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中一の蔵王登山・中二の松島見学



          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(7)(8)

           ☆中一の蔵王「登山」―近隣の中学の場合―

 私の生まれ育った山形盆地は朝日岳、月山、蔵王山などの名峰に囲まれているが、盆地の南東部つまり旧山形市と東・南村山郡に住む人たちにとって蔵王の峰々がもっとも近く、中腹にある蔵王温泉(私たちは高湯と呼んでいた)はなじみの深い温泉だった。
 この蔵王への登山と蔵王温泉一泊が中学一年のときの修学旅行だったとST、IZ、AH君は言う(私の中学一年の修学旅行は前回述べたように新潟・瀬波の二泊三日だったのだが)。

 この当時(1948年頃)は、山形駅から蔵王温泉までのバスがあることはあったが、本数は少なく、バスも小さく、またのろかった。しかもそもそもバス会社の保有する台数は少なく、運賃も高く、今のように貸し切りバスで生徒全員を乗せて行くなどということは不可能だった。汽車を利用しようと思ってもとくに距離的に近くならない。だから出発地の学校から温泉までは徒歩、そこから蔵王山の最高峰までも、本当の山道なので、当然徒歩だった。

 まず、蔵王からもっとも遠いところにあるAH君の中学の場合を見てみよう。
 リュックもしくは風呂敷を背負って全員学校に集合して、午後9時出発、途中3~4回休憩して、午前3時頃蔵王温泉の旅館に着いた。そこで一休みして 蔵王山の頂上・熊野岳を目指した。
 ただし、ここからの登山は希望者のみだった。AH君は希望せず、持参のお握りを食べたり、温泉に入ったりして、旅館で休んでいたと言う。
 登山した同級生は10時頃戻ってきた。学校から標高約900㍍の温泉まで片道約6時間、温泉から1841㍍の熊野岳頂上までの急坂の山道を往復約6時間、合計12時間、一方当時の中学一年生の体格は農家の経済事情、当時の食料事情からしてきわめて貧弱、よくもまあがんばったものである。今なら父兄からすさまじいクレームがついたろうし、子どもも当然文句を言っただろうが、当時はその程度歩くのは子どもにとっても親にとっても容認の範囲内だった。
 さて、山から帰ってきた同級生、頂上で持参のお握りは食べたもののお腹がすいてしまった。そこで残ったお握りをリュックあるいは風呂敷包みから出して食べ始めた。
 そしたら何ということ、そのお握りの中は糸を引いていた。腐敗してしまっていたのである。それはそうだろう、10時間以上、汗まみれの熱い背中に背負ったリュックもしくは風呂敷包みに入っていたお握り、当然腐敗するはずである。しかし、他に食べるものは持ってこないし、当時の食料事情、配給制度のために旅館や店などで食べ物など売ってもいない。たとえ売っていたとしても小遣いもろくにもらえなかった時代、買えなかっただろうが。だからかまわずそのお握りを食べた。いかに私たち世代の子どもは飢えていたかを示すものだろう。
 ところが、それを食べて腹をこわしたというのは一人もいなかったという。そういうものを食べるのに慣れていたためなのだろうか、それともそもそもそういう食で中(あた)るような弱い子どもはすでに淘汰されていたからなのだろうか。いや、お握りの中に必ず入れてある梅干しが役に立ったのかもしれない。いずれにせよ身につまされる話で、聞いたときは笑うに笑えなかった。
 もう一つ、面白いことに気が付いたとAH君は言う、糸を引いたお握りは海苔で包んだお握りだけで、焼きお握りは大丈夫だったと。
 当時海苔はきわめて高価だった。親がお金持ちだったからか、あるいは子どものためにと無理してくれたのか、その海苔でお握りをつくってくれた、それが裏目に出てしまったのである。
 一方、貧乏人の焼きおにぎりは大丈夫だった。貧乏食は健康食なのかもしれない、と笑いたくもなるが、焼くことで腐敗を防ぐという先祖の知恵はこういう経験の積み重ねから生まれたのだろう。
 それはそれとして、その夜はゆっくり旅館で一泊、温泉を楽しんで翌朝またもとの道を下って帰ったというが、何時出発、何時帰宅だったかは記憶がないという。
 とすると、この旅行は何泊何日の旅というべきなのだろうか。泊まったのは一晩だけ、最初の一晩は歩いていただけで泊まってはいない。とすると一泊二日と言うことになるが、その前夜9時に出発して一夜を過ごしており、これはどう表現すればいいのか。一夜一泊二日の旅というべきなのだろうか。しかしそんな言葉はない。だからといって最初の一晩は一泊したともいえない、つまり二泊二日の旅とは言えない。よくわからない。

 これに対して、AH君の生家の地域より数㌔蔵王に近い中学のIZ君の場合は、まさしく一泊二日、熊野岳への登頂は全員参加ということでAH君のところとはかなり違う。
 まず出発時間だが、朝7時に出発だった。AH君たちの場合と同じように3回くらい休憩、そのときに休んだ一ケ所、茶屋(註1)が忘れられないと言うが、午後3時頃温泉に到着した。お風呂に入ってみんなで大騒ぎし、早い夕食をとった後みんなで一寝入りした。熟睡しているところをたたき起こされて出発の準備をし、午後10時ころ熊野岳に登頂すべく温泉を出発、頂上でご来光を拝んで下山、また温泉で一休みして帰宅したとのことである。
 これはかなりの強行軍である。よくまあ生徒がまた父兄が文句を言わなかったと思うのだが、さきほども言ったようにそれが当たり前の時代だった。

 ところで、なぜIZ君の中学とAH君の中学とで登山のしかたがこんなに違うのだろうか。
 これは歩く距離の相違からではなかろうか。IZ君の中学の場合、蔵王までの距離はAR君のところよりも往復で10㌔強、歩く時間は2時間も違う。この距離の相違、そして女子もいることからAH君の中学では全員登山というわけにはいかず、希望者のみとしたのではなかろうか。
 しかしこの距離の相違と言う仮説は、ST君の中学の場合を考えると、正しいとは必ずしも言えないようである。

 前に述べたように、ST君の中学は私の中学のすぐ隣り、その学区は市の中心部であるが、ST君は一年の時に蔵王温泉に一泊する徒歩での修学旅行をしたという。この点ではAH、IZ君と基本的に同じだが、蔵王山頂・熊野岳への登山はなかった。つまり蔵王高湯温泉までの「登山」(といえるのかどうか)でしかなかった。蔵王までの距離はIZ君の中学より5㌔、AH君のところよりも10㌔以上近いにもかかわらずである。三校の中ではもっとも楽な旅行だったと言えよう。
 それを聞いたときには驚いた。温泉までだけなら小学生でも歩ける。実際に私も小学三年、妹が二年のときに歩いている。しかもST君の中学からなら、中学生であれば4~5時間で十分に行けるはずだ。それに温泉は険しい山の頂上ではないし、標高も800㍍程度しかない。これでは登山とは言えない。温泉に泊まりに長くて急な坂道を歩いて行ったというだけである。
 しかしそれだけなら時間が余って生徒たちは退屈したのではないか。
 そうST君に聞いたら、彼のクラスでは担任付き添いで希望者のみ登山したという。ただし、それは瀧山(りゆうざん)だった。蔵王連峰の一つで山形市内からもよく見える姿かたちのいい山である。標高は1320㍍、ちょっと険しい登りはあるが、温泉からは本当に近く、往復2時間もあれば簡単に行ける。私の場合など、中三のとき同級生と3人で家から高湯経由で瀧山(りゆうざん)に歩いて登り(それもデカンショ=歯が分厚くて高い足駄を履いてである)、帰りに温泉の共同浴場でひと風呂浴びて、そのまままた家まで歩いて帰った(つまり日帰りした)ことがあるほどである。ましてや一泊するのだからみんな簡単に登れるはず、せめてそれくらいのことを生徒全員になぜさせなかったのかがわからない。生徒の数が多すぎて瀧山の狭い頂上に登らせるのは物理的に無理だったからなのか、町場育ちの軟弱な生徒が多くて登れないだろうと学校側が考えたからなのか、よくわからない。
 しかし、これでは単なる遠足でしかないではないか。小学校の遠足と違うのは、登り下りが激しく、歩く時間がちょっと長いというだけである。いや、もう一つ、温泉宿泊がついているのが遠足と違うが。
 しかもST君たちのクラス以外瀧山にも登っていないのだから、つまり登山はなかったのだから、目的は登山でもない。これでは単なる温泉旅行ではないか。これで修学旅行と言えるだろうか。

 この疑問はAH君、IZ君の中学の蔵王「登山」についてもあてはまる。そもそも登山は、ましてや徒歩のみで行ける(つまり近距離の)山が目的地では、修学旅行といえるのだろうか。
 ところが、ST君も含む三人とも蔵王登山を修学旅行と言う。そうするとそもそも修学旅行とは何なのかが疑問となる。

          ☆中二の松島「見学」―私とAH君の場合―

 修学旅行の経験はと聞かれたら、私は小六の湯野浜、中一の新潟、中三の東京・江の島の三回だと答える(高校の修学旅行はなかった)。
 ただし、学校の公的行事として団体で旅行したことはもう一度あった。中学二年のときに全員で松島に行ったのである。日本三景の一つを見せる、めったに行けない海をしかも太平洋を見せることが目的だったのだろう、
 朝早く山形駅に集合、仙山線の貸し切り・臨時列車に乗って出発、山寺から作並まで蒸気機関車から「電気機関車」(みんなにはこれが珍しかった)に変わってけん引されるのをまず体験する。仙台駅から東北本線に入って新松島駅(註2)に到着、そこから歩いて松島海岸・五大堂まで歩き、太平洋を初めて見る。そこで休憩・散策するのだが、赤・黄・緑等々色とりどりの海ほおずきなどのお土産の売り子さんがたくさんいてうるさかったことが印象に残る。持参の昼飯を食べ、そこから遊覧船に乗っての島めぐりをして塩釜港に到着、塩釜線塩釜駅(註3)からまた列車に乗って山形に夜到着、こういう旅行だった。

 私たちはこの旅行を「修学旅行」とは認識していなかった。遠足と同じく日帰りだったからである。私にとって修学旅行とは、一泊であれ何であれ、ともかく泊まるものだと考えていたのである。前に私の修学旅行について簡単に述べたときに松島のことを除外していたのはそれが理由だった。
 だからといってこの松島行きは遠足だとも思わなかった。遠足と言うのは徒歩で目的地に行くこと、まさに「足」で「遠」くに行くことだからである。
 また、歩いては往復できないところ、つまり列車に乗ってしか行けないような遠隔地に行く、しかも他県に行く、となるとこれは単なる遠足ではない。
 しかし、松島は泊まるほどの遠距離ではない、列車でではあっても日帰りできる距離である。となると松島旅行は修学旅行とは言えない。
 松島は日本三景の一つ、これを見学しに行ったのだから、松島見学なのだろう、こう思っていたような気がする。

 それはそれとして、この中二の松島行きについては、ST、IZ君は記憶がないと言っている。もしかして彼らの中学ではなかったのかもしれない。それがなぜなのか、よくわからない。
 これに対してAH君は、たしかに松島行きはあったという。
 しかしちょうど当日台風が来て中止となった。
 その代わりということで、クラス全員で担任に頼んで、別の日の午後、近くを流れている川に泳ぎに連れていってもらったことを鮮明に覚えているとのことである。
 そうなのである、子どもたちにとって遠足や見学、修学旅行は、授業を受けなくともいい日、学校以外のところに行ける日なのである、AH君たちは台風で失わされたその権利を行使すべく要求し、実現したのである。
 なお、隣村の中学のAR君も私やAH君のところと同様に中二のとき松島に行ったとのことだが、このことについてはまた後に述べる。 
(次回は7月17日に掲載する)

(註)
1.たしか「甘酒茶屋」と言ったような気がする。小三のとき両親や弟妹達と初めて高湯に湯治に行ったとき(11年1月25日掲載・本稿第一部「☆湯治・里帰り」(6段落)参照)にやはりここで一休みした。山道を登りに登って家々もまったくなくなり、寂しくなり、また疲れ切ったころ、深い木々の中にぼつんとこの茶屋が建っていた。戦時中のせいか売っているものは何もなかったように記憶しているが、人がいること、家があることに何かほっとした記憶がある。なつかしさを感じさせる昔風の茶屋だった。やがて、歩いて温泉まで登る人もいなくなり、つまり茶屋で一休みする人もいなくなり、茶屋はなくなってしまった。その跡はわかるようになっているとのことである。

2.現在の松島駅。あの頃は単線で、ホームに灰白色の肌の大きな岩が接していたことが印象的だった。後で見た松島の島の岩肌とそれが似ていたので、もしかしてその岩は昔、海に浮かぶ島だったのではないかなどと考えたものだった。
3.現在は廃線となっている。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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