレコードで戦後初めて聞き(註2)、なぜか知らないが気に入って何度も聞いた歌だった。もちろんこの歌と瀬波温泉に関係はまったくなかったし、あるとも思わなかったのだが。

 みんなが着ていた服を記念写真で見ると出発は5月の末頃ではなかったかと思う。乗った列車は全車両貸し切りの臨時列車だった。何しろ一学年の生徒が700人なので、それを半分に分け、日にちを別にしての出発だった。
 まず山形から奥羽本線で米沢に行き、そこから米坂線に入って新潟県の坂町まで行く。
 この米坂線、最初は山形周辺と同じような盆地の風景のなかを走るのだが、いくつか駅を過ぎると突然山の中を走る列車となる。山また山の上り坂、童謡の『汽車ポッポ』(註3)ではないが、蒸気機関車が黒い煙を出し、白い湯気を吹いてシュッシュッポッポッと坂を上り、トンネルをくぐり、鉄橋を渡る。とくに急傾斜の坂に来ると列車のスピードは急にのろのろとなる。前にも書いたが(註4)、先頭の車両で飛び降りて立ち小便をしても最後の車両に飛び乗ることができるのではないかとみんなで笑いあうほど、本当にそうしてみたくなるほどの急な線路だった(他のクラスに実際にやった奴がいるという噂もあったが、まあ嘘だろう)。トンネルに入れば煙で車内は真っ暗になり、みんなゴホンゴホン、窒息しそうになる。慌てて窓を閉めるがもう遅い。トンネルを抜けるとまた慌てて窓を開け、空気を入れ替える。しかしまたすぐトンネル、みんな顔は煤だらけである。そんなことがまた楽しい。
 やがて小国盆地まさに四方山に囲まれた小さな独立国といっていいような盆地に入り、下り坂となってくる。それからまた山に分け入るのだが、線路のわきを走る渓谷、大小さまざまのダム、この水の色がまわりの緑の木々を映して本当にきれいだった。
 やがて新潟県、そして下りに下ってようやく平野部の坂町駅に到着、今度は羽越本線の線路に入って山形県境に向かって北上し、村上駅で下車である。もう午後遅かった。何しろ貸し切りの臨時列車なので正規の列車時刻が優先、その合間合間を縫って、しかも単線の線路を走るのだから待ち合わせ時間が長く、どうしても遅くなってしまう。駅から田んぼの中の道をぞろぞろ歩き、松林の中に入ってようやく温泉街に到着、木造二階建ての旅館に落ち着いた。
 夕方、同級生数人で海岸に行ってみた。湯野浜の砂の海岸と違って白と黒の小石が敷き詰められており、これが驚きだった。歩きにくかった。
 やがて西の海に夕陽が沈み始めた。太陽は本当に大きかった。海に溶けて沈んでいく太陽、本当にきれいだった。いつか愛する人ができたらこの景色をぜひ見せたいなどとそのとき生意気にも思ったものだった。

 それから15年過ぎて家内と一歳半の娘を連れて瀬波をまた訪れた。幸いなことに晴れ、浜辺を散歩しながら見た夕陽は大きかった。家内はあの海に沈む夕陽が忘れられないといまだに言っている(註5)。

 話は戻る、男子と女子は別々の旅館だった。ちょうど道路を挟んて斜め向かいの旅館の二階が私たちのクラスの女の子の部屋だった。夜中、私たち男子が部屋の窓の手すりにつかまり、向かいの旅館の部屋にいる同級の女の子と暗い道をはさんで手を振りあったのをなぜか覚えている。これが男女共学の楽しさだった。

 翌朝はまた村上駅まで歩き、今度は逆の南に向かって走り、新潟駅に到着した。山形と違って大きな町だった。道路も広かった。
 駅からぞろぞろ歩いていろいろ見学したはずなのだが、日本一長い川と教わってきた信濃川と新潟港を見た記憶があるだけである。
 この信濃川にかかる万代橋のたもとの旅館に泊まった。夜、泊まった二階の部屋の窓から隣の家の屋根におしっこをした奴がおり、その犯人は見つけたが、先生にいかにそれを隠すか苦労したことを覚えている。布団を敷いて寝たのは本当に小さな部屋に数人だったが、すぐに眠れたのかどうか等覚えていない。
 翌朝起きて外に出ると行商の人がリヤカーでいろんな品物を売っていた。そのなかに赤いエビがあった。ゆでたザリガニだという。生まれて初めて見た。私の生家の地域では見たことがなかったからである。今考えてみればアメリカザリガニだったのだろう。値段はきわめて安く、私たちの小遣いでも買える。早速買って食べた友だちはうまいと目を丸くする。私も買った、生まれて初めての味、本当にうまかった。
 そして帰途に就いたが、ザリガニの食べ過ぎて帰りの列車の中で下痢した奴もいたという(これも噂話、本当の話かどうかわからないが)。
 帰りの列車は行きの時と違って速い感じだった。もう一度車窓からの景色を楽しみながら、またこの米坂線に乗ってみたいと思ったものだった。その希望は私が勤めてから調査などで何度も通ることで果たされることになるのだが。

 帰ってから三ヶ月くらい経ったお盆過ぎのころである。万代橋が全国的に大きな話題となった。花火の見物客の重みで橋の手すりがこわれて多くの人が川に転落、死亡したという事故が起きたのである。これには驚いた。
 そんなこともあって万代橋は忘れられないものとなり、その後新潟に行くと必ずと言っていいほどそこを通ったものである。

 こんな中一の修学旅行だったのだが、翌年の私の下の学年からなくなったとのことである。なぜなのかがよくわからない。代わりにどこに行ったのかも知らない。
 もう一つ、なぜ新潟だったのかである。小学校の修学旅行で海に行っているのだからまた日本海に行く必要もとくにない。他県に行くためだけなら宮城県でもかまわない、ずっと近いし、太平洋に行くことができるからだ。
 さらにわからないのは、この新潟修学旅行があったのは私の中学校だけだったということだ。ST、IZ、AH、AR君にその話をすると不思議な顔をされる。そして言う、列車で行くような旅行はしなかった、自分たちの修学旅行は「蔵王登山」だったと。しかもすべて徒歩だったと言うのである。
 それがわかったのはつい最近のことだったが、近隣の中学なのになぜこんなに違うのか、徒歩での蔵王登山、これは遠足の延長であって修学旅行と言わないのではないかと疑問だった。

(付記)
 この草稿を書き上げてしばらくしたころ、前に本稿にご登場いただいたことのある元山形県職員で農経研究者のIHさん(註6)がわが家を訪ねてきてくれた。
 彼は山形盆地の北部の村の生まれだが、私より一年上なので小学校のときは修学旅行がなかったはずである。しかし、彼が新制中学に入学した年に修学旅行が復活しているので、小学校の時に行けなかった代わりに、中一のときに修学旅行があったのではなかろうか。と思って、歓談しているときに修学旅行のことについて聞いてみた。
 そしたら、中一のときたしかにあった、それが初めての修学旅行で、二泊三日の新潟・湯野浜旅行だったという。奥羽本線の上り列車で米沢に行き、途中下車して市内見学、米坂線に乗って新潟県側の温泉(名前は忘れたとのこと)に途中下車して泊まり、翌日はまた汽車に乗って坂町で羽越本線に乗り換え、鶴岡駅下車で湯野浜泊、翌日は陸羽西線・奥羽本線経由で戻ったというのである。
 これを聞いたときに考えた、もしかして私の中学でも私より一年上の生徒が中一のときこういう旅行をしたのではないかと。ともかく小学校のときにできなかった修学旅行をさせてやりたい、しかし、下級生の小学六年と同じ湯野浜一泊の修学旅行ではかわいそう、それで米沢・新潟経由で二泊三日の湯野浜旅行ということにしたのではなかろうか。
 しかしこれは特例、ということで翌年の中一の修学旅行はなし、そして次節のような遠足とも旅行ともつかない蔵王登山になったのだろう。
 ところが、なぜかわからないが、私の中学だけ前年の例に倣って新潟方面への修学旅行を中一に実施させることにした(ただし湯野浜は小六で行っているので瀬波・新潟市泊とした)、こういうことなのではなかろうか。しかし、他の中学ではやらなかった、それにならって私たちの中学でも翌年の中一の生徒(つまり私たちの一年下の学年)の新潟修学旅行をやめた、こういうことなのではなかろうか。
 これで謎が解けた、と私は思っている。

(註)
1.作詞:高橋掬太郎、作曲:原野為二、1932年(昭7)年
2.12年6月20日掲載・本稿第四部「☆蓄音機からCDへ」(1~3段落)参照
3.作詞・作曲:本居長世、1927(昭2)年
4.16年7月18日掲載・本稿第八部「☆梅花皮沢、初めてのワラビ採り」(1段落)参照
5.12年3月5日掲載・本稿第三部「☆県民性はある?」(2段落)参照
6.16年2月15日掲載・本稿第八部「★異説・次年子」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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