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隣りのT村の近距離「修学旅行」




          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(11)

          ☆隣りのT村の近距離「修学旅行」―AR君の場合―

 旧山形市の東南端に位置していた県立農事試験場と火葬場のところにある生家の畑(註1)、そこから南南東の方向にまっすぐの一本道が田んぼの中を走っていた。
 その先の一番最初の集落に高校の同級生AR君の家があった。彼の集落はそのころはまだT村だった(註2)。彼の集落のまわりは田んぼでまさに農村だったが、その背後つまり東側には奥羽山脈がせまっており、その麓は山村だった。
 西側を見ると田んぼがゆるやかに傾斜しながら下に広がっていた。さらに遠く西には前に話した白鷹丘陵と朝日連峰がそびえている。その白鷹丘陵までさえぎるものは何もなし、田畑だけなので遠くまでよく見渡せる。
 まず見えるのが前に述べた産業道路(旧国道13号線)だ。1.5㌔くらい離れているが、自動車が走るのが小さく見える。当時のことだから本当にたまにだが。上山から来たバスが産業道路沿いの集落の大きな倉庫の陰に入って見えなくなるのがAR君の家の二階からよく見えたものだという。
 その産業道路からさらに1㌔ほど離れたところを奥羽本線が走っているのだが、白い煙を吐きながら走る長い列車が遠くに小さく見える。これまたAR君の家からよく見え、汽笛や車輪の音も遠く聞こえたという。夜は列車が光の列となって動く。

 AR君たち子どもにとって汽車はあこがれだった。線路に行きたかった。目の前で走る汽車を見たかった。そこで彼らは次のような行動をとった。
 秋、学校行事のイナゴ捕りのとき、AR君と仲間の数人は学校からまっすぐに西の方向に向かう。イナゴ捕りに行くようなふりはするが、実際は捕らず、ひたすら稲刈り後の田んぼの中を歩く。やがて国道13号線にぶつかる。村にはないコンクリート舗装を味わいながら越える。自動車などめったに通らないから安心だ。線路までもうひと頑張り、元気を出してまた歩く。
 約1時間、ようやく線路に到着する(地理的に見て、私の生家の田んぼの近くの線路だろう)。2㍍くらいの高さの盛土の法面を登るとあこがれの敷石とレールだ。みんなで早速敷石に上がる。枕木・敷石・鉄路の入り混じった独特の線路の匂いをかぎながら枕木の上を数えながら歩いてみる。狭いレールの上を歩いてみる。落ちないでどれだけ歩けるか競争だ。レールに耳をつけて汽車の走ってくる音を聞こうとする。じっと聞いていると、レールから「サーッ」というような何か滑ってくるような不思議な音が聞こえてくる、汽車はまだ見えないが、あれは間違いなく汽車が近づいている音だ。「汽車が来るぞ!」、みんなは歓声をあげる。間違いない、遠くに小さく蒸気機関車が見えてくる。やがて目の前、あのあこがれの雄姿を見、轟音を聞くことができた。
 もっともっと遊んでいたい、でもイナゴを取らないわけにはいかない。30分くらい遊んでからもとの道を戻る。道と言っても田んぼの細いあぜ道だが、迷子になることはない。目標となる山を目指せばいいだけだからだ。やがて田んぼの向こう遠くに学校が見えてくる。その辺たりの田んぼから歩きながらイナゴがいれば捕まえる。こんな程度のイナゴ捕り、しかも線路往復・遊びで2時間以上浪費しているのだから、捕まえたイナゴの量はみんなよりもかなり少ない。肩身のせまい思いをしながら、イナゴの入った袋を先生に提出したものだった。

 昨年末、しばらくぶりに開かれた高校の同級会でこの話をAR君から聞いたとき、思わず腹をかかえて笑ってしまった。AR君たち子どもの気持ちがよくわかるからだ。比較的線路が近くてときどき遊びに行っている私たちでさえ線路で遊びたい(註3)のだから、ましてやだったろう。
 もちろん汽車にもいっぱい乗りたかっただろう。私もそうだった。

 彼は続けてこう言った。
 小学六年のとき修学旅行で山形駅から汽車に乗った。汽車がガタンと動き出した。その瞬間、向かい側に座っていた同級生が感極まったようにこう言った。
 「アッ、動いた」
 彼は生まれて初めて汽車に乗ったのである。AR君は驚いた、まだ汽車に乗ったことのない人もいたのだと。

 その話を聞いたとき、私も驚いた。AR君の通うT小学校は私の小学校の隣、その距離はわずか3㌔、街からそれしか離れていないのに、汽車に乗ったことのない小学生がいたとはと。
 もっと驚いたのはその修学旅行の行き先と日程が私たちとかなり違っていたことだ。海のある湯野浜・酒田ではなくて、同じ山形盆地のなかにある白岩発電所であり、それも日帰りだったというのである。

 白岩発電所はT村と旧山形市からいうとちょうど西北部、出羽三山(註4)の最高峰月山の麓の白岩村(現・寒河江市)にあるが、山形県で初めてつくられた発電所として県内では有名だった。
 この目的地に行くために小学校六年生だったAR君たちは山形駅まで歩き、左沢線(註5)の汽車に乗った。その発車のときにさきほどの友だちの言葉があったのだが、長々とつながった汽車が時間待ちのためか途中の駅の手前で停車し、蒸気機関車がシューシューと白い湯気を吐いていたのを今でも覚えているとAR君は言う。
 やがて左沢線の終点の手前にある羽前高松駅で下車し、三山電車(私たちはこう呼んでいたが、発足当初は三山電気鉄道が正式名称であり、私たちの小学校のころは山形交通三山線となっていた)に乗り換えた。こういう電車があるというのはみんなこのとき初めて知ったのだが、その白岩駅で下車し、発電所まで歩いた。そこで見た山の斜面に設置された太い送水管、轟音をあげて勢いよく回る発電機、たくさんの送電線に鮮烈な印象を受けたのを今も記憶しているとAR君はいう。
 その後また電車に乗って羽前高松駅に戻り、それから名刹の慈恩寺(註6)にお詣り、本堂の前で説明を受けた。
 そして羽前高松駅に戻って汽車に乗り、山形駅に到着、それからまた歩いて学校、それぞれの家に帰ったのだが、何時頃着いたかは覚えていないと言う(実はこの到着時間を私の問題としたいところなのだが、後で論議することにする)。

 これが小六の修学旅行なのだが、中学校のときはどうだったか、鮮明に思い出せないとAR君はいう。それで彼は昔の同級生に電話で聞いてくれた。ところが誰もわからず、「彼なら覚えているだろう」と言われてその「彼」に電話すると「自分はわからない、彼ならばわかるはず」、それでまたその彼に電話すると、また「彼ならば」ということで「たらいまわし」、結局誰も当時のことを覚えているものはいなかったとのこと、それを聞いたとき思わず笑ってしまった。もうそういう年齢なのだ、もしかするとあまりの激動の時代を生きてきたために頭はいろんなことでいっぱいであのころの修学旅行のことなど頭から追放されているのかもしれない。

 それでもAR君は必死になって記憶をたどってくれた。
 まず中一の修学旅行だが、それはなかったと思うとのことである。さきに登場してもらったST君たちは蔵王登山をしたといっているが記憶にないかと聞くと、そういわれてみれば学校に午前零時に集まって蔵王温泉に午前6時着、「あ、ちょうど6時間かかるんだ」と思った記憶があるという。しかし、このころは蔵王まで徒歩で登るのが当たり前(ましてや彼の地域は蔵王山麓、私たちの地域からすると蔵王にもっとも近いところに位置している)だったので、遠足だったのか、家族で行ったのか、はっきりした記憶はないという。いずれにせよ、修学旅行はなかった、蔵王行きがたとえあったとしてもそれは遠足でしかなかったということのようである。

 次に私たちの行った中二の松島旅行だが、これは間違いなくAR君たちも行った、日帰りだったはずだという。瑞巌寺の境内で撮った全員の記念写真が残っていたとのことである。
 彼の記憶に残っているのは瑞巌寺の本堂と、そこに行く参道の脇に掘られているたくさんの洞窟で、こんな洞穴で坊主が修行したのかと驚いたことだ。しかし、不思議なことに海や島々、遊覧船のことなど覚えていないとのことである。

 ところが中三となるとまた私たちと違ってくる。福島に行った、阿武隈川のほとりでみんなで撮った写真も残っている、でもどうして福島行きだったのか、福島のどこに行ったか、泊まったのかどうか記憶にないという。
 いずれにせよ私たちのように東京修学旅行ではなかったようだ。もし行ったなら必ず覚えているはず、ところがAR君を始め同級生の誰も覚えていないということは間違いなく東京には行っていないことを示すものである。
 また、宿泊もなかったのではなかろうか。もし泊まったら強烈な印象としてだれかは覚えているはずだからだ。

 とすると、私たちと同じなのは中二の松島旅行だけだ(中一の蔵王登山ももしかすると同じかもしれない、私の中学はなかったが)。そこで疑問がわいてくる。
 なぜ、小六のときに湯野浜ではなくて白岩だったのか。同じ盆地内のしかも西北を見ればはるか遠くではあってもあの辺だと指させる白岩なのか。なぜ盆地から飛び出さなかったのだろうか。列車でさえ見たこともない子どもがいるのだからましてや海を見たことのない子どももいるはず、そしたら湯野浜旅行で列車と海の二つを初体験させることができるではないか。なぜそうしなかったのか、あるいはそうできなかったのか。
 なぜ、中三のとき東京旅行ではなかったのだろうか。福島旅行でも野口英世記念館や白虎隊、猪苗代湖などの名所旧跡のある会津若松ならまだわかる(註7)けれども、どうして福島盆地・阿武隈川と言う中途半端なところにしたのだろうか。スイッチバック方式で急坂を登る奥羽本線の列車に乗せて見たかっただけなのだろうか。
 なぜ泊まりの旅行にしなかったのだろうか。泊まらなければならないほどの遠隔地・新しい世界を子どもたちに見させる、みんないっしょに泊まる、これも修学旅行の一つの目的なのではないか。
 私たちとは距離的にはきわめて近い地域の小中学校なのに、なぜこのような違いがあるのだろうか。それを次回考えてみたい。

(付記)
 中学三年の夏休み、私はAR君たちの白岩修学旅行とほぼ同じコースを課外活動でたどっている。
 私の入っていた社会研究部の顧問の先生に引き連れられて白岩義民(江戸時代半ば、白岩村を支配する藩の圧政に抗して一揆を起こし、そのさいに処刑された多数の指導者)の勉強に行ったときに、左沢線、三山電車を利用(私は初めて乗った)し、その勉強が終わった後に発電所、慈恩寺を見学して帰ったのである。
 なお、その時私は強烈な体験をしている。
 勉強、見学がすべて終わった後、羽前高松駅と慈恩寺の間を流れている最上川の川岸で昼飯を食べた。そのうちみんなが川に入って泳ぎ始めた。私は泳げなかったけれどもみんなといっしょに川に入って遊んだ。ところが深みにはまって溺れてしまった。同級生が助けてくれたのだが、水の中に沈んだときの深緑の水の色、ごぼごぼと言ういやな水の音、苦しい息、いまだに忘れられない。
 さらに、この夏休みが終わった後、NHK山形放送局のラジオ番組「夏休みの思い出」という座談会に私を含む数人の生徒が出ることになり(司会は部の顧問の先生だった)、そのなかで私がこの白岩義民の話と溺れた話をさせられた。放送局の中に入り、固く閉ざされた部屋の中で丸いテーブルをみんなで囲み、その真ん中にある大きなマイクに向かってしゃべる、これも生まれて初めての体験だった。
 こんなこともあって白岩旅行は忘れられない思い出となっているが、それに今度はAR君たちの修学旅行ということでも記憶に残る(残る期間は短いだろうが)ということになる。

(註)
1.16年5月9日掲載・本稿第八部「☆アケビの若葉・新芽」(1段落、註1、註2)参照
2.「T村」などと仮名を使ってもその実名は簡単にわかるだろうし、本稿でも他の個所では実名を使って書いている。しかし、本章ではAH君の場合はO村、IZ君はC村と仮名にしているので、それとの関連からここではT村の仮名を使わせてもらうことにする。
3.10年12月16日掲載・本稿第一部「☆遊びから始まる田畑の手伝い」(2段落)参照
4.山形県村山地方・庄内地方に広がる羽黒山、月山、湯殿山の総称で、明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山として有名であり、この三山参りに全国から多くの参詣者を集めていた。
5.12年12月6日掲載・本稿第五部「☆日本の鉱物・エネルギー資源と原発」(2、5段落)参照
6.慈恩寺については本稿の下記掲載記事のなかでちょっとだけ触れているが、国指定史跡にもなっており、いろんな意味で一見の価値がある、と私は思っている。
  12年8月29日掲載・本稿第四部「☆神社と明治維新」(4段落)
7.たとえばかつての仙台の小六の修学旅行は会津若松が目的地で、周辺の温泉に一泊となっていた。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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