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中三の東京旅行・行けない子



          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(9)(10)

                ☆中三の東京旅行

 中学三年のときの修学旅行は、行き帰りの車中二泊+旅館一泊の計三泊二日の東京・江の島・鎌倉旅行だった。
 これは私たちにとっては大旅行だった。生まれて初めて山形盆地から南に行ける、本や新聞、ラジオで何度も読んたり聞いたりしていた大都市東京を初めて見られる、うれしかった。私だけではない、ほとんどの生徒がそうだった。みんな胸をわくわくさせたものだった。

 旅行に持参するもの、注意すべきこと等々細々と指示されたが、記憶に残るのは生徒全員、幅30㌢・長さ1㍍(だったと思う)の板を一枚持って来るようにと言われたことである。向かい合った四人掛けの腰掛の上に四人分4枚渡して、みんなで足を延ばして寝られるようにするのだというのである。要するに四人用のベッドをつくるというわけだ。
 その板を持ち、リュックサックを背負って、夜7時ころではなかったろうか、山形駅に集合、全車両私たちだけ貸切りの臨時列車(註1)に乗り込んだ。
 それぞれ指定の腰掛に座り、ぺちゃくちゃおしゃべり、持参のお握りを食べ、おやつを食べている(そのとき担任の女の先生から私の席の四人だけがビワを一つずつもらい、生まれて初めて食べたのがなぜか忘れられない)うち就寝時間となった。早速腰掛の上に板を渡してみる。たしかに広くなった。しかし、いくらあの当時の中三の身体が小さかったとはいえ、そこに四人横になるのはもちろんできない。座って足を伸ばせるのがいいだけだ。しかし板はごつごつして痛い。座席の背もたれは板張りなのでこれもごつごつして寝苦しい。たまらなくなってそのうちの一人が床につまり通路に新聞紙を敷いて寝た。これは背中が痛いのがちょっと苦痛なだけで伸び伸びと寝られる。一方残った三人はかなり楽に脚を伸ばせる。しかし通路に寝るとトイレに行くのを通せんぼしてしまうのでいやな顔をされ、しょっちゅう起こされるのが問題だ。私を始め何人かは荷物をおく上の棚(当時は網棚だった)からみんなのリュックサックをおろして座席の下に入れ、空いた網棚に登って横になり、網をハンモックのようにして寝た。やはり狭くて寝苦しく、落ちたら危険ということはあったけれども、ともかく何とか眠れた。
 そんなこんなで苦労しながらうつらうつらしているうちに朝になり、東京駅到着、下車である。持参した板はそのまま車内に置きっ放し、貸し切りだからそれは可能である(帰りもまたその板を利用した、使わずにそのまま座り寝したものも多かったが)。そして貸し切りの観光バスに乗車し、東京遊覧である。たしか最初は宮城前広場下車だったはずである。そして二重橋を背景に記念写真である。これは当時のお上りさんのお決まりのコースである。それからガイドさんの案内で車窓から東京見物、でも国会議事堂を見たことしか今は覚えていない。眠くなるのを我慢しながら見ていたが、夜眠れなかったのだろう、車掌さんの声を子守歌に眠りっ放しの同級生もかなりいた。
 やがて三越で下車、生まれて初めてのデパートである。ガイドさん、先生から何度も注意される、自由行動だが、時間になったらマイクで店員さんが知らせてくれる(当時はだれも腕時計など持っていなかった)のでそれを聞いたら一階玄関のライオン像の場所のところに集合するように、迷子になったら店員さんに聞くようにと。
 エレベーター、四階以上の建物はみんな生まれて初めて、何回もエレベーター往復をしている同級生もいた。
 またバスに乗り、そのままどこかの駅に行き、また前の汽車に乗った。昼飯はどこでいつ食べたか記憶にない。どこの駅で下車したのかこれまた覚えていないが、駅から海岸までぞろぞろ歩いて橋を渡り、江の島の旅館に午後遅く到着した。その後、全員で海岸等を散策し、クラスごとに記念写真を撮った。旅館の夕ご飯のお膳に小さなさざえが出て生まれて初めての味(その苦みと醤油味が忘れられない)に感激したこと、食後お土産屋をまわり、お餞別をもらった近所の家へのお土産も含めて買いものをしたこと、大きな部屋に何十人もの布団が敷かれていたこと、私も含めてみんな疲れていてバタンキューだったことを覚えている。
 翌日は鎌倉行きである。旅館から駅まで歩き、電車に乗った。今はその名がわかるのだが、いわゆる江ノ電である。新田義貞が刀を投じて海の水を引かせて勝利したと戦時中の教科書で教わった稲村ヶ崎、七里ヶ浜を通り、やがて電車は街の中に入った。驚いた、家々の間を、庭の木々の間を電車が通るのである。電車は道路の真ん中を走るものと思っていたのにである。しかも電車の窓から見る家々や庭の景色もいい、窓から手を伸ばせば庭木の枝にさわりそう、いまだにあの景色が忘れられない。毎日電車を見られる家々もうらやましかった。
 鎌倉に着き、行列をつくってぞろぞろ歩いていろいろまわったが、覚えているのは鎌倉八幡宮、実朝暗殺のために公暁が隠れていた大銀杏、鎌倉大仏、護良(もりなが)親王が閉じ込められたという土牢である。
 護良親王と言っても、今の若い人たちで知っている方はあまりいないのではなかろうか。新田義貞についても同様だろう。しかし私たち世代以上のものは楠木正成・正行、後醍醐天皇、足利尊氏と並んで頭に叩き込まれている。国語や歴史の教科書で徹底的に教えこまれ、絵本をはじめあらゆるところで覚えさせられたからである。だから稲村ヶ崎、七里ヶ浜、鎌倉には一度は行ってみたいと思っていた。戦後はもちろんそんな教育はなされなくなったが、習ってからまだ五年くらいしか経っておらず、はっきり覚えていたのである。
 この鎌倉見学が終わってからどこの駅まで歩いて汽車に乗ったのか覚えていない。ともかく午後あまり遅くないころ、行きに私たちが乗った同じ汽車なので前に乗った車両の椅子にそのまま座り、出発した。だからきっと国鉄の鎌倉駅から乗ったのだろう。
 どこをどう経由して東北本線に入ったのかわからないが、山形に向かった。その昼と夜食べたのかはお握りであることは確かだが、もしかすると江の島の旅館がつくってくれたのかもしれない。真っ黄色のたくあんのおかずがついていたのがなぜか印象的だった。
 帰りの夜汽車のことは、私が行きと同じにまた網棚=ハンモックに寝たこと以外、まったく覚えていない。疲れ切っていたのだろう。そして翌朝、山形駅に到着した。
 身体は大変だったけど、「東京」に行けたこと、生まれて初めてのところに行けたことでともかくみんな大満足だった。
 さて、それでは近隣の他校はどうだったかだが、東京行きは基本的に同じだった。

 私たちと同じ東京、江ノ島、鎌倉だったのは、私の中学からもっとも離れている平地農村部のAH君の中学だった。ただし、この詳細は後に述べる事情から不明である。
 これに対し、私の中学の隣りで町中心部の中学のST君の場合は東京、江ノ島で、鎌倉はなかったと言う。上野の動物園で遊んだのが鎌倉の代わりになったようである(私たちは動物園がコースになかった)。
  IZ君(市街地に近い平地農村部)の中学はさらに違い、日光、東京だったと言う。陽明門、中禅寺湖、華厳の滝を見てその晩は日光泊まり、翌日は上野公園、動物園、デパート、そして夜帰ったと言う。
 このように東京の前後に何がつくかの違いはあったが、首都・大都会を見せるということでは共通していた。

        ☆修学旅行に行けない子の存在

 さて、私たちと同じ東京、江ノ島、鎌倉旅行だったAH君だが、彼はその旅行に参加しなかった。
 母子家庭とか父親が病気とかで経済的に行けない同級生が三~四人おり、彼らを放って置いて自分たちだけ行くわけにはないという「変な気」(とAH君言うのだが、別の言葉でいえば義侠心、彼らしいとは思うのだが)を起こし、自分はいっしょに残ることにしたというのである。そしたら他にも賛同するものがいて旅行に行かない者は七~八人にもなったという。
 それで学校でも放っておけなくなり、修学旅行の期間中に別メニューで日帰り行事を考えてくれた。学校から30数㌔離れた赤湯温泉までの自転車旅行 (自転車のない子には先生があちこちから借りてくれた)で、教頭の先生が付き添い、たまたま教頭の旧知で赤湯で教員をしていたAH君の叔父の自宅で昼飯を食べ、公衆浴場で入浴して帰ってきたという。
 この代替旅行、これはこれで面白い話なのだが、まだ車社会でなく、学校や先生の自主性が認められていた時代だからできたことだろう、こんなこともあったのである。
 なお、AH君は同級生が後で江ノ島旅行を楽しそうに話し合っているのを見たとき行けばよかったと内心後悔した記憶があるとのことだが、それはそれでやむを得ないこと、いずれにせよ貴重な体験をしたことになろう。
 ところで修学旅行に行けなかった子どものことだが、ここで言ったのは男子だけのことで、女子はどうだったかまったく覚えていないという。これまたAH君らしいとは思うが、男女それぞれ異性に関心をもってはならないというような当時の古い風潮の残存がわからなくさせたのだろう。女子は全員参加したのか、、行けない女生徒がいたとすれぱ学校側が男子と同じような対応をしたのか、興味のあるところなのだが。

 ここでふと疑問になった、私の場合三年の修学旅行に行けなかった同級生がいたっけかと。
 女子の方ははっきり覚えている、二人行かなかった。ここがAH君と違うところ、前にも述べたが私たちのクラスは男女共学の模範クラス、私はそのパイオニアで女の子と仲良くしていた(註2)からだろうが、私ははっきり記憶している。そのうちの一人は、乗り物酔いがひどく、一年生の新潟旅行の時には途中から先生付き添いで一人だけ引き返したこともあり、それで行かないことにしたものである。もう一人は、これも前にも書いた(註3)が、芸妓修行で登校していなかった子である。これは貧困から行けなかったものと言うことができよう。
 男子の方は全員参加したはずである。と思ったが、念のためと思って記念写真で確かめてみた。一人だけ参加していない同級生がいた。今まで全然気が付かなかった。忘れてしまっていたという方が正確なのだろう。当然不参加の理由も思い出せない。経済的に恵まれたとはいえない家庭の子だったのでもしかしたらそれが理由かもしれない。それを覚えていないということは自分が当時その同級生のことを何も考えていなかったことを意味するのかもしれない。東京行きに浮かれていたからなのだうか。私としたことが何ということだろう。
 私の自己批判はさておいて、彼の不参加の理由がそれだったとしても、率からいうとAH君の学校の方が経済的理由による欠席率が高い。どうしてなのだろうか。当時の都市と農村の経済力の違いからなのだろうか。このことについては、これまで触れなかっAR君の小中の修学旅行について語るなかで、改めて検討する。

 やがて私も、経済的理由から修学旅行に行けない子どもたちが全国各地にけっこういるということを知るようになった。いつのころだったろう、そうした行けない子どもが戦後の民主化による経済発展と就学援助等でほとんどいなくなったという話を聞いたのは。そのときはいい世の中になったものだと感慨深く聞いたのだった。しかし近年はどうもそうではなくなっているようだ。それが悲しい。

 さて、これまで私の小中時代の修学旅行を中心に同学年だったAH、ST、IZ君の地域の小中の修学旅行について見てきたが、もう一人、隣村の小中で学んでいたAR君の修学旅行について次回以降みてみることにしよう。

(註)
1.一学年の生徒が何しろ約七百人なので、半分に分け、日にちを別にしての出発だった。このことに関しては本稿の下記掲載記事で触れている。
  13年7月22日掲載・本稿第六部「☆短期周遊型旅行、団体旅行」(5段落)
2.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1段落)参照
3.11年3月1日掲載・本稿第一部「☆半玉の中学生」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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