Entries

貧しい食と厳しい労働(1)



            ☆米を食べられない村―戦前のこと―

 「私のふるさとでは『せんべい汁』を食べる」
 数年前、若手研究者のNK君が雑談のなかでそんな話をした。それを聞いたとき、私も含めて同席していたみんなが愕然とした。彼の奥さんもそうだった。結婚して三年目の彼女もそのとき初めて聞いたらしい。
 いくら彼の出身が南部せんべいで有名な岩手県であっても、せんべいをおつゆの身にするとは思いもかけなかった。考えてみれば彼の故郷は北上山地のどまんなか、葛巻町である。さすが日本のチベット、お菓子のせんべいまでおつゆに入れるのかとそのときは笑った。都会育ちの彼の奥さんは相当ショックだったようである。
 しかし、よくよく考えてみれば全然おかしくない。南部せんべいは小麦粉を水で溶いて固め、焼いて乾燥させたものだから、砂糖や塩などで味をつけなければ、麩などと基本的に同じである。いうまでもなく麩汁はおいしい。せんべいだっておつゆに入れればおいしいのではないだろうか。しかも南部せんべいは味があまりついていない。みそ汁にしても、醤油汁にしても、おいしいかもしれない。そもそもせんべいというのはそうしたものだったのではなかろうか。
 考えてみればせんべいは保存用としてきわめて優れた食品である。軽いので携帯食としても便利である。何かの時の非常食としてもいい。いつでも、そのままで、あるいはお湯や水に入れて食べられる。忙しいときなどはきわめていい。ぽんとおつゆに放り込めばいいからだ。カロリーもあるので、植物蛋白の豊富なみそ汁などに入れたら栄養分は最高である。当然おやつとして食べてもいい。こう見てみればきわめて合理的な食品である。やがてせんべいにいろいろな味をつけてお菓子としても食べるようになった。そのうち食生活が豊かになってくる。そのなかで保存食やおつゆの身というせんべいの用途が忘れられてしまった。そしてせんべいはお菓子としてだけ食べられるようになった。こう考えるのが、妥当なのではなかろうか。
 せんべいが汁の身だった時代の簡素な味のせんべいが南部せんべいとして岩手県に残り、たまたま山深い葛巻町にせんべい汁が残った、こう考えると論理がつながる。
 このような結論に達したのだが、せんべい汁を出す食堂が盛岡にできたとか、汁用のせんべいが売り出されたとかいう話を最近聞いた。しかしまだ私は食べていない。いつか彼に葛巻の本物のせんべいをもってきてもらって、わが家で「せんべい汁を食べる会」を開きたいものだと考えている。
 ともかく山村には文化発祥の時期のさまざまな貴重な遺産がある。われわれの原点はそこにあったのだ。それを古い、遅れている、変わっていると言って嗤ってはならないのではなかろうか。
 どこの地域の食べ物にも独特のものがあり、それはすべて、変わっていると言えば変わっているのだ。

 このことを同じ若手研究者のST君に話したところ、彼はおもしろがってそれを岩手県出身の奥さんに話した。すると奥さんは次のように言ったという。青森南部では昔から普通にせんべい汁を食べていた、しかし葛巻あたりで食べるようになったのはずっと後のことではないかと。
 それを聞いて、なるほどそうかもしれないと思った。あの地域はヒエ、ソバなどの雑穀を食べていたので、小麦などは食べなかったかもしれないからである。
 ましてや米は食べられなかった。絶えず低温に遭う東北北部の山間部では当時の技術水準では米がほとんどつくれなかったからである。もちろん買えば食べられる。しかし、雑穀や薪炭の販売程度では相対的に高価な米を買えるわけはない。だから徴兵で軍隊に入ったときに初めて米を食べた人もいたという。どこの家でも食べるようになったのは戦中から戦後にかけてで、米をつくっていない農家に非農家と同じように米が配給されるようになってからのことらしい。
 ただし麦はつくれた。しかし、技術水準の低かった時代、葛巻のような山間高冷地では収穫はきわめて少なく、しかも麦は重要な換金作物なので穫れても食べるわけにもいかない。名子制度(これについてはまた後に述べる)の残存のもとではなおのことである。ヒエ(稗)飯がせいいっぱいだった。だから麦を「せんべい汁」や「はっと」(「ひっつめ」という地域もあるが、いわゆるすいとんのこと)などにして食べることなどなかったのではなかろうか。食べられるようになったのは生産力が高まり、民主化の進んだ戦後かなり遅くなってからだろう。そう考えれば彼女の言うことはもっともである。
 葛巻出身のNK君が生まれたころはもうせんべい汁を食べていたので、昔から食べていると思っているのだろうが、実は違うのではなかろうか。もしかするとソバやヒエでせんべいをつくり、それを入れたせんべい汁を昔は食べていたのかもしれない。彼に確かめてみたいと思っている。

 米をつくれない村、つくっても本当にわずかしか穫れない村、貧しくて米を買って食べることのできない村、いま北上山地の一部を例にして言ったが、ここだけではなかった。戦前の東北の北部、中山間地域にはかなり存在した。米をつくれるようになりたい、思いっきり食べられるようになりたい、これはこうした地域の農家の悲願だった。もちろんこれは東北の農民すべての願いだったのだが。

(註)
 〇七年の秋、NK君夫妻が南部せんべいを持ってわが家を訪ねてきた。そこで早速せんべい汁をつくり、それを肴に一杯飲むことにした。うまかった。思った通り、やはり麩の食感だった。その頃はせんべい汁が有名になっていた。さらに最近ではB級グルメグランプリで三位以内入賞を続け、仙台でも飲み屋でせんべい汁を出す店も出てきている。南部という地域に根ざした食文化、それがこれだけ受け入れられている。うれしいことだ。ただ心配なのは原料の小麦粉がどこの産なのかということである。ぜひとも南部産せめて国産であってほしいものだ。もう一つ、せんべい汁を食べるとき、時々でいいから、その昔お米を食べられない地域があったこと、米に対する特別な思いを日本人がもっていたことを思い起こしてもらえるといいのだが。なお、ソバやヒエでせんべいをつくっていなかったかと彼に聞いたら記憶がないと言っていたが、もしかするとなかったかもしれない。小麦よりもせんべいにするのが難しいかもしれないからだ。こうした地域に生まれ、今秋田で研究生活を送っているNK君、このブログを立ち上げてくれたのは実はその彼である。

スポンサーサイト

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR