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戦後混乱期の子どもたち(4)

  

              ☆復刊少年倶楽部と野球少年

 一九四六年から四七年にかけての冬のことである。街に出かけ、何となく本屋に寄った。出版がほとんどなされていないころなので、戦前発行されて売れ残ったと思われる本や戦後出された薄っぺらで真っ黒な紙の雑誌がほこりをかぶってわずか並んでいる程度だった。それでも活字に飢えていた私はどんな本があるか見てみた。
 紙がない、印刷工場も復活していない、汽車の本数も少ないという状況であったから、雑誌はすべて月遅れだった。それを見ていたら、何と、雑誌の『少年倶楽部』があった。戦前のものとは比べものにならないほど薄く、汚く、みすぼらしい。しかも三~四ヶ月前の号である。でもまちがいなく少年倶楽部である。胸が震えた。誰かに買われたら大変である。ポケットをさぐった。幸い前々からためていた小遣いをもってきている。数えた。間に合う。すぐに買った。
 あこがれの少年倶楽部を初めて自分の手で買うことができた。四十頁もあったろうか、あっという間に読み終わったが、うれしくてたまらなかった。
 それからときどき本屋に行き、少年倶楽部を探した。発行予定日などはあってないようなものなので、いつ出るかわからない。何ヶ月遅れて発行されるかもわからない。だから往復一時間かけても本屋に行かざるを得ない。見つけると家に帰り、祖父母に頼み込んで小遣いをもらい、また買いに戻った。

 翌年、小学六年の冬ではなかったかと思う。少年倶楽部を買ってきたら、その冒頭に宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が書いてあった。読んでもさっぱり意味がわからない。父に聞いた。父は、何回も何回も暗記するくらい読め、そうすれば意味がわかってくるという。それで暗記するまで読んだ。ある時、あ、そういうことかと何となくわかったような気がした。それが宮沢賢治との出会いであり、彼の著作をいろいろ読み始めるきっかけとなった。
 ところで、この少年倶楽部には「一日ニ玄米二合ト 味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」と書いてあった。本当は「玄米四合」であることがわかったのはかなり後になってからであった。当時、米は一日一人二合の配給だったので、編集者は二合に変えないわけにはいかなかったのであろう。
 戦前の雑誌で見た付録などというものはもちろんなかったが、投稿して掲載されると記念品をくれるという記事があった。以前からやってみたかったので、俳句欄に「弟の かわいい寝顔 なでてみた」という句を葉書に書いて送ってみた。それが入選した。記念品を楽しみに待った。送ってきたのは小さな青いバッジ一個だった。ちょっと期待はずれだったが、それでも以前からの念願の一つが果たせて満足だった。

 本もそろそろ出回り始めるようになった。世の中は少しずつ落ち着き始めてきた。子どもたちもまた昔のように遊び始めた。しかし大きな変化があった。野球が流行り始めたのである。
 小さいころも野球と称するもので遊んでいた。道路を場にして子どもたちが二組に分かれる。そして約十㍍くらい離れたところにそれぞれ線を引く。その後ろがそれぞれの陣地だ。さらにその陣地の後ろの方に大きな円を描く。この準備が終わったら試合開始だ。「ゴムまり」と言っていたボール(中が空になっていて柔らかく、よく弾むゴム製のまり=軟式テニス用のボール)一個を代わる代わる相手の陣地に投げる。投げたボールが捕られると投げたものは捕虜となり、相手チームの円のなかに閉じこめられる。味方が投げてきたボールをその円の中で捕ると釈放されて自分のチームの方に戻る。こうして捕虜の数の多少で勝ち負けを決める。これがわれわれの野球だった。ところがどうもこれとは違うようである。
 本来の野球とはどんなものかを大人から教わった記憶がないので、友だちから教わったのだろう。その友だちも誰かから聞いてきたのだろうが、ともかく敗戦の翌年の春には、道路や寺の境内で、柔らかい「ゴムまり」を使って三角ベースの「ゴロ野球」をしていた。ピッチャーがゴロで投げてバッターは棒きれでそれを打つのである。ゴロでないと飛びすぎてボールがよその屋敷のなかに入っていやな顔をされたり、行方不明になったりするからだ。当時は貴重だったボールがなくなったら遊べなくなるし、ボールの所有者は親から怒られるので、これもやむを得ない。学校のグランドや神社の境内の場合は広いので、四角ベースでピッチャーが投げた球を打つという普通の野球をする。面白かった。
 しかしまともな野球はできない。ボール(といっても軟球だが)はないし、グローブ、バットがないからだ。とくにグローブを個々にそろえるのは大変だ。高価だし、品薄だし、手に入れることなどできない。『少年』という雑誌に布グローブの作り方が書いてあるというので買ってもらい、ボロ布と綿で母につくってもらった。しかし、とてもじゃないが軟球は痛くて捕れない。ないよりましという程度だった。
 敗戦の翌々年、ようやく物資が出回り始め、野球道具も手に入るようになった。高価だったが、子どもたちはそれぞれ親に頼み込んでグローブやバットを買ってもらい(全員は持てず、お互いに貸し借りして使ったが)、まともな野球ができるようになった。小学六年の近所の仲間でチームをつくり、毎日小学校の校庭に集まって野球をした。大人の指導などまったくない。子どもたちだけで勝手に練習をした。早朝練習をやったり、三㌔も離れたところの小学校まで遠征してそこの子どもたちと試合をしたりもした。
 プロ野球は前年に再開されていた。新聞雑誌が巨人・阪神を大きく取り上げ、歴史が古いの何のというものだから熱烈な巨人ファン(現在は強烈なアンチ巨人だが)になった。そして、川上、大下を始め当時の八チームの有名選手の名前はほとんど覚えた。一年に一度くらいプロ野球の試合が山形で開かれる(二軍の場合もあったが)が、そのときには前日に友だちと毛布を持って球場に行き、一晩徹夜して入り口に並び、前のいい席をとろうとがんばったものだった。
 たまたま叔父が専売局(後の専売公社、現在のJT)の山形支局に勤め、そこの野球チームの選手になり、都市対抗野球などに出場したものだから、これにも夢中になって応援に行った。
 さらにスコアブックを買ってきて、記帳の仕方を自分で覚え、自分たちの試合の内容をつけたり、巨人の試合の中継放送を聞いてつけてみたりもした。ルールはもちろん自学自習だった。
 小学六年は、もう完全に野球漬けだった。プロ野球の選手を目指そうと、一人で練習に励んだりもした。

 やがてアメリカの映画が大量に日本に入ってきた。なかでも子どもたちに影響を与えたのは猿に育てられてジャングルの王者になったというターザンの映画シリーズだった。ターザンが叫ぶと,ジャングルの何処からかゾウ・ライオン・ゴリラなど鳥獣が集まってきて,彼を助けてくれる、それを見た私たちは、彼が木のつるにぶらさがって猿のように木々の間を移動するのを真似しようと木に縄を吊し、それにぶら下がって「ア~ア~ア~」と大声で叫びながらぶらんこのように揺らして移動したりして遊んだ。戦争ごつこはターザンごっこに変わったのである。
 中学校でハムレットの映画を見に連れて行った。その後に流行ったのはフェンシングの真似である。日本刀に見立てた棒きれを両手にもって振り回したかつてのチャンバラごっこは、片手を腰に片手に棒きれをもって戦う欧米式のチャンバラごっこに変わった。

 かつてアメリカ撃滅を目指した軍国少年は、アメリカの国技を愛し、アメリカの映画に傾倒する野球少年に転向してしまったのである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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